“史上最高クラスのドラ2”と“史上最低レベルの外れドラ1”を生み出した2007年。対照的なキャリアを辿った2人の数奇な運命【NBAドラフト史】

“史上最高クラスのドラ2”と“史上最低レベルの外れドラ1”を生み出した2007年。対照的なキャリアを辿った2人の数奇な運命【NBAドラフト史】

2位指名のデュラントは1年目から平均20点超えの活躍を見せ新人王に選出。得点王4度、MVPを1度獲得するなど、2007年組で1番の出世頭となった。(C)Getty Images

ドラフト2位指名には外れ選手?が多い印象があるが、2007年のケビン・デュラントは例外中の例外だ。NBAトップクラスの選手に成長したKDは、すでに史上最高クラスの2位指名選手であると言い切ってもいいだろう。その陰で、史上最低レベルの外れドラ1?、グレッグ・オーデンを生み出したのもこの年だった。

■年齢制限が導入された影響で例年以上に充実した人材が揃う

 各年のドラフトリストを眺めていて気づくことのひとつに、「ドラフト2位には不完全燃焼に終わった選手が多い」というものがある。単なる偶然に過ぎないのだろうが、とりわけ1980年代以降はその傾向が顕著だ。NBAドラフト2位?なんて、それこそ物凄いポテンシャルを持った選手のはず。それなのに、大成した者は意外と少なく、むしろ残念だったり、それを通り越して悲惨な結果に終わったケースが多く目に付く。

 例えば、ドラフトの2日後にコカインの過剰摂取で死亡したレン・バイアス(1986年)や、2年目のオフにバイク事故で瀕死の重傷を負い、キャリアを台無しにしたジェイ・ウィリアムズ(2002年)、特異なキャラが印象的だった大コケ外国人選手、ダーコ・ミラチッチ(2003年)など錚々たる顔ぶれが揃っている。
  その他にも、マイケル・ジョーダンの直前に指名されたことにより、史上最大のスルー?事件のヒール役になってしまったサム・ブーイ(1984年)、歴代3位タイの高身長ながら真面目で不器用なノッポさん?だけで終わってしまったショーン・ブラッドリー(1993年)、これまでコートに立った全71人のドラフト2位選手中、歴代最低の平均得点(2.2点)とアシスト数(0.1)を誇る史上最低の2位?ことハシーム・サビート(2009年)など、枚挙にいとまがない。

 1980年以降の40年間で、すでに殿堂入りを果たしたか、もしくは確実に殿堂入りするであろうドラフト2位選手は、わずか5人だけ。前者は、アイザイア・トーマス(1981年)ゲイリー・ペイトン(1990年)、アロンゾ・モーニング(1992年)、ジェイソン・キッド(1994年)、後者は今回取り上げるケビン・デュラント(2007年)である。
  その中で、レギュラーシーズンMVPや得点王を獲得したことがあるのはデュラントのみ。デュラントはその他にも、優勝2回、得点王4回、レギュラーシーズンMVP1回、ファイナルMVP2回、オールスターMVP2回と、数々の勲章を手にしている。

 大昔まで遡れば、ビル・ラッセル(1956年)やジェリー・ウエスト(1960年)、ボブ・ペティット(1954年)、リック・バリー(1965年)、ボブ・マッカドゥー(1972年)など、大成した選手が何人か存在するものの、ラッセルは別格として、デュラントを史上最高クラスのドラ2選手?と称しても違和感はないだろう。

 そのデュラントは、別の年であれば1位で指名されても全然おかしくなかった。ところが、10年に1人の逸材との呼び声高いグレッグ・オーデンも同じ年にエントリーしたため、デュラントは2位の座に甘んじることになる。

