重病に倒れたモーニングを支えたハーダウェイ。兄弟愛にも似た熱い友情を築いた2人【NBAデュオ列伝|後編】<DUNKSHOOT>

重病に倒れたモーニングを支えたハーダウェイ。兄弟愛にも似た熱い友情を築いた2人【NBAデュオ列伝|後編】<DUNKSHOOT>

コンビでの優勝は叶わなかったが、熱いプレーでファンを魅了したハーダウェイとモーニング。両者の背番号はヒートの欠番となっている。(C)Getty Images

■天敵ニックスと血で血を洗う激しい肉弾バトルを展開

 ヒートのハーダウェイ獲得の成果は、早くもライリー就任2年目の96−97シーズンに現われた。球団記録の61勝でアトランティック・ディビジョンを制覇。プレーオフでもオーランド・マジックとニューヨーク・ニックスを撃破し、カンファレンス決勝で王者シカゴ・ブルズに敗れたものの、一躍リーグの強豪チームとして認められる存在になった。

 快進撃の原動力となったのが、ケガの後遺症から解放されたハーダウェイだった。平均20.3点、8.6アシストとほぼ全盛期に近い数字を残しただけでなく、ここ一番での勝負強さも際立っていた。

 殿堂入りの名コーチ、ジャック・ラムジーは、「マイケル・ジョーダンを別にすれば、ハーダウェイこそリーグ最高のクラッチプレーヤー」と称賛した。

 もうひとつ見逃せないのが、他球団から移籍した選手ばかりで構成された寄せ集めチームを統率した点だった。

「ティムはリーダーとしての役割を完璧にこなしてくれた。彼以外に、私が自分のチームに欲しいと思うポイントガードはいない。チームのMVPだけでなく、リーグ全体のMVPでもおかしくない」とライリーは断言した。

 実際、MVP投票では4位にランクされ、初めてオールNBA1チームにも選出されるなど、ライリーの評価は決して身びいきではなかった。
 「チームメイトになるまで、ティムがこれほど素晴らしい選手だとは思っていなかった。彼のような選手がいて俺たちは幸運だよ」

 モーニングもハーダウェイの存在感を認めていたが、彼自身はやや壁にぶつかっていた。攻撃のバリエーションが限られていること、しばしば不注意なミスをすること、故障が多いこと。そして何より、感情を抑制できずにファウルトラブルに陥る悪癖など、克服すべき課題が山積みだった。

「アロンゾも冷静にプレーすることの大切さはわかっているんだが、試合になるとどうしても熱い部分が頭をもたげてくるようだ」とライリーも頭を悩ませた。

 そして、この欠点が最悪の形で出てしまったのが、97-98シーズンのプレーオフ1回戦、対ニックス第4戦だった。

 ライリーはヒートに移る直前まで、ニックスのHCを務めていた。お互いに激しいディフェンスを売りとする両チームの対戦は常に白熱し、前年のプレーオフではヒートのPJ・ブラウンがニックスのチャーリー・ウォードを投げ飛ばすなど、遺恨対決の要素はそこかしこにあった。 問題の第4戦は、ニックスがリードしたまま終わろうとしていた。ところが、残りわずか数秒の場面で、モーニングがいきなり相手選手にパンチを振るったのだ。

 その相手とはかつての僚友で、当時ニックスに移籍していたLJ(ラリー・ジョンソン)だった。モーニングの気の短さを熟知しているLJは、フィジカルなディフェンスを展開し、モーニングの平常心を乱していたのだ。

 ニックスのジェフ・ヴァンガンディHCが必死にモーニングの足にしがみついて暴走を止めたため、流血の事態は避けられた。だが、当然ながらモーニングは続く第5戦の出場を禁じられ、大黒柱を失ったヒートは1回戦で敗退してしまった。

「チームメイトに申し訳ない。とんでもない過ちを犯してしまった」

 モーニングは落胆したが、彼に対して非難が集中するのは避けられなかった。才能はあっても感情を抑制できない暴れん坊のイメージは、これで決定的になってしまった。

 これはモーニングにとっては耐え難いことだった。元々彼は、虐待された子どもを救うためのキャンペーンに率先して取り組むなど、心優しい性格の持ち主。自分のためにも、チームのためにも、感情的な行動を慎むことを彼は心に誓った。

