引きこもりの15歳が単身プエルトリコへ!新日本の異端児に憧れたハイビスカスみぃが歩んだ夢の時間までの“20年”

引きこもりの15歳が単身プエルトリコへ!新日本の異端児に憧れたハイビスカスみぃが歩んだ夢の時間までの“20年”

日本のプロレス界で異彩を放ったケンドー・カシン(左)に憧れを抱き、レスラー人生を歩み始めたハイビスカスみぃ(右)。彼女の人生はいかなるものだったのか。写真:萩原孝弘

「ずぅーと、あなたを探して、あなたを探して」

 アップテンポの登場曲に合わせ、ハイビスカスみぃは軽快に四角いリングに向かった。どこかソワソワした仕草で対戦相手を待つ彼女の目に写ったのは、「ファンの頃から好きで好きで、憧れて憧れた」ケンドー・カシンの姿。新宿FACEで行なわれた自らの20周年記念試合は、歌詞の通りに「あなたを見つけた」ステージと化した。

「カシンさんがいたからプロレスラーを目指しました」

 奈良県天理市の中学生だった少女は、「学校に通えなくなってしまったんです。いろいろありまして……」と不登校になった。そんな悶々とした日々に光を照らしてくれたのが、プロレス。何よりもケンドー・カシンの存在だった。

「中学生くらいの時代って、『ちょっと悪い人がカッコいい』みたいなところあるじゃないですか。不良に憧れちゃうみたいな。当時の新日本プロレスでは異端児と呼ばれていたカシンさんでしたが、普段悪いことばっかりしてるのに、ポンッて寄付とかしちゃったりするのがね、本当にかっこよかったです」

 しっかりとした強さと奇行とさえ例えられたパフォーマンス。そのなかに垣間見える人間味。カシンの持つギャップに、「なんだったら結婚したいと思ってましたよ! カシンさんは引きこもりのヒーローでした!」と、内向きだった少女の心は一転、外の世界へとベクトルが向けられるようになった。
 抑えられないパッションを両親に告白した。しかし、「『学校に行けてない人間がレスラーになれると思ってるんか?』って正論を言われました。だから勉強はわからない、友だちもあまりいなかったけど、とにかく一日も休まないで通い続けました」と夢のために己と戦い、そして“勝利”した。若干15歳、中学を卒業したばかりの少女が選んだ道は、なんとプエルトリコだった。

 2000年TAKAみちのくが設立した「KAIENTAI DOJO」の2期生としてプロレスラーを目指し、その身ひとつで日本を飛び出す決意を固めた。

 特段恵まれた体躯を持つわけでもない。最近まで不登校だった少女のぶっ飛んだ決断。当然、「父は反対していました」と語るハイビスカスみぃは、「もちろん私のことを考えて『せめて高校には行きなさい。それからでも遅くはない』と」と当時を振り返る。

「でも母が『目的もなく、ただ何となくで高校や大学に行く人が多いなかで、みゆき(本名)はプロレスラーになりたいっていう夢を持ってプエルトリコに行くんやから、お母さんそっちの方が何倍もステキやと思う』と言ってくれました」

 母の強力な後押しのおかげで、カリブ海行きは決定した。当事者もビックリするほどのアシストだった。

「でも今考えたらすごいなと。わたし自分の子どもがプエルトリコに行くなんて言い出しても、絶対に同じことは言えないです」「なんとしてもプロレスラーになる!」

 強い覚悟を抱いて到着したプエルトリコ。それは想像以上の苦労の毎日だった。「当たり前ですが練習はキツかったです。男子と女子も同じメニューだったし……。しかも私は一番若くて、付いて行くのもやっとで。気は利かないし、すぐに泣くし。ハッキリ言って落ちこぼれでした」と語る。

 涙を流し続けたレスラー修行。さらに「言葉の壁も大変でしたね。英語も街の方でしか通じないし、身振り手振りでなんとかやり過ごしていました」と日本とは全く違う環境にも苦しめられた。

 リタイアする仲間も現れる環境下で、歯を食いしばって鍛錬を続けたハイビスカスみぃは、2年後の1月4日にプエルトリコで「アップルみゆき」としてデビューを果たした。

「よくプロレスラーになれたなぁと思います。まぁ入寮したその日にパスポートとチケットを没収されたので、もうやるしかなかったっていうのもありますが。今振り返ると、どれもこれもいい経験ばかりですね」

