“ドラフト史最大の謎”バード入団の経緯に迫る――規則の盲点を突いたセルティックスの奇策とは?【NBAドラフト史:1978年】

“ドラフト史最大の謎”バード入団の経緯に迫る――規則の盲点を突いたセルティックスの奇策とは?【NBAドラフト史:1978年】

バードは1978年のドラフトで指名された後、1年間大学でプレー。これにより、1979年NCAA決勝でマジック・ジョンソン率いるミシガン州大との“世紀の一戦”が実現した。 (C)Getty Images

NBA史上でも最大のライバルとされるラリー・バードとマジック・ジョンソン。1979年のNCAA決勝で激突し、同年、セルティックスとレイカーズという東西の名門球団にそれぞれ入団すると、NBAでも長きに渡り好勝負を繰り広げた。しかし、同期入団ながらドラフトされたのはバードが1年前。つまり、彼はドラフト指名後も大学でプレーを続けたことになる。現在なら絶対あり得ないことが、なぜ可能だったのか。バードのセルティックス入団を巡る謎に迫る。

■ドラフト指名後も大学でプレー。深まるバード入団経緯の謎

 ラリー・バードとドラフトの関係性に、ずっとモヤモヤした感じを抱いていた。マジック・ジョンソンと同期でプロ入りしたのに、なぜバードのほうが1年早くドラフトされたのか。ドラフトで指名された後も1年間大学で普通にプレーしているが、なぜそんなことが可能だったのか。そしてバードほどの逸材が、なぜもっと上位で指名されなかったのか(6位)、等々。調べればわかることだが、なんとなく放置していたというのが正直なところだ。

 大学進学時からプロ入りまでの間に紆余曲折があったということは、なんとなく知っていた。絶好の機会なのでモヤついていた点をつぶさに調べてみたところ、思っていた以上の波乱万丈ぶりに唸らされた次第である。そこで今回のドラフト史は、いつもと少々趣向を変えて、バードのセルティックス入団に至る経緯に焦点を当ててみたい。
 『スポーツイラストレイテッド(以下SI)』は、スポーツ誌のジャンルでは全米最大の発行部数を誇り、歴史も古く、最も権威があるとされている。その1977年11月28日号の表紙がちょっと凄い。“時代”と言ってしまえばそれまでだが、それにしても脳天気にもほどがあるというか、脱力度マックスなのだ。構成はこんな感じである。

 赤とピンクのバック紙を背景に、ターコイズブルーのユニフォームを着たやけに若いバードが、腰に手を当てて立っている。ユニフォームのチーム名は“INDIANA STATE”、番号は33。ブロンドの髪と爽やかな笑顔が印象的だ。彼の目の前には2人のチアガールがいて、中腰で口に人差し指を当てて、「しーっ」のゼスチャーをしている。

 メインの見出しは、“カレッジバスケットボールの秘密兵器”。調べてみたところ、この号は1977−78シーズンの開幕に合わせたプレビュー号で、バードの初登場カバーでもあった。余談だが、バードはこれまでSIの表紙を計13回飾っている。『Wikipedia』英語版によると、歴代最多アスリートはマイケル・ジョーダンの50回、2位はモハメド・アリ40回、続いて3位がレブロン・ジェームズ26回(1954〜2016年)。チーム別1位はレイカーズで67回、2位がヤンキースの65回(1954〜2008年)。

 バードといえば、史上最高のSFの1人であり、ジョーダンやマジック、ビル・ラッセルらと並び、NBA史において最も偉大かつ重要な人物とされている。その彼が、大学3年までは秘密の存在、つまり世間にはさほど知られていなかったというのは意外だった。だがこのSIの表紙を飾った時期を境に、バードの人生は大きく変わることになる。
 ■SI誌の表紙を飾ったことで一躍注目を集める存在に

 アメリカ中西部に位置するインディアナ州は、全米で特にバスケットボール熱が高い州のひとつだ。その南部にあるウエストバーデンスプリングスにバードは生まれ、隣の人口2000人の小さな田舎町、フレンチリックで育った。バードが好んで口にするニックネームに、“The Hick from French Lick(フレンチリックから来た田舎者)”という自虐ネタがある。19世紀後半はスパタウンとしてたいそう栄え、ニューヨークあたりから保養客がわんさか来たらしい。

 6人姉弟(長女に男5人)という子沢山に加え、両親はバードが高校生の時に離婚。生活は困窮を極めた。2人の兄の影響でバスケットボールを始めたバードは、地元のスプリングバレー高で平均31点、21リバウンド、4アシストを記録し頭角を現わす。1974年、名門インディアナ大の熱血HC、ボブ・ナイトからリクルートを受け同大に進学した。