 高い代償を払ったが、この一件を機にモーニングは選手として一皮むけた。99年には最優秀ディフェンス賞を受賞、プレゼンターのビル・ラッセル(ボストン・セルティックス8連覇時の名センター)からも、「君こそ現役最高のセンターだ」との賛辞を浴びた。
  この年、ヒートはイースタン・カンファレンスの最高勝率を残し、プレーオフ第1シードを獲得した。ところが因縁のニックスによって、1回戦敗退の屈辱を味わわされてしまう。しかもニックス勝利の原動力となったのは、ウォリアーズから移籍してきたスプリーウェルだった。勢いに乗ってNBAファイナルにまで進出したスプリーウェルやLJが脚光を浴びる姿に、モーニングとハーダウェイは悔しさを噛みしめていた。

 2000年のプレーオフも、ヒートとニックスはカンファレンス準決勝で対決。第7戦、残り1分半の場面でハーダウェイが逆転の3ポイントをねじ込んだが、最後にパトリック・ユーイングに決勝シュートを決められ、またしても苦汁を飲まされた。

■重病に倒れた相棒を支える兄弟愛にも似た熱い友情

 失意のシーズンに多少の慰めを与えてくれたのが、オリンピックでの金メダルだった。FAとなって一時は移籍が噂されたハーダウェイもヒートと再契約。今度こそ悲願のファイナル進出に向け準備を整えていたところに、思わぬ悲報がもたらされた。

 それは2000年10月18日のことだった。モーニングが腎臓疾患のため、シーズンを全休する予定であることを発表したのだ。

「人生を普通に送れるように、子どもたちの成長を見守るために、家族との時間を大切にするために、健康な状態に戻るのが一番の目標だ。そしてもし状況が許すなら、また愛するバスケットボールをやりたい」 記者会見でモーニングはこのように語り、担当医師も治療が上手くいけばシーズン中の復帰も不可能ではないことを示唆した。だが、その一方で慢性的な腎不全に陥る危険性があることも指摘した。

「彼に会ったら、泣き崩れてしまうのではと心配だったよ。感情を表に出さないようにするのは大変だった」

 平静ではいられなかったハーダウェイだが、チームの窮地を救えるのは自分しかいないことを知っていた。ハーダウェイを中心としてまとまったヒートは、見事にプレーオフ進出を決める。そして01年3月7日、モーニングは奇跡的にシーズン中の復帰を果たした。

「うれしいけど、彼の健康が心配だ。プレーできるかどうか以前に、彼が大丈夫なのかどうか、はっきりさせてもらいたい。それが友人としての率直な気持ちだ」

 ハーダウェイの憂慮をよそに、モーニングは病み上がりとは思えないプレーを披露した。13試合、平均23分強の出場で13.6点、7.8リバウンド。やはり並の選手ではないことを実証した。

 しかし、毎日14錠もの薬を飲み、食餌療法を続けながらのプレーには無理があった。プレーオフではまったく精彩を欠き、1回戦で古巣のホーネッツに3連敗。「モーニングが復帰したことで、かえってチームのバランスが悪くなった」という声すら囁かれた。
  これがモーニングとハーダウェイのコンビにとっては最後の共演になった。01年、ハーダウェイは恩師ネルソン率いるダラス・マーベリックスへと移籍。

 ハーダウェイの勝負強さと統率力を欠いたヒートは7年ぶりにプレーオフ進出を逃し、ハーダウェイ自身も移籍後は急速に衰え、03年にインディアナ・ペイサーズで10試合のみ出場したのを最後に引退した。

 モーニングも再び症状が悪化した02−03シーズンは、1試合も出場することができなかった。03年にはヒートを去り、ニュージャージー・ネッツと契約して再出発を期したものの、1か月プレーしただけで再び引退を表明。腎臓の移植手術に踏み切った。

 今度こそ復帰はないだろうと思われたが、04−05シーズンの開幕戦にはネッツのジャージーをまとったモーニングの姿があった。 対戦相手は古巣のヒート、マッチアップ相手は同期のライバル、シャックだった。

 その後トロント・ラプターズを経て、シャックのバックアップ役として古巣ヒートと契約。マイアミでの復帰戦、観客はかつてのヒーローの帰還に惜しみない拍手を送った。

「アロンゾ・モーニングを一言で表現するなら、タフな男。精神的にも、肉体的にもね。彼のことを誤解している人もいるかもしれないけれど、あれほど素晴らしい男はそうはいないよ」。

 このように語るハーダウェイもまた、何度も逆境を乗り越えたタフな男だった。いずれもキャリアの絶頂期に大きな障害に見舞われながら、そうした不運をバネに、決して諦めることなく戦い続けたモーニングとハーダウェイ。彼らのそうした姿はスポーツの枠をも超え、数字や結果だけでは測ることのできない感動を我々に与えてくれたのである。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2005年11月号掲載原稿に加筆・修正。
 

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