NBA史に残る天才スコアラーを輩出したアリゾナ州大――ハーデンの存在が学校の未来を変えるか【名門カレッジ史】

NBA史に残る天才スコアラーを輩出したアリゾナ州大――ハーデンの存在が学校の未来を変えるか【名門カレッジ史】

NBAで驚異的な活躍を披露するハーデンに負けじと、アリゾナ州大も近年は奮闘を見せている。(C)Getty Images

アリゾナ州大(ASU)は、アメリカのスポーツファンにとって大学野球の強豪校として知られている。レジー・ジャクソンやボブ・ホーナー、バリー・ボンズらのスーパースターを送り出し、全米の頂点に立つこと5回。そのほか、フットボールでもランドール・マクダニエルをはじめ殿堂入りが5人、ゴルフではマスターズを3度制したフィル・ミケルソンも在学していた。女子ゴルフも団体で8度優勝を果たし、アーチェリーやバドミントンといった分野でも優秀な成績を収めている。
 
 一方、バスケットボールではNCAAトーナメント(以下トーナメント)への出場自体が16回と少なく、ファイナル4にも未到達。そもそもカンファレンストーナメントの制覇すら一度もないのだ。1997年に優勝し、トーナメント出場も35回を数える同じ州のライバル校、アリゾナ大と比べて大きく見劣りしていると言わざるを得ない。直接対決の通算成績も84勝152敗と劣勢を強いられており、NBA選手の数もASUが29人、アリゾナ大が57人とダブルスコアをつけられている。
 
 けれども選手の質という点では、ASU出身者はアリゾナ大にも決して引けを取らない。仮に時空を超えて、OBを集めたオールスターチームを組んでアリゾナ大と戦ったなら、おそらくASUが勝利を収めるだろう。
  サンデビルズの愛称を持つバスケットボール部の創部は1911年。48〜57年は、野球部監督との兼任で日系のビル・カジカワがHCを務めていた。ASUのスポーツ殿堂にも祀られているほどの偉大な指導者だったが、初のトーナメント進出はカジカワ退任直後の58年、新指揮官のネッド・ウォークの下で成し遂げられている。
 
 61年から4年連続で出場し、61年と63年は準々決勝まで進出。63年の主力だったジョー・コールドウェルは、64年に東京五輪のアメリカ代表として金メダル獲得に貢献すると、その年のドラフトでは、今なおASU出身者の最上位となる2位指名でデトロイト・ピストンズ入り。並外れたジャンプ力を武器に、アトランタ・ホークス時代の69、70年には2年連続でオールスターに選出され、その後ABAに移ってさらに2度の球宴に出場した。
  その実力は、ABA時代に対戦経験のあるジュリアス・アービング(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)をして「最もディフェンスするのが難しかった選手の1人」と言わしめたほど。なお18年には、コールドウェルの孫にあたるマービン・バグレー三世(デューク大)が、祖父と同じ2位指名でサクラメント・キングスに入団した。

 コールドウェルと入れ替わりに入学したフレディ・ルイス(元インディアナ・ペイサーズほか)は、ABAで4度オールスターに出場し、75年大会ではMVPを獲得。通算得点はABA史上6位、アシストは4位にランクされている。
 
 75年には3度目の準々決勝進出。その原動力となったライオネル・ホリンズは、同年のドラフト6位でポートランド・ブレイザーズに入団すると、攻守に手堅いプレーを披露し、77年のファイナル第6戦では20得点、4スティールと奮闘。球団史上初にして唯一となるリーグ制覇に大きく貢献した。

 引退後は背番号14がブレイザーズで永久欠番となったほか、メンフィス・グリズリーズとブルックリン・ネッツのHCを歴任。特にグリズリーズでマークした通算214勝は、球団史上最多記録である。
  81年はAP通信の最終ランキング3位、そして第2シードの獲得と、学校史上最高の成績をマーク。しかし肝心のトーナメントでは、第7シードのカンザス大に敗れ2回戦で姿を消した。ただ、この年から3年続けてドラフト1巡目指名選手を送り出している。

 アルトン・リスター(81年1巡目21位/元ミルウォーキー・バックスほか)は幻に終わった80年モスクワ五輪のアメリカ代表メンバー。213cmの長身からリバウンドとブロックを量産し、通算1473ブロックは2位に倍以上の差をつけ、ASU出身者のなかでトップに立っている。
 
 82年に11位指名を受けブレイザーズ入りした“ファット”ことラファイエット・リーバーは、ポイントガードながらリバウンドに異常な強さを見せ、ナゲッツ時代の89、90年は2年続けて平均9.3本を奪取。通算43度のトリプルダブル達成は、94年の引退時点で5位という真のオールラウンダーだった。
  そして83年にはバイロン・スコットがロサンゼルス・レイカーズに入団(4位/指名はロサンゼルス・クリッパーズ)。80年代に絶大な強さと人気を誇った“ショータイム”レイカーズの主力として、3度のリーグ制覇に大きく貢献した。

 2000年からはネッツのHCを務め、02年のファイナルでは古巣レイカーズと激突するもあえなく4連敗。その後はレイカーズも含め、4球団で約14年間も采配を振ったが、指導者としての評価は芳しいものではなかった。
 
 82年限りでウォークが退任すると、トーナメントには散発的にしか出られなくなり、NBAで通用する選手もめっきり少なくなっていった。

 91年に2巡目48位指名を受けたアイザック・オースティンは、マイアミ・ヒート時代の97年にMIPを受賞するも、活躍が目立ったのはごく短期間。1試合61得点、年間736点、通算2044点がすべて学校記録となっているエディ・ハウス(元ボストン・セルティックスほか)も、9球団を渡り歩いて平均得点が2桁に乗ることは一度もなかった。
 
 97〜02年の6年間は、ドラフトで指名されたのも前述のハウス(00年2巡目37位)のみ。95〜96年の2シーズンの成績が、八百長行為の発覚によって抹消されるという不祥事も引き起こしている。
  そうした停滞ムードを打ち破ったのがジェームズ・ハーデンだった。2年時の09年に平均20.1点をマークし、ASU史上初のオールアメリカン1stチームに選出。6年ぶりのトーナメント進出に貢献すると、同年のドラフト3位でオクラホマシティ・サンダーに指名され、12年にはシックスマン賞に輝いた。

 そしてその才能は、12−13シーズンのヒューストン・ロケッツ移籍後に完全に開花する。17年は平均11.2本でアシスト王を獲得。18年は得点王(30.4点)に加え、ロケッツをリーグ最高勝率に導き念願のシーズンMVPにも輝いた。その後も驚異のスコアリングマシンとしてハイパフォーマンスを披露し続け、リーバーやスコットを抜いてASU出身者で最高の選手となっている。

 母校の方もハーデンに負けじとばかりに、デューク大の名司令塔として2度の全米制覇を成し遂げたボビー・ハーリーを15年にHCに招聘。NBAでは自動車事故で負ったケガの影響もあり大成しなかったが、元来の聡明さをコーチングに生かし、就任3年目でトーナメント出場を実現させた。“シーズンMVP受賞者の出身校”、“元NCAA王者の指導する大学”という看板に魅力を感じて有望な選手たちが入学してくれば、ASUは近いうちにトーナメントを沸かせる存在となりそうだ。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2018年10月号より加筆・修正

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