 同年4月にはK-DOJOの旗揚げ戦で日本デビュー。その後は千葉に拠点を移したKAIENTAI DOJOに腰を据え、各団体を駆け回りベルトも奪取するなど、目覚ましい活躍を見せた。
 2018年には、K-DOJO退団を決意。長く活動するなかで、団体での方向性にも違和感を感じていたハイビスカスみぃは、「所属で守られている立場なのに、文句言うのってかっこ悪いなって思って。だったら自分でやろうと。それでダメなら諦めもつく」と不退転の決意でフリーランスへ転身した。

 己の実力で勝負する世界で「千葉や東京や大阪で、いろんな方にお世話になって戦い続けましたね。わたしは本当に人に恵まれてるなと思います。余裕は無いですが、バイトもせずプロレスだけでやっていけてましたしね」と、厳しいプロレス界の荒波も、持ち前のバイタリティで超え続けた。

 フリーランスで躍動するなかで、転機が訪れた。「グルクンさんから『沖縄で団体をやろうと思ってる』って声をかけてもらった時は運命だと思いました。ずっとフリーで寂しかったのもあるし、必要とされるのが嬉しかったんです」と、当時グルクンダイバー(現グルクンマスク)として活動していた男の挑戦に共感した。

「あとは一度沖縄においでと言われて遊びに行ったら、ありとあらゆるステキな場所に連れて行ってもらって、美味しいものを食べて、キレイな海を見て、帰る頃には、『もうここに住む!』ってなりました。見事に術中にハマりましたね」

 2013年、“アップルみゆき”から“ハイビスカスみぃ”とリングネームも変更。琉球ドラゴンプロレスリングの旗揚げメンバーとして参加した彼女は、いまも日本最南端のプロレス団体で、ヒールとしてリングを荒らす日々を送っている。 そして「このタイミングしかない」会場、年齢、記念試合と様々な条件がマッチした22年3月4日、ついにケンドー・カシンとのシングル戦が実現した。

 試合内容は“得意”の嘘泣きや、盟友・乱丸をセコンドにカナシバリなど“ハイビスカスみぃワールド”が全開。最後はカシンの必殺・腕ひしぎ十字固めの前にタップアウトし、9分5秒の一戦はゴングが鳴った。

 ハイビスカスみぃは、「イメージのままのやりたい放題できました。真っ向勝負で挑むと思われていたお客さんが多かったと思うんですけど、私は自分のスタイルを貫きたいと思いまして。これが私の20年やってきたことなので、私は満足しています!」と夢の時間を楽しんだ。その「なんとかリングで涙は出さなかった」と話すホッとした表情は、何よりも印象的だった。

 試合後にカシンから控室に呼ばれると、サプライズで"20周年おめでとう”のメッセージ付きのマスクのプレゼントが待っていた。「バックステージで号泣しちゃいました」と赤い目を腫らしての笑顔は、あの頃の少女に戻っていた。
 疾風怒濤で駆け抜けたレスラー人生。憧れた戦士とのシングルマッチも終え、「今はできるだけ長くレスラーでいたいですね。やっぱりプロレスが大好きだし、少しでも長くリングに立っていたい」と話す本人は、「『みゆきばぁちゃん、まだ現役らしいで!』って言われるくらい! ギネスに認定されるようになるには何歳まで続ければいいのでしょうか?」とおどけるが、いつの間にか達成してしまうような雰囲気を漂わせる。

「まぁでもそれはあくまでも現時点での話で、もしかしたらそれまでに他にやりたい事が見つかるかもしれないし。ってなったら来年やってるかどうかもわからないじゃないですか?やっぱりこれからもテキトーに生きていくんだろうなと思います」

 底抜けに明るい笑顔で、どこまでも楽天的に未来を見据えるハイビスカスみぃ。自然体のなかにハイビスカスの花言葉通り「精細な美」と「勇敢」を兼ね備える稀有な美女レスラーは、これからも“私を探して”、戦い続ける。

取材・文●萩原孝弘

【関連記事】お嬢様学校から銀行員、そしてプロレスラーに。才女・雪妃真矢はなぜリングを目指したのか?「何事も常に挑戦の思いで」

【関連記事】消えない背中の傷に流血。なぜ、世羅りさは“女子未踏の領域”となるデスマッチを続けるのか?「耐えて、生き様をみせる」

関連記事(外部サイト)