ジョン・ストックトン――弱小校の無名選手からNBA最高峰の司令塔へ成長した努力の男【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

ジョン・ストックトン――弱小校の無名選手からNBA最高峰の司令塔へ成長した努力の男【レジェンド列伝・前編】<DUNKSHOOT>

のちにNBA屈指の司令塔に成長したストックトンだが、無名大学出身とあってプロ入り前までは注目されていなかった。(C)Getty Images

プロ入りするまでは無名の存在だったストックトン

 ジョン・ストックトンはNBAの通算最多アシスト(1万5806)と最多スティール記録 (3265)の持ち主である。だがこの他に、彼はもう一つ重要な通算記録を持っていた。

 それは“単独のチームでの最多出場記録”。19年間・1504試合のすべてに、ストックトンはユタ・ジャズのユニフォームで出場した。これはダラス・マーベリックスのダーク・ノビツキーが1522試合で更新するまで、長い間ずっと抜かれずにいた。

 現役では引退間近のユドニス・ハズレム(マイアミ・ヒート)を除くとステフィン・カリー(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)の864試合(2月21日現在)が最多で、これからフル出場を続けても、ストックトンに追いつくまであと8年はかかる計算だ。

「ジャズ以外でプレーするつもりはまったくない。それが僕にチャンスを与えてくれたチームに対する恩返しだ」とストックトンは公言していた。

 年俸が相場を大きく下回っていても「自分より稼いでいる選手を打ち負かすのも気分のいいものさ」と意に介さなかった。スター選手が公然とトレードを要求し、より良い条件を求めてチームを渡り歩くのが当たり前になった現在では、 ストックトンやノビツキーを超える選手が出る確率は相当低いだろう。
  他の多くのスター選手とは違い、ストックトンはプロ入りするまでほとんど無名の存在だった。出身大学は彼の地元、ワシントン州スポケーンにあるゴンザガ大。八村塁の出身校で今ではNCAAトーナメント常連になった同校も、当時は“ビング・クロスビー (20世紀半ばの国民的歌手)の母校”としてしか知られていない弱小校だった。

 1984年のドラフトでは1巡目16位でジャズに指名されたものの、会場に集まっていたファンたちは、「ストックトンって誰だ?」と囁き合い、テレビ中継のアナウンサーや解説者も「あまり知られていない選手ですね……」と言葉に詰まった。中継を見ていたストックトンは愉快そうに振り返る。

「彼らは僕に関する資料を探して右往左往していた。あれは滑稽だったね」

 しかし、ストックトンは“隠し球”などではなかった。同年のロサンゼルス五輪代表選考会でもいいプレーを見せ、最終候補に残っていた (カール・マローンと初めて顔を合わせたのもこの選考会だった)。代表HCのボビー・ナイト(インディアナ大)が教え子のスティーブ・アルフォードを選ばなければ、ストックトンが代表入りしていたはずだった。
  NBAでも、ジャズ以外にストックトンを高く評価していたチームがあった。特に熱心だったのは1周目19位の指名権を持っていたポートランド・トレイルブレイザーズのステュ・インマンGMで、ジャズがドラフト指名した直後にトレードを申し込んできた。同じドラフトでマイケル・ジョーダンを指名したシカゴ・ブルズのロッド・ソーンGMもトレードを目論んだが、ジャズのフランク・レイデンGMは手放さなかった。

「トレードの申し込みが殺到すること自体、いい選手の証だからね。もっとも、その時はジョー・モンタナ(NFLの名クォーターバック)を手に入れたとは思わなかったが」とレイデンは語る。

「彼の精神力と集中力がどれほど強靭か、誰も気づいていなかったんだ」 ジョーダンやアキーム・オラジュワンらの同期生がプロ入り直後から華々しい活躍を演じたのに対し、ストックトンは最初の3年間はバックアップだった。ジャズにはオールスター・ガードのリッキー・グリーンがいたからだ。しかし、86-87シーズンには控えでありながらリーグ8位の8.2アシストを記録。

 完璧にゲームをコントロールし、正確なパスを送り出し、自分がノーマークなら確実にシュートを決めることもできる。もはやこれだけの選手をベンチに置いておく理由はなかった。(後編に続く)

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2008年5月号原稿に加筆・修正
 

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