【名馬列伝】並み居るエリート血統馬を打ち破った‟マイナー種牡馬”の仔、セイウンスカイが放った檜舞台での輝き

【名馬列伝】並み居るエリート血統馬を打ち破った‟マイナー種牡馬”の仔、セイウンスカイが放った檜舞台での輝き

皐月賞と菊花賞を制したセイウンスカイ。変幻自在のペース配分でエリート血統を持つ馬を打ち破った。写真:産経新聞社

ある高名なブリーディングオーナーが言ったことがある。
「結局、種牡馬が成功するか失敗するかは、やってみないと分からない」

 たとえば、1996年に英ダービー、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスステークス、凱旋門賞(いずれもG1)を制して”奇跡の馬””神の馬”とも呼ばれたラムタラ。父が英クラシック三冠制覇を成し遂げたニジンスキー、母が英オークスを制したスノーブライドという”超”の字が付く良血馬であり、戦績、血統ともにケチの付けようがない名馬といえる。
 
 ところが種牡馬として約44億円でシンジケートが組まれて鳴り物入りで日本に輸入されたものの、JRAの平地重賞ではメイショウラムセスが富士ステークス(GⅢ)を勝ったのが目立つぐらいで、まったくの不振に終わった。

 その逆に、1972年に輸入されたダンシングキャップは、自身は重賞未勝利でありながら、その父である名馬ネイティヴダンサーの血を評価されて種牡馬入りした。しかし、日本で出した多くの産駒がダートの短距離をテリトリーとしており、とても名種牡馬とは言えない存在だったが、最晩年の産駒から突如として、日本競馬の歴史に残るほどの人気を博したオグリキャップを出すのだから、競走馬の生産というのは不可思議なものである。

 1989年にコロネーションカップ、サンクルー大賞(ともにG1)を制したシェリフズスターは現役引退後、西山牧場の創業者であるブリーディングオーナーの西山正行によって購買され、日本で種牡馬入りした。

 生産界での注目度は低かったが、西山は積極的に自ら所有する繁殖牝馬に種付けし、その数は年50頭に及んだという。しかし生産者の思いとは裏腹に目立った活躍馬は出ず、息子の茂行が牧場経営の合理化を進める際に廃用となった。

 そのあと牧場にシェリフズスター産駒は数頭が残り、いずれも買い手が付かない状態だった。しかしその中に、のちのクラシックホースがいたというのだから競走馬生産の世界は分からない。

 その馬こそがセイウンスカイである。 セイウンスカイは厩舎を開業して間もない美浦トレーニング・センターの保田一隆厩舎に預託され、徳吉孝士の手綱で3歳の1月にデビューの新馬戦(中山・芝1600m)を迎える。

 血統が地味なうえ、調教でもさほど目立つ動きを見せなかったため、単勝はオッズ12.0倍の5番人気に過ぎなかった。しかしレースでは、3番手を折り合って進むと第3コーナーから先頭に並びかけ、直線では後続をぐんぐん突き放して、1着に6馬身(タイムにして1秒0)もの差をつけて初陣を飾って周囲を驚かせた。

 3番人気で臨んだ次走のジュニアカップ(OP、中山・芝2000m)もスムーズに逃げを打つとマイペースに持ち込み、またも2着に5馬身(タイムにして0秒8)の差を付けて快勝。2連勝を飾ったことで、ようやく注目の存在となった。
  3戦目の弥生賞(GⅡ、中山・芝2000m)は彼にとって試金石の一戦となった。というのも、”クラシック候補”の呼び声が高い関西馬2頭、サンデーサイレンス産駒のスペシャルウィークと、父に歴史的名馬のダンシングブレーヴを持つ世界レベルの良血馬キングヘイローと顔を合わせることになったからだ。

 しかし、ここでもセイウンスカイはライバルに引けを取らないレースを見せる。最後の直線で鋭く追い込んだスペシャルウィークにこそ半馬身差されたものの2着に逃げ粘り、3着のキングヘイローには4馬身もの差を付けたのである。

 弥生賞のレースぶりから、スペシャルウィーク、キングヘイローとともに“三強”の一角として、ようやく高い評価を受けるようになったセイウンスカイは、新たに横山典弘を鞍上に迎え、一冠目の皐月賞(GⅠ、中山・芝2000m)へと駒を進めた。

