ステフィン・カリー――ウォリアーズの“象徴”となった男が、プロ入り時にニックス行きを望んだ理由【NBA秘話・前編】<DUNKSHOOT>

ステフィン・カリー――ウォリアーズの“象徴”となった男が、プロ入り時にニックス行きを望んだ理由【NBA秘話・前編】<DUNKSHOOT>

09年ドラフトでウォリアーズに指名された直後の様子。意に反した結果だったせいか、笑顔もどこかぎこちない。 (C) Getty Images

昨季までの現役13年の間に、レギュラーシーズンMVP2回、ファイナルMVP1回、得点王2回、優勝4回と数々の金字塔を打ち立ててきたステフィン・カリー。今や“ウォリアーズの象徴”と言っても過言ではない存在だが、大学時代の彼には意中のチームが別にあった。

 その球団はニックス。ドラフト当時、両者は蜜月関係にあり、カリー本人はニックス入団を確信していた。しかし、寸でのところで計画は頓挫する。なぜ、カリーの願望は叶わなかったのか。今回はその秘話を紹介する。

■超大物のジャバー獲得を見送り、30余年後にはカリーを逃した古豪

 入団2年目の1971年にバックスを初優勝に導き、デビューからの6年間にレギュラーシーズンMVP3回、得点王2回に輝いた若きスーパースター、カリーム・アブドゥル・ジャバーのトレードが発表されたのは、1975年6月のことだった。

 移籍先は名門レイカーズ。現役№1選手の移籍騒動は、リーグに巨大なインパクトをもたらしたが、それと同時に移籍会見でジャバーが発した赤裸々なコメントにも注目が集まった。断っておくが、これはレイカーズ移籍会見での発言である。
 「俺はニューヨークに行って、ニックスでプレーしたかった。最初にバスケットボールを始めた時から、ニッカーボッカーズでプレーすることが俺の夢だった。故郷のニューヨークに戻りたいという気持ちは強かったものの、レイカーズが俺の獲得に向け真摯に努力してくれた。だがニューヨークはそうじゃなかった。自分を必要としていない人たちと一緒に過ごすことは、賢明ではないと思う。だから俺は今、ここにいる」

 その前年の1974年、ジャバーはバックスのフロントにトレードを要求し、希望移籍先に地元ニューヨークのニックスと、母校UCLAで4年間過ごしたロサンゼルスのレイカーズを挙げた。両チームにとっては千載一遇の大チャンスである。無限の可能性を持つビッグマンを獲得すべく、双方のフロント陣は目の色を変えて取り組んだ。

 最終的に白羽の矢が立ったのは、レイカーズだった。球団オーナーのジャック・ケント・クックが「不可能な夢」と、半ば諦めていたにもかかわらず。より魅力的な交換要員を提示できたことが最大の勝因だったが、情報筋によると、ニックスは現金400万ドルを支払いさえすれば、選手を絡めずともジャバーを獲得できたのだという。

 だが、彼らはその方法をあえて選択しなかった。2度とない機会を、ニックス首脳陣はみすみす逃したのである。
  それから30余年後の2009年、ニックスは再び大きなチャンスを逃すことになる。史上最高のシューターであり、現在のリーグを代表する選手の筆頭格、ステフィン・カリーを獲得し損ねたのだ。それも、ジャバーと同様に選手側がニックス入りを熱望していたにもかかわらず。

 ニックスが意中のチームだったという事実を、カリー本人が初めて明確にしたのは、元NBA選手のマット・バーンズとスティーブン・ジャクソンがホストを務めるポッドキャスト番組『オール・ザ・スモーク』にゲスト出演した2020年1月のことだった。

「俺はニューヨークに行きたかったし、行くものと思っていた。ドラフトのグリーンルームで、『ニューヨークが8位で俺を獲得するだろう』と高をくくっていたら、ラリー・ライリー(当時のウォリアーズGM)から電話がかかってきて、『我々は君を7位で指名するつもりだ』と言われたんだ」。

 そして今年1月、ネットの各種SNSに一般人が書き込んでいる質問に対し、プロアスリート本人がサプライズで答えるという『GQ Sports』の恒例企画『Actually Me』において、カリーは再び語った。インスタグラムに書き込まれていた「ドラフトの前に、行きたいと思っていたチームは?」との問いかけに対し、次のように答えたのである。

