家族の反対を押し切って騎手になった福永祐一の強い覚悟。“天才”と呼ばれた父が果たせなかった夢を掴むまで

家族の反対を押し切って騎手になった福永祐一の強い覚悟。“天才”と呼ばれた父が果たせなかった夢を掴むまで

2018年にダービー初制覇を達成した福永。厩舎スタッフと喜びを分かち合った。写真:産経新聞社

福永祐一騎手(46歳/栗東・フリー)がJRAの2023年度調教師試験に合格。来年2月いっぱいで騎手を引退することになった。

【動画】19度目の挑戦で悲願のタイトルを獲得した福永祐一。『日本ダービー2018』をプレーバック!

 1970年代の中央競馬を知る人たちの口に、必ず“天才”として上る騎手がいる。福永祐一の父、福永洋一さんである。

 まだ競馬学校(千葉県白井市)が開校する前、東京都世田谷区の馬事公苑に騎手の養成所(騎手養成長期課程)があった。岡部幸雄、柴田政人、伊藤正徳という、のちの中央競馬を華々しく盛り上げる名騎手たちが巣立ったことから、1964年入学の生徒は「花の15期生」と呼ばれるが、そのなかに洋一さんの名前もあった。

 試験に一回落第し、1968年に1年遅れで騎手免許を取得した洋一さんは、いきなり14勝を挙げて中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞。2年目は伸び悩んだが、3年目の1970年に86勝を記録して初のリーディングジョッキーに輝く。

 その天衣無縫の騎乗スタイルで「平凡な馬でも、洋一が乗ると別の馬になる」と言われるほどの異能を発揮。この頃から”天才”と持てはやされるようになった。その後、エリモジョージで天皇賞(春)、インターグロリアで桜花賞、ハードバージで皐月賞を制するなど、トップジョッキーの座を確たるものとし、77年には126勝を挙げて野平祐二が持つ年間最多勝利記録を19年ぶりに更新。翌78年はその記録を131まで伸ばした。

 ところが、好事魔多し。1979年の春、洋一さんは大きな落馬事故に巻き込まれて生死の境をさまようことになる。懸命な治療が施されたが重い麻痺が残り、現役引退を余儀なくされた。長男の祐一は3歳になったばかり。まだ物心がつく前のことだった。
  毎日、家族の助けを借りながらリハビリに励む父を見ながら育った祐一は、中学時代に騎手になることを決意。母をはじめとする家族の大反対を押し切って受験に臨むことになる。初年度は二次の体力試験の前に骨折して不受験となったが、高校に通いながら翌年再受験して競馬学校騎手過程に合格。高校を中退して、いよいよ本格的にジョッキーへの道へ踏み出した。

 この年次にはJRA初の女性騎手となる細江純子、牧原由貴子、田村真来がいたほか、のちにテイエムオペラオーと数々の偉業を成し遂げる和田竜二、双子の柴田大知・未崎兄弟などが揃い、話題の多い世代。だが騎手免許試験に合格してデビューすることが決まると、あの「洋一の息子」である祐一には別格の注目が集まった。

 洋一さんと騎手仲間だった北橋修二の厩舎に所属して、1996年3月の中京でデビューを迎えた祐一は、一戦目で初騎乗・初勝利を挙げると、二戦目も連勝。JRAで二人目となる派手なデビューを飾ると、マスコミもファンも熱狂をもって彼を迎えた。そして洋一さんを知る関係者の積極的なアシストも受けて、この年、最終的に53勝を記録してJRA賞最多勝利新人騎手に輝いた。
  福永祐一には、ある強い思いがあった。父が果たせなかった日本ダービー制覇という夢を叶えることである。

 順風満帆の滑り出しを見せた祐一は、翌年の秋、キングヘイローという良血馬と出会い、1998年のクラシック戦線に臨む。

 一冠目の皐月賞で接戦の2着という結果を残したキングヘイローと福永。大望を抱いて2番人気で日本ダービーに出走したが、競馬場の異様なまでの盛り上がりにテンションが上がったキングヘイローを御し切れず、暴走気味に逃げを打つかたちになったため、直線で失速して14着に大敗。日本ダービーの壁の厚さを思い知らされた。

 その後もキングヘイローの手綱を託されたものの勝利を挙げることができなかった福永は翌年、乗り替わりの憂き目に遭い、大きな挫折を味わった。

 しかし、この悔しさを糧に福永は真のトップジョッキーへの道へ歩みを進める。

 1999年にはプリモディーネで桜花賞に優勝し、初のGⅠ制覇を達成。その翌週に落馬事故で左腎臓摘出という大怪我を負ったが、約3カ月の治療とリハビリを経て7月には戦列に復帰し、年末にはエイシンプレストンで二つ目のGⅠタイトルを手に入れた。

 2011年、2013年にはリーディングジョッキーに輝き、エピファネイア、ジャスタウェイなどの名馬とのコンビでGⅠタイトルを積み重ねてトップジョッキーの座を確たるものとした福永だったが、なかなか日本ダービーのタイトルには手が届かなかった。

「もう(日本ダービーは)勝てないんじゃないか」

 そう思い始めたころ、1頭の駿馬と出会う。ディープインパクトの仔で、名をワグネリアンと言った。

 デビューから3連勝してクラシック候補と呼ばれたワグネリアンだったが、3歳になってからは弥生賞(2着)、皐月賞(7着)と連敗を喫し、日本ダービーでは5番人気と評価を落としていた。

 福永にとってキングヘイローで初騎乗を果たしてから19回目の挑戦となる日本ダービー。人気を落としてはいたが、皐月賞のあとに心身ともに充実してきたワグネリアンに確かな手応えを感じていた。

 レースは激戦となった。直線で10頭以上が横に広がっての叩き合いになったが、中団を進んだワグネリアンは先に抜け出したエポカドーロを一完歩ずつ追い詰め、ゴール直前でそれを交わしてゴール。福永はデビューから23年、41歳にしてついに念願だった「ダービージョッキー」の呼称を手にした。
  ファンの大歓声を受け、落涙しながら愛馬と引き揚げてきた福永。インタビュアーに「この勝利を洋一さんにどう伝えますか」と訊かれると、「いい報告ができると思います。きっと喜んでくれると。ダービーを勝つことは福永家の悲願だったので」と答え、ようやく笑顔を浮かべた。

 その後、2020年にはコントレイルでクラシック三冠を制し、翌21年にはシャフリヤールで三度目となる日本ダービー制覇を成し遂げた福永。JRA通算勝利数は2600を突破し、GⅠレース(JpnⅠを含む)45勝という堂々たる成績を残し、来年3月からは調教師としてセカンドキャリアをスタートさせることになった。

 その誠実さや常に進歩を目指してきた真摯な姿勢によってオーナーやトレーナーから大きな信頼を受けてきた“祐一ジョッキー”。手綱をとる姿が見られなくなるのは残念である一方、調教師としての活躍に期待は膨らむ。(文中一部敬称略)

文●三好達彦

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