【名馬列伝】JRA不世出の牝馬ウオッカ。“最高傑作”を生んだカントリー牧場の系譜<前編>

【名馬列伝】JRA不世出の牝馬ウオッカ。“最高傑作”を生んだカントリー牧場の系譜<前編>

2007年5月27日、ウオッカは牡馬勢を一蹴。64年ぶりに牝馬が日本ダービーの頂点に立った。写真:産経新聞社

東京競馬場でのGⅠ開催のとき、筆者にはいつもとるルーティンがある。1レース前からスタンド3階か4階のスタンドに席を確保して、パドックを周回するメインレースの出走馬をじっくりと観察する。馬がパドックから出て行ったら小走りでコース側へと向かい、さらに返し馬の様子を眺めてから、3階の取材スペースへ行って、ファンファーレを待つのだ。その観戦スペースでいつも話すのが、私をこの世界に迎え入れてくれた先輩のEさんである。
 
 何も難しい話をするわけではない。パドックではあの馬が良かった、返し馬ではこの馬に迫力があった。いちファンとして、そんな他愛のない言葉のやりとりをするだけだ。しかし、そんな軽口のなかにも忘れられないものがある。2007年の日本ダービーでスタートを待っているときのことである。

「パドックのウオッカ、見ました?すごいことになってましたよねぇ。迫力は牡馬より全然上に見えましたよ」「やっぱりそう思った?すごい馬だよねぇ。一頭だけ別のオーラが出てて、まるで牝馬に見えなかったよ」

 そうは言うものの、二人はまさか数分後、本当にその牝馬が2着以下をぶっち切って先頭でゴールを駆け抜けるとは想像していなかった。
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 Eさんは紅潮した顔でそう口にした。筆者は呆けた顔をして、ただ「すげー、すげー!」と叫んでいた。

 のちにウオッカを送り出すことになるカントリー牧場は、ゴルフ場経営などを行う実業家にして馬主でもあった谷水信夫によって1963年北海道・静内(現・新ひだか町)に開かれた。『馬は鍛えて強くするもの』との信念を持っていた谷水は、自場の馬たちを手加減なしのスパルタ方式で、幼駒の時分から走りに走らせた。自ら円形馬場の中央に立って長い”追いムチ”を使い、馬が動けなくなるまで追い続けることもあったという。ロンジング(またはロンギング)と呼ばれるこのトレーニングは育成段階で普通に行なわれるものだが、谷水が実行したそれは常識の範疇を超えるほどハードで、少なくない馬がデビューを待たずに脱落していった。

 しかし、そのハードトレーニングを耐え抜いたなかから活躍馬が出た。のちにミホノブルボンを育て、”坂路調教の先駆者”として知られるようになる調教師の戸山為夫とのコンビで送り出したマーチスが1968年の皐月賞に優勝。また同窓のタニノハローモアは、マーチス、タケシバオー、アサカオーによる”三強”が人気を集めた同年の日本ダービーを逃げ切って大波乱を起こし、ファンの度肝を抜いた。ちなみに戸山は、のちに『鍛えて最強馬を作る-ミホノブルボンはなぜ名馬になれたのか』という著書でJRA賞馬事文化賞を受賞している。 その後もカントリー牧場が輩出した馬の活躍は続き、1970年にはタニノムーティエが皐月賞、日本ダービーの二冠を制し、その半弟であるタニノチカラが1973年の天皇賞(秋)、翌年の有馬記念を制して一世を風靡した。

 しかしその後、1972年に谷水信夫が事故で急死。その跡を継いでいた谷水雄三は、戸山為夫らの指導を仰ぎながら、様々な改革を断行する。長い年月の間に痩せていた土壌の改良に着手。増え過ぎた繁殖牝馬を徐々に絞り込んで、厳選した馬だけのために繁殖専用の分場を開設すると同時に、海外から新しい血の導入も行なった。

 手を打っても、結果が出るまでに相当な時間を要するのが競走馬生産の世界である。カントリー牧場も改革を断行したものの、タニノチカラの天皇賞制覇以来、長い間GⅠタイトルに見放されていた。そこへようやく生まれ立ったのが、谷水雄三が1973年に米国で購買したタニノシーバードを祖母(母の母)に持つタニノギムレットだった。
  2歳12月の未勝利戦から重賞二つを含む4連勝を記録したタニノギムレットは、2002年の皐月賞、NHKマイルカップで連続して3着。しかし、最大の目標として臨んだ日本ダービーでは後方から目の覚めるような末脚を繰り出し、シンボリクリスエスを差し切って優勝を果たし、カントリー牧場にダービー3勝という栄誉をもたらした。

 残念ながら秋シーズンを目の前にして屈腱炎を発症し、引退を余儀なくされたタニノギムレット。種牡馬としては期待されたほどの成功は収められなかったが、ただ一頭、日本競馬史上に輝く優駿を輩出した。日本ダービーを含むGⅠレース7勝を記録(牝馬としてはGⅠ最多)し、2008年・2009年と牝馬史上初の2年連続JRA年度代表馬に選出された不世出の名馬、ウオッカこそがその馬である。<中編に続く>

文●三好達彦

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