【NBAスター悲話】ショーン・ケンプ――ジョーダン級の才能を生かしきれなかった悲しき跳人【前編】

【NBAスター悲話】ショーン・ケンプ――ジョーダン級の才能を生かしきれなかった悲しき跳人【前編】

1989年、弱冠19歳でプロの世界に飛び込んだケンプは順調に成長を続け、1993年から6年連続でオールスターに選出。1994年にはアメリカ代表の一員として世界選手権にも出場したのだが……。(C)Getty Images

“manchild”という言葉がある。“肉体的には大人だが、精神的には子どもな人間”、“成熟しきれない大人”といった意味で使われるスラングだ。

 マンチャイルドの極端な例は、アーティストやミュージシャンなど一般常識の枠外で生きることを許される人たちに多く見受けられ、プロアスリートにもその傾向を持つ者は少なくない。

 彼らは、子どもの頃から人並み外れた運動能力をもてはやされ、若くして巨万の富と名声を手にし、メディアや取り巻きにチヤホヤされ、その