 レースは、どうしても逃げたいコウエイテンカイチの逃げでスタート。セイウンスカイはキングヘイローの外3番手で第1コーナーを回ると、じわっと位置を上げて2番手をキープ。末脚勝負に徹するスペシャルウィークは後方の15~16番手を進むなか、1000mの通過ラップが1分00秒4という平均ペースでレースは進んでいく。

 中団以後にいた馬たちも差を詰めながら迎えた直線。セイウンスカイは“持ったまま”で先頭に躍り出ると、温存していたパワーを全開にして後続を突き放し、ひたすらゴールを目指す。それを目指してキングヘイローとスペシャルウィークも懸命に追い込むが、セイウンスカイはライバルたちを抑え切ってゴール。エリートたちを退けて、廃用になった”マイナー種牡馬”の仔はついに頂点に立った。

 そして、これがクラシック初制覇となった横山典弘はゴール後、派手なガッツポーズでファンを沸かせた。

1998年 皐月賞(JRA公式) 日本ダービー(GⅠ、東京・芝2400m)はスペシャルウィークらの後塵を拝して4着に敗れたセイウンスカイ。その後は西山牧場で夏を休養に充て、秋は古馬相手の京都大賞典(GⅡ、京都・芝2400m)から始動する。

 菊花賞(GⅠ、京都・芝3000m)を目指す馬は通常、3歳限定戦の京都新聞杯(GⅡ、京都・芝2200m)をステップにするものだが、セイウンスカイにはゲートに入るのを嫌がる面があり、これまでに二度、発走再審査の処分を受けたことがあった。そのため万が一、京都新聞杯で同様の処分を受けることがあった場合、日程の関係で菊花賞に出走できなくなる危険性が生じるため、その1週前に行われる京都大賞典をステップレースに選んだのである。

 この年の京都大賞典は、メジロブライト、シルクジャスティス、ステイゴールドら古馬の強豪が顔を揃えており、セイウンスカイは苦戦も予想されたが、好スタートから先頭を奪ってマイペースに持ち込むと、並み居る強者たちを完封。大一番を前に満点の回答を出し、あらためてその能力の高さを誇示した。

 迎えた菊花賞。セイウンスカイはここで驚愕の逃走劇を披露する。

 ダービー馬スペシャルウィークに次いで2番人気に推されたセイウンスカイはすんなりと先頭を奪うと、馬の行く気に任せた横山騎手の舵取りに従って快調に逃げる。最初の1000mは59秒6という超ハイペースで、それを感じた後続は積極的に追いかける馬はいなかった。すると第1コーナーに入るあたりから一転、思い切ってペースを落として‟息を入れ”させ、向正面から再びペースを上げるという絶妙なレース運びを見せるセイウンスカイ。2周目の第3コーナーでは一時、後続に7~8馬身の差を付け、後続が仕掛け始めた坂の下りでもまだ5馬身ほどのアドバンテージをキープして直線へ向いた。

 詰めかけたファンが騒然とするスタンドの前でも、確かな足取りでゴールを目指すセイウンスカイ。横山騎手が仕掛けた変幻自在なペース配分の罠に幻惑された後続も懸命に追い込むが、それはもはや無駄な抵抗だった。中団から追ったスペシャルウィークに3馬身半もの差を付けて、セイウンスカイは偉大な企てを成功させた。走破タイムの3分03秒2は当時のレースレコードだった。

1998年 菊花賞(JRA公式) その後、セイウンスカイは1999年の日経賞(GⅡ、中山・芝2500m)、札幌記念(GⅡ、札幌・芝2000m)を勝ったものの、屈腱炎に罹るなど順調さを欠いたこともあってGⅠタイトルを上積みすることはできず、2001年の春に現役を引退。翌春から北海道で種牡馬入りしたが、2011年の8月、馬房での事故で命を落とした。

 数奇な生い立ちから、予想外の成功でセイウンスカイ。‟マイナー種牡馬”という不名誉な呼び名を付けられたシェリフズスターの置き土産は、名うてのトリックスターとしてその生涯を全力で駆け抜けた。
<了>

文●三好達彦
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