「絶対ニックスに行きたいと思ってたよ。ドラフトがニューヨークで行なわれた6月25日は、親父の誕生日だったしね。当時のニックスGMと何度も話し合い、もし俺が残っていたら指名すると言っていた。(中略)でも、すべてのことは起こるべくして起こる。だから俺はウォリアーになったんだ」。
 ■ニックス入りを希望したのは元NBA選手である父の意思

 カリーはデイビッドソン大3年時の2008-09シーズン、NCAAトップの平均28.6点を叩き出し(過去20年間で上から4番目)、全米№1シューターの地位を揺るぎないものにしていた。

 2008年12月にはマディソンスクエア・ガーデンでウエスト・バージニア大と対戦、最初の13本中12本の3ポイントシュートを外すも、その後盛り返して最終的に27得点、10アシスト、4スティール、2ブロックを記録するという離れ業を披露。大学時代、カリーはガーデンでのプレーを楽しみにし、ニューヨーク特有のプレッシャーや、きらびやかな環境下でのプレーを、自分の成長の糧にしていたという。

 だが、それがニックス入りを熱望した最大の理由ではなかった。父デル・カリーのたっての希望だったのである。NBAで16シーズンを過ごし、名シューターとして名を馳せたデルは、引退後もNBAと近い距離に身を置き、リーグ事情に精通していた。
  カリーは2009年ドラフトで10位以内の指名が有力視され、一桁台後半というのが大方の予想だった。栄えある1位は6つの全米最優秀選手賞を総なめにしたブレイク・グリフィンで確定、2位から4位までのスポットをハシーム・サビートやリッキー・ルビオを含む3選手が争い、5位と6位の指名権をウルブズ、7位をウォリアーズが所持していた。

 そして、8位指名権を手にしていたのがニックスだった。デルは当時のニックスHC、マイク・ダントーニから、息子をニックスにどうしても欲しいと言われていたそうだ。ニックスはポイントガードの駒が絶対的に不足しており、カリーこそがその穴を補える人材であるとダントーニHCは考えていた。

 2014年12月に『ニューヨーク・タイムズ』から受けた電話インタビューで、デルは「ニックスはポイントガードを必要としていた。そしてステフィンは、ダントーニのような速いアップ&ダウンのオフェンシブなスタイルに完璧にフィットすると思ったんだ。ステフィンも、ガーデンでプレーするというアイデアをとても気に入ってたよ」と語っている。

 ダントーニ体制1年目の08-09シーズン、ニックスはイースタン・カンファレンス1位となる平均105.2得点をマークし、前シーズンのカンファレンス11位から大幅にアップしていた。

 デルと彼の妻ソーニャは、2019年5月に『NBC Sports Northwest』のインタビューへ夫婦揃って出演し、なぜ息子のニックス入りを後押ししたのか、興味深い話を披露している。
 「ドラフト当日、ドン・ネルソン(ウォリアーズHC)から電話がかかってきて、『ヘイ、お前の息子をドラフト指名するけど、どんな気持ちだ?』と言われたのを覚えている。私は 『(指名)するな』と答えた。『質問されたからには本当のことを言おう。頼むからやめてくれ』と言ってやったよ」。

「息子のプレーは、ベターなチーム、ベターなシナリオ、アップ&ダウン、スピード、ベターなロッカールーム(すべてニックスを指している)、それらにフィットすると思ったからね」。

 デルがそう言うと、傍からソーニャが笑みを浮かべながら口を挟んだ。

「それは父親の答えであり、プロアスリートの目から見た回答よ。私の場合は、『ゴールデンステイトなんて遠すぎる。私のベイビーはどこへ行っちゃうの? ゴールデンステイトがどこにあるかも知らないのに』みたいな感じだった。

 彼(デル)がドラフトで指名された時も、同じような状況だったことを覚えてるわ。大泣きするお義母さんに、『指名されたのよ。おめでたいことなのに、なぜ泣いてるの?』って聞いたら、『ユタなんてどこにあるのよ!』って言ってた(笑)」。

 試しにカリー家の地元シャーロットから、どのフランチャイズまでの飛行距離が一番長いか調べてみた。最も遠いのは、偶然だろうがサンフランシスコの3697㎞、次が僅差でポートランド、サクラメントの順だった。

 ちなみにシャーロットからサンフランシスコまでの飛行距離を日本国内線で換算すると、羽田-福岡2往復プラス170㎞。国際線だと、成田-ハノイ(ベトナム)が3720㎞でほぼ同距離だった。(後編に続く)

文●大井成義
※『ダンクシュート』2022年8月号掲載原稿に加筆・修正。
 

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