 ところが、3万3000人を抱えるキャンパスでの賑やかな生活に馴染めず、ホームシックにかかってしまう。バードは一度も練習に参加することなく、わずか24日間で大学を離れ、ヒッチハイクでフレンチリックに戻ってしまったのだった。
  地図でインディアナ大とフレンチリックの位置関係を調べると、直線距離にしてわずか70q。週末にふらっと帰れる距離だ。大学をごく短期間でドロップアウトした理由は、ホームシック以外にも何か他にありそうな気がする。気性の激しいナイトHCとのトラブルが原因だとする説もあるが、バード本人はそれを否定している。

 フレンチリックに戻ったバードは、地元の短大に入学するも、再びドロップアウト。地方自治体の職員として、ごみ収集車の運転やベンチのペンキ塗り、道路のライン引きなどの仕事に従事した。この年、父親がショットガンを用いて自殺。また、同年バードは高校時代の同級生と結婚したが、11か月後にスピード離婚している。

 翌1975年、インディアナ州大に新しく就任したHCから熱心な勧誘を受け、バードは同校に転入する。当時、インディアナ州の大学でバスケットボールと言えば、まずはインディアナ大、そしてパデュー大、ノートルダム大。インディアナ州大は名前すら出てこない、そんなレベルだった。

 規定により転入後1年間はプレーできなかったものの、2年目に平均32.8点、13.3リバウンドをマークし、それまで5割程度だったインディアナ州大の勝率を一気に9割近く(25勝3敗)まで引き上げてみせた。
  そして1977年11月、SIの1977−78シーズンのプレビュー号が発売されると、バードを取り巻く環境は一変した。なにしろ、天下のSIお墨付きの“秘密兵器”である。1980年代のセルティックス・ビッグ3を描いた回想録『The Big Three(ピーター・メイ著)』の中で、バードは次のように語っている。

「あの後はまるでゴールドラッシュみたいだったよ。あの写真が俺の人生を変えた。あれ以来、誰もが俺のストーリーを手に入れようと押しかけてきた」。

 アメリカは雑誌の定期購読制度が発達しており、発行部数の多くが定期購読者に届くため、不特定多数に情報が届くテレビなどと違い影響力に限りはあったが、それでもローカル限定だったバードの名声が全国へと一気に広がった画期的な出来事だった。

 2年目のシーズンも平均30.0点、11.5リバウンドと2年連続で好成績を残し、オールアメリカ1stチームに選出。そしてシーズン終了後の6月、運命のドラフトを迎る。

 1978年4月14日、ドラフトに先駆けて1位指名権の行き先を決めるコインフリップ(コイントス)が、ペイサーズと(カンザスシティ)キングスの間で行なわれた。見事ペイサーズが勝利を収め、地元出身のスター候補であるバードを是が非でも手に入れたいと熱望した。だが、彼の置かれた状況は特殊だった。
  当時のドラフト規定では、大学に4年在籍した選手か、もしくは困窮家庭に暮らす選手から申請があった場合、審査を行なった上で特例として年数規定を解除するハードシップ・ルール?の適用選手、そのどちらかが指名を受ける条件となっていた。

 この年は1974年入学組が大学4年を修了し、指名される権利を有していた。バードはインディアナ州大でジュニア(3年)を終えたばかり、本来ならばもう1年大学に通った後にドラフトの資格が生ずるはずだった。ところが、わずか24日間の在籍で練習にすら参加していなかったとはいえ、インディアナ大への入学が1年目にカウントされるのだという。それゆえ、ルール上は1974年組と同等の扱いとなり、各チームはこの年にバードを指名することが可能なのだった。

 ただし、バードはもう1年大学に通うことを明言している。強行指名して説得を試みたところで、翻意させることができなければ貴重な指名権をドブに捨てるようなもの。1位指名権を獲得したペイサーズは、HC兼GMのボブ・レオナルドがバードの家へ直接出向き、地元チームへの入団を懸命に勧めたが、貧しいバード家から初めての大学卒業者を出したいと母が願っていることと、NCAAタイトル獲得への挑戦を理由に、バードはその年のNBA入りを固辞。諦めざるを得なかったペイサーズは、1位指名権をトレードでブレイザーズに譲った。
 ■様々な要素が上手く重なった結果、バードのボストン入りが可能に

