モーニング&ハーダウェイーー数々の苦難を乗り越え、戦い続けたヒートのタフガイ・コンビ【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

モーニング&ハーダウェイーー数々の苦難を乗り越え、戦い続けたヒートのタフガイ・コンビ【NBAデュオ列伝|前編】<DUNKSHOOT>

モーニング(右)は1995年、ハーダウェイ(左)は96年にヒートに加入。2人のオールスター選手獲得でチームは徐々に成績を伸ばしていった。(C)Getty Images

■鮮烈なNBAデビューから一転チームを追われる不運

 2000年のシドニー・オリンピック。アメリカの男子バスケットボールチームは、苦戦しながらも全勝で優勝した。喜びに沸くチームの中には、マイアミ・ヒートのチームメイト同士である、アロンゾ・モーニングとティム・ハーダウェイの顔もあった。

 シドニーに向かう前、一緒にトレーニングを積んだ甲斐あって、2人は申し分のない活躍を見せた。ハーダウェイはチーム最年長らしくリーダーシップを発揮し、モーニングはチームで唯一のセンターとして奮闘した。

 金メダルを手に凱旋帰国した2週間後に悲劇が待ち受けていようとは、この時の2人には思いもよらなかったであろう。

 初代ドリームチームが結成された1992年に比べると、この頃には新鮮さやインパクトこそ薄れていた。しかしそれでも、ドリームチームに選ばれることは大きな名誉であった。とりわけ、ハーダウェイにとっては感慨深いものがあった。

 ハーダウェイは89年ドラフト14位で、ゴールデンステイト・ウォリアーズに入団。平均14.7点、8.7アシストはリーグ9位という堂々たる活躍だった。同じ年にデイビッド・ロビンソンさえいなければ、間違いなく新人王になっていたはずだ。
  成績もさることながら、周囲を唸らせたのはドリブルの見事さだった。「彼は魔術師のようにボールを操れる。まるで手の中にボールがないようにさえ思えるんだ」(当時のウォリアーズHCドン・ネルソン)。特に左右の手で交互にドリブルし、瞬時にディフェンダーを抜き去るクロスオーバードリブルは、わかっていてもディフェンスできないと評された。

 この“キラークロスオーバー”と、素早いモーションから繰り出されるロングシュートを武器に、ハーダウェイは着実にスターへの階段を上っていった。2年目の90−91シーズンには、平均9.7アシスト(リーグ5位)、2.61スティール(同4位)と2部門でトップ5入りを果たし、得点でも22.9点のハイアベレージをマーク。

 ミッチ・リッチモンド (23.9点)、クリス・マリン(25.7点)とともに得点を稼ぎまくり、“RUN-TMC”の呼び名で人気を博した。当時大人気だった3人組ラッパーのRUN‐DMCにひっかけ、3人のファーストネームの頭文字を組み合わせて作ったこのニックネームは、コートを縦横無尽に走り回る彼らのプレースタイルにもビタリとはまる秀逸なネーミングだった。

 93年10月には、翌年に開催される世界選手権のメンバー“ドリームチーム2”にも選出された。ところが発表の2週間後、練習中に左ヒザをひねり、前十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。選手生命を左右しかねないほどの大ケガで、ドリームチームを辞退しただけでなく、93-94シーズンを全休しなくてはならなくなった。
  実はそのドリームチーム2には、モーニングも選ばれていた。ハーダウェイのケガがなければ、ヒートでチームメイトになる以前に2人のコンビが実現していたことになる。

 モーニングは92年ドラフト2位でシャーロット・ホーネッツに入団。同期にシャキール・オニールがいたため新人王は逃したが、平均21.0点、10.3リバウンド、3.5ブロックという新人離れした成績を残した。

 彼の真骨頂は、闘志を前面に押し出してのプレーだった。208センチの身長は、センターとしては小さい部類に入る。それでも他のビッグセンターと互角以上に渡り合えたのは、その気迫があればこそだった。

 だが、モーニングがホーネッツに在籍したのはわずか3年間だった。ホーネッツは、モーニングの1年前に入団したラリー・ジョンソン(LJ)と、12年8400万ドルという当時のリーグトップクラスとなる超高額で延長契約を結んだため、モーニングに対して同様の高額契約をオファーできなくなってしまったのだ。

 95-96シーズン開幕直前、モーニングはグレン・ライスらとの交換で、モーニングはヒートへとトレードされる。
  一方、1年のブランクを経てカムバックしたハーダウェイは、プレーに以前のような切れ味を欠いて苦しんでいた。おまけに、彼のいない間にウォリアーズにはラトレル・スプリーウェルという新スターが誕生していた。

 ハーダウェイとスプリーウェルは、どちらも機会があればどんどんシュートを打つタイプであり、シュートチャンスを巡って対立が生まれた。しかもハーダウェイはネルソンHCのお気に入りだったが、スプリーウェルはネルソンとは犬猿の仲。こうしたことが積もり積もって2人の関係は悪化の一途をたどり、ついにハーダウェイは96年2月、ヒートへトレードされてしまったのだった。

 ヒートは、1988年にエクスパンションチームとして誕生して以降、7年間で勝ち越しがたった1度しかない弱小球団だった。だが、95年にGM兼HCに就任したパット・ライリーは、負け犬根性を払拭するため次々と血の入れ替えを行なう。モーニング、ハーダウェイの獲得もその一環だった。(後編に続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2005年11月号掲載原稿に加筆・修正。
 

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