共通点は“ニックス憎し”。ミラー&ジャクソンの“ヒール・コンビ”が誕生するまで【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

共通点は“ニックス憎し”。ミラー&ジャクソンの“ヒール・コンビ”が誕生するまで【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

ニックスが嫌いなミラー(右)と、ニックスに捨てられたジャクソン(左)。“共通の敵”がいたことも、2人をより結束させた。(C)Getty Images

2005年にレジー・ミラーが引退したとき、ニューヨークのバスケットボールファンは胸を撫で下ろしたはずだ。なにせ彼はニューヨーク・ニックスの最大の宿敵だった。プレーオフでは幾度となくクラッチショットを決められたあげく、「ニックスはビビリ野郎の集団さ」などと屈辱的な言葉さえ投げつけられたからである。

 そのミラーの最高の親友が、生粋のニューヨークっ子で元ニックスのマーク・ジャクソンだったのは、何とも因縁めいている。
 ■ハンデを克服したミラーと“ストリートの雄”ジャクソン

 ミラーの人生は、誕生の瞬間から逆境への挑戦だった。生まれつき足が不自由で、医者には「この子が歩けるようになるとは思えない」と宣告されていた。それでも5歳までには矯正器なしで歩けるようになり、やがてスポーツに親しむようになった。

 ミラー一家は全員スポーツが得意だった。レジーは、MLBカリフォルニア(現ロサンゼルス)・エンジェルスの捕手となった兄ダレルの影響で、まず野球を始めた。父には「ダレル以上に素質がある」とまで誉められたが、やがて彼の関心はバスケットボールへと向かっていった。

 ただ、ミラー家で最高のバスケットボール選手はレジーではなく、姉のシェリル。彼女は史上最高の女子選手とさえ言われるほどの存在であった。

「俺が試合で39点取って、鼻高々で家に帰ってきたら、姉さんは105点も取っていたんだよ」

 偉大な姉に負けないよう、ミラーは毎朝何百本もシュート練習をした。その甲斐あって、 高校生の時にはカリフォルニア州でも指折りのシューターとなっていた。

 ちょうどその頃、ミラーはニューヨークの高校との試合で、1人のポイントガードに目を奪われた。自由自在にパスを繰り出し、ゲームを完全にコントロールしていたその男こそ、ジャクソンだった。

 ジャクソンの華麗なパス回しはストリートボールで身につけたものだ。少年時代は地元の伝説的なクラブチーム、ガウチョズでプレーし、高校では市大会のアシスト記録を樹立。大学もニューヨークのセントジョンズ大に進み、4年生の時にはオールアメリカンにも選出された。 ミラーもUCLAで史上2位の得点記録を打ち立てたが、プロの評価は2人に対して厳しかった。1987年のドラフトではミラーが11位、ジャクソンは18位と、予想よりも低い順位での指名。インディアナ・ベイサーズは当初、11位でジャクソンを指名する約束をしていたが、当時のジャック・ラムジーHC(ヘッドコーチ)がシューターを欲しがったため、ミラーに変更されたのだった。

 ジャクソンは頭にきたが、すぐにその不満は満足感が取って代わった。18位で彼を指し名したのが、地元のニックスだったからだ。

「ニックスの指名順位が近づいてきた時はドキドキしたよ。頼むからほかのチームは指名しないでくれって、強く願っていた」

 ニックス・ファンも、ジャクソンを好意的に迎え入れた。これとは対照的に、インディアナのファンはミラーの指名にブーイングを浴びせた。この年NCAAトーナメントを制した、地元インディアナ大のスティーブ・アルフォードの獲得を望んでいたからだ。それを知ったミラーは、より一層やる気を燃やした。絶対に一流選手になって、ファンを見返してやろうと決意したのだ。
 ■逆境を跳ね返すことに闘志を燃やし続けた若手時代

 ミラーはすぐに実力を証明し、ほどなくブーイングは歓声に変わった。彼の武器は、何と言っても正確なジャンプショット。美しいフォームに加え、リリースも素早く、しかもとてつもなく遠い地点からも平然と決めてみせた。

 自分でシュートチャンスを作るのは苦手だったが、コートを休むことなく駆け回り、ノーマークの状態を作り出すことには長けていたミラー。2年目は先発に昇格し平均16.0点、3年目は24.6点のハイアベレージでオールスターにも選ばれた。

 一方のジャクソンは、プロ入り当初の活躍はミラーをしのぐほどだった。シュート力の低さとスピードのなさを理由に、プロでの可能性に疑問を投げかける声も多かったが、ジャクソンの創造性に富んだゲームメーキング能力は、欠点を補って余りあった。 1年目から先発PG(ポイントガード)の座を射止めただけでなく、868アシストでオスカー・ロバートソン(元シンシナティ・ロイヤルズ/現サクラメント・キングスほか)の持っていた新人記録を更新。平均10.6アシストはジョン・ストックトン(元ユタ・ジャズ)、マジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)に次いでリーグ3位、平均2.5スティールも同6位だった。

 懸念された得点力も平均13.6点と合格点の数字。シュート力は確かになかったが、小柄ながら頑丈な肉体を利用し、ポストプレーで得点を重ねた。ニックスは前年より14勝も勝ち星が増加。ジャクソンは並み居る上位指名選手を尻目に、新人王の栄誉に輝いた。

 2年目には早くもオールスターに選ばれるほどの活躍ぶりだったが、華麗なパスでファンを沸かせる一方、ミスも多く、首脳陣の信頼は徐々に失われていった。やがて同じニューヨーク出身のロッド・ストリックランドやベテランのモーリス・チークスに先発の座を奪われるようになると、自分のプレーを棚に上げて首脳陣を批判。次第にチーム内でも孤立し、1992年にはロサンゼルス・クリッパーズへトレードされてしまった。
 ニューヨークを追われたのは堪えたが、再び十分な出場時間を得てジャクソンは蘇る。HCのラリー・ブラウンとの出会いも大きかった。自身も優秀なPGだったブラウンは、粘り強い指導でジャクソンの粗さを取り除いていった。

 その頃ミラーは、リーグ有数の3ポイントシューターとしての評価を固めていたが、同時にリーグ最悪のトラッシュトーカーとして悪名も高かった。彼とマッチアップする選手は、際限のないしゃべりで集中力を乱された。マイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)にはパンチを見舞われ、ジョン・スタークス(元ニックスほか)にはコートの外まで追いかけ回されたが、ミラーの口が封じられることはなかった。

 もちろん敵地のファンには目の敵にされ、常にブーイングの的となった。しかし、その状況をミラーはむしろ楽しんでいた。「俺は敵地の方が燃えるんだ。全部の試合が敵地だったらいいのにね。シュートが決まって連中を黙らせる以上の快感はないよ」

 とりわけミラーの関心をかきたてたのが、ニックスとの対戦だった。「俺はニックスが大嫌いなのさ」と公言するミラーに、マディソンスクエア・ガーデンの観客は、ほかのどこよりも強烈な野次を浴びせた。
  1993−94シーズン、ブラウンをHCとして迎えたペイサーズは、ブレーオフのカンファレンス決勝でニックスと対戦した。数々の伝説に彩られる“ミラー・タイム”の第一章が記されたのは第5戦。第4クォーターだけで5本の3ポイントを含む25得点をあげ、ベイサーズに逆転勝利をもたらしたのだ。最終的にはニックスがファイナルへとコマを進めたが、この試合でミラーは一躍全国区のスターとなった。(後編に続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2006年1月号掲載原稿に加筆・修正。

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