 オーデンとデュラントという、2人の傑出した大学1年生がエントリーした2007年NBAドラフトの顔ぶれは、例年以上に充実していた。その理由は、前年にドラフトエントリーのルールに変更が生じたためだった。
  ケビン・ガーネットやコビー・ブライアントを皮切りに、プレップ・トゥ・プロ(高校から直接NBA入りすること)の道を歩む選手が2000年代に急増。そのブームを快く思わなかったリーグは、新たな労使協定を策定し、ドラフトの時点で19歳に達しているか、高校卒業もしくは中退から1年以上経たなければエントリーできないという新ルールを2006年から施行する。結果、2006年にプレップ・トゥ・プロでのNBA入りを狙っていた選手は、1年間カレッジでプレーした後、2007年のドラフトにこぞってエントリーすることになった。

 ドラフト当日、ESPNの中継番組にゲスト出演した名物バスケットボール・キャスターのディック・ヴァイタルは、「2003年(レブロン・ジェームズやカーメロ・アンソニー、ドゥエイン・ウェイドを輩出)より今年のほうが充実している!」と、いつもの調子でまくし立てた。2003年超えは大げさにしても、確かに1位のオーデンがデュラント並みの活躍を見せていれば、かなりの当たり年になっていたに違いない。だがしかし・・。
 ■ラッセルの再来?と称されるオーデンが1位指名の栄誉に浴す

 オハイオ州大1年のオーデンはビル・ラッセルの再来?、パトリック・ユーイング以来、カレッジ界最高のセンター?と称され、将来リーグを代表するビッグマンになるだろうと考えられていた。

 オーデンが9歳の時、一家はニューヨーク州バッファローからインディアナ州テレホートに転居した。インディアナポリスのローレンスノース高時代から全米にその名を轟かせ、チームメイトのマイク・コンリーとのワンツーパンチを武器にインディアナ州では無敵を誇り、チームは全米1位にランクされたこともあった。

 コンリーとともにオハイオ州大に進学したオーデンは、高校時代に負った右手首のケガを完治させるため、6月に手術を敢行する。シーズン序盤はベンチからの観戦を強いられたが、戦列に戻るとすぐさま規格外のプレーを連発、1年目からチームをNCAAトーナメント決勝へと導く。決勝ではアル・ホーフォードやコーリー・ブリューワー、ジョアキム・ノアを擁し、2連覇を達成した強豪フロリダ大に敗れたものの、オーデンは25得点、12リバウンド、4ブロックと、全米トップセンターの実力を遺憾なく発揮した。
  一方のデュラントは、ワシントンDC出身。地元のAAU(アマチュア・アスレティック・ユニオン)数チームで揉まれ、徐々に頭角を現わしていった。チームメイトにはマイケル・ビーズリー、グレイビス・ヴァスケス、タイ・ローソン、ジェフ・グリーンら、後のNBA選手が顔を揃えていた。高校は名門オークヒル・アカデミーやモントロス・クリスチャン高など3校を渡り歩き、卒業時にはオーデンに次いで全米2位の選手にランクされている。

 テキサス大に進学したデュラントは、平均25.8点、11.1リバウンドを記録し、ネイスミス・アウォードやウッデン・アウォードをはじめ、ほぼすべての個人賞を独占。ウッデン・アウォードと並び、最も権威のあるネイスミス・アウォードを1年生が受賞したのは、デュラントが史上初めてだった。当時、ケビン・ガーネット以来、最も完成された万能選手?とも評されている。

『NBA.com』がドラフト開催前、誰が1位指名にふさわしいかアンケートを行なっている。5万4000人による投票の結果、オーデンの1位指名を予想した人は62%、デュラントが38%だった。
  2007年5月22日に行なわれたドラフトロッタリーは、波乱含みの展開となった。レギュラーシーズンの下位3チームが、揃って指名順位4位以下に脱落。1位から3位までの3チームに残ったのは、レギュラーシーズンを下から4番目の成績で終えたホークス(1位指名権獲得率11.9%)と5番目のソニックス(現サンダー、8.8%)、7番目のブレイザーズ(5.3%)だった。