 1976年までは、指名された選手が大学に戻り1試合でも出場した時点で、契約交渉権は消滅するという規定があった。それゆえ、確実に獲得できる選手以外は指名に踏み切れなかった。ところが、同年に新たな労使協定が結ばれ、翌年のドラフト開始時までに権利を保持することが可能に。そしてもしその時間を過ぎれば、選手はその年のドラフトにスライドしてエントリーすることができる。それゆえ、大学に戻るとわかっていながら強行指名に打って出たチームは、丸1年間待たされた挙句、最後の最後に逃げられるという大きなリスクを背負うことになる。

 そういったリスクをすべて受け入れたうえで、バードの獲得に照準を合わせているチームがあった。東の雄、セルティックスである。8連覇という金字塔を打ち立てた1960年代を経て、74、76年に優勝を飾ったものの、この年は32勝50敗でプレーオフ進出を逃し、チームの若返りが急務となっていた。

 そこへ颯爽と姿を現わしたのが“カレッジバスケットボールの秘密兵器”、バードだった。スピードやジャンプ力といった運動能力は見劣りするものの、それを補って余りあるバスケットボールIQとセンス、才能を持ち、GMのレッド・アワーバックは成功の匂いを嗅ぎ取っていた。次代のフランチャイズプレーヤー候補として、セルティックスはバード獲得に全力を傾けた。
  セルティックスはNBA本部の顧問弁護士、デイビッド・スターンに電話をかけ、新たな労使協定についてあらためて確認した。指名権は翌年のドラフト開始時まで有効であることを再確認し、あとはドラフト本番でバードがセルティックスの指名順位まで残ってくれることを祈るだけだった。この年セルティックスが持っていた1巡目指名権は6位と8位。

 当時はABAから合流したチームやスモールマーケットのチームが財政難に陥るケースが珍しくなかった。バードの指名についても、財力や忍耐力を鑑みれば、1年間待って、そのうえドタキャンされるリスクを負ってまでトライするチームは他にない、そうアワーバックは踏んでいた。

 保険の意味も込めて、まず6位で確実に獲得できる他の選手を指名し、その後8位でバードを指名するというプランで固まりつつあった。だが、1位と7位の指名権を持っていたブレイザーズが、7位でバード獲得に動くという確度の高い情報をセルティックスは手に入れる。主力センターのビル・ウォルトンがケガで長期離脱を余儀なくされたブレイザーズは、その情報通り1位でセンターのマイカル・トンプソンを、7位でバードを指名するという算段だった。
  6月9日、1978年のNBAドラフトがニューヨークのプラザホテルで開催された。上位指名選手は次の通り。

1位ブレイザーズ/マイカル・トンプソン(ミネソタ大4年/クレイ・トンプソンの父)
2位キングス/フィル・フォード(ノースカロライナ大4年)
3位ペイサーズ/リック・ロービー(ケンタッキー大4年)
4位ニックス/マイケル・レイ・リチャードソン(モンタナ大4年)
5位ウォリアーズ/パービス・ショート(ジャクソン州大4年)
6位セルティックス/ラリー・バード(インディアナ州大3年)

 それから1年。1979年6月、NBAドラフトの約2週間前にバードはセルティックスと正式に契約を結ぶ。5年325万ドルの契約は、当時の全スポーツにおけるルーキーの中で、最も大きな契約だった。

 前出の『The Big Three』によると、バードが契約を締結する少し前、ドラフトのルールに再度手が加えられたそうだ。アンダークラスマンは、もしドラフトで指名を受けたい場合、ドラフト前に大学選手資格を取り消さなければならない。すなわち、バードのように指名後大学に戻ってプレーすることができなくなったわけである。そのルールが施行されるのは、1980−81シーズンから。
  1976年から80年の間のドラフトで、在学期間が残っている選手に対して都合3種類のルールが運用されたことになる。その2番目のルール適応時以外、バードがセルティックスに入ることはあり得なかった。

 また、インディアナ大での24日間がカウントされず、マジックと同じ1979年のドラフト組に入っていたら、バードはマジックを抑えて1位指名選手となり、レイカーズに指名されていた可能性が高かったという。さらには、セルティックスがライバルチームの指名選手に関する情報を入手できていなかったら、ひとつ前でブレイザーズにさらわれていた。

 セルティックスとアワーバックの執念に加え、様々な要素とタイミングが上手くつなぎ合わさったことにより、ボストンに後の“ラリー・レジェンド”が誕生した。そのことは、名門セルティックスに新たな黄金時代が到来することを意味していた。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2018年5月号掲載原稿に加筆・修正。
 

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