“史上最高のディフェンダー”“究極の勝利者”“人種差別と戦った闘士”。永遠に語り継がれるラッセルの伝説【NBAレジェンド列伝・後編】<DUNKSHOOT>

“史上最高のディフェンダー”“究極の勝利者”“人種差別と戦った闘士”。永遠に語り継がれるラッセルの伝説【NBAレジェンド列伝・後編】<DUNKSHOOT>

11度のリーグ制覇を成し遂げるだけでなく、コート外では人種差別とも戦ったラッセル。彼の名は永遠に語り継がれることだろう。(C)Getty Images

■プロスポーツ界初の黒人HC、ラッセルこそ究極の勝利者

 こうした活躍の陰で、ラッセルは人種差別とも戦っていた。彼がNBA入りした1950年代は、公民権運動が盛んになる前の時代。白人のチームメイトとは、宿泊や食事の場が別々ということも珍しくなかった。彼がスーパースターとなってからも待遇は改善されず、本拠地のボストンでも「人種差別の見本市」と表現するほど不快な目に遭い、「差別問題への取り組みが甘い」とボストン市当局を公然と非難したこともあった。

 次第にラッセルは気難しく、人を寄せつけない人間になっていった。メディアへの応対だけでなく、ファンにサインを求められても頑固に拒否。1972年に背番号6が永久欠番になった時も「セレモニーは観客のいないところでやってくれ」と希望し、関係者だけで執り行なった。1975年のバスケットボール殿堂入り式典にも欠席。その頑なな態度は、白人と黒人の違いはあっても、同じボストンのスポーツ・ヒーローだったテッド・ウィリアムズ(MLB)と共通する部分があった。

 人一倍人種問題に敏感だったラッセルが、アメリカ4大プロスポーツで最初の黒人ヘッドコーチになったのは必然だったのかもしれない。1966−67シーズン、球団社長の座に退いたアワーバックは後継者にラッセルを指名した。
 「引き受けたのは“黒人で初めて”という肩書きのためではない。それまでもキャプテンとして、レッドが退場になった時に指揮を執っていたからね。私の試合への理解度や統率力を評価されたからだと思っている」

 兼任コーチ初年度こそ、チェンバレンが加入したフィラデルフィア・セブンティシクサーズに苦杯を喫し、連覇が途切れてしまったが、1968年は覇権を奪回。続く1969年、現役最後のシーズンも苦しみながら11度目の栄冠を勝ち獲った。プレーオフ第7戦の戦績は通算10戦全勝。ラッセルが究極の勝利者であることを如実に物語る数字だ。

■究極の勝利者として永遠に語り継がれる存在

 1969年を最後にヘッドコーチからも退き、セルティックスを退団。1973年にはシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)のゼネラルマネージャー兼ヘッドコーチとして復帰し、チームを4年間で2度プレーオフに導いた。その後テレビ解説者を経て、1990年にサクラメント・キングスのヘッドコーチとなったが、この時は1年と持たなかった。
  以来ラッセルは、ずっと人目を遠ざけた暮らしを送っていた。しかし1990年代末頃からは、家族や友人の勧めもあって公の場に顔を出し始めた。依然としてサインには応じなくとも、ファンと握手をして言葉を交わすようにはなった。

「彼も丸くなったね。もともと仲間内では、ユーモアのセンスがあって結構魅力的な男だったんだ」 (クージー)。 長らく彼を覆っていた高慢で謎めいた人物とのイメージは、少しずつ取り払われていった。
  1999年にはチェンバレンやジャバー、ラリー・バード(元セルティックス)らが見守るなか、再度の永久欠番セレモニーに出席し、大勢の観客の拍手を耳にして涙を流した。決して愉快な経験だけではなかった現役時代。彼の心の中で固まっていたそうした負の感情も、長い年月を経て氷解したのだった。

 シャキール・オニールとコビー・ブライアント(ともに元レイカーズ)に忠告して不和を解消させたように、現代のスーパースターたちも彼の存在には一目も二目も置いていた。“史上最高のディフェンダー”“究極の勝利者”“人種差別と戦った闘士”として、ラッセルの名は永遠に語り継がれていくだろう。

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2009年7月号原稿に加筆・修正

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