 1位指名権を獲得したのは、わずか5.3%の確率をモノにしたブレイザーズ。チームの代表としてロッタリーに参加した前シーズンの新人王ブランドン・ロイは、満面の笑みで喜びを表わし、インタビュアーからオーデンについて尋ねられると、「彼は攻守双方でゲームを変えることができる」と語った。トップ3の指名順位は、2位ソニックス、3位ホークスに確定する。
  その約1か月後の6月27日、2007年のNBAドラフトがューヨークで開催された。大方の予想通り、1位のブレイザーズはオーデンを、2位のソニックスはデュラントを指名。続いて3位ホークス/ホーフォード(フロリダ大3年)、4位グリズリーズ/コンリー(オハイオ州大1年)、5位セルティックス/グリーン(ジョージタウン大3年)と、順当に指名が進んでいった。グリーンはドラフト中に発表されたレイ・アレンのトレード要員としてソニックスにトレードされることになり、AAU時代のチームメイト、デュラントと一緒にプロデビューを果たすことになった。

 6位のバックスが指名したのは、弱冠19歳の中国人選手、イー・ジャンリャン。ドラフト会場には、過去最多となる60人の外国人記者が詰めかけ、その半分は中国人記者だった。後にジャンリャンはバックスへの入団拒否、年齢詐称疑惑、トレード要求といった騒動を巻き起こし、物議を醸すことになる。

 この年のドラフトでは、フロリダ大から5人の選手が指名された。その数は、1977年にUNLVが記録した6人に次ぐ多さだった。また、トップ10内に同じ大学から3人が選ばれたのは、史上初めての出来事である(3位ホーフォード、7位ブリューワー、9位ノア)。
 ■史上最大級の外れドラ1?オーデンがその後に辿った道

 オーデンは1年目を右ヒザのマイクロフラクチャー手術のため全休し、その後も度重なる故障と手術、長期に渡るリハビリを繰り返した。さらには、故障に伴うパフォーマンスの低下により、期待に見合ったプレーはまったく披露できなかった。NBAで記録した数字は、平均出場時間19.3分、8.0点、6.2リバウンド、1.24ブロック。

 1980年代以降、NBA史に残る外れドラ1にはジョー・スミス(1995年)、マイケル・オロウォカンディ(1998年)、クワミ・ブラウン(2001年)、オーデン、アンソニー・ベネット(2013年)の5人がいる。その中で、オーデンの実質稼働期間と総出場試合数は最も少ない。

 キャリア総出場試合数は、わずか105試合(そのうちブレイザーズ時代が82試合)。稼いだサラリーの総額を総出場時間で割り、オーデンの平均出場時間(分)の19.3を掛けると日本円にして約2523万円。9試合の出場で日本人の平均生涯賃金を稼いだ計算になり、さらには時給に換算すると約8000万円。獲得したブレイザーズは、保険である程度はカバーできただろうが、精神的にも金銭的にも非常に大きな打撃を被ったはずだ。
  オーデンは2014年にヒートに在籍した後、NBAの舞台から去っていった。NBA最後のプレーは、スパーズとのファイナル第4戦、負けが確定した試合のガベージタイムに1分20秒の出場。ボックススコアに残っている記録は、パーソナルファウルひとつのみ。翌年、グリズリーズやホーネッツ、マブズなどとワークアウトを行なったが、NBA復帰には至らなかった。ケガがすべてを台無しにした、その典型とも言える選手だろう。

 史上最低レベルのドラフト1位選手と、史上最高クラスのドラフト2位選手が誕生した2007年のNBAドラフト。調べてみると、面白いことにドラ1が大外れの年は、決まって優秀でしっかりした2位の選手が存在する。

 オーデン→デュラントを筆頭に、1995年スミス→アントニオ・マクダイス、1998年オロウォカンディ→マイク・ビビー、2001年ブラウン→タイソン・チャンドラー、2013年ベネット→ヴィクター・オラティボ。ビビーだけがオールスターに選ばれていないが、皆リーグを代表する選手となっている。これは、長男がだらしない家は次男がしっかりしている、的なアレだろうか。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2016年9月号掲載原稿に加筆・修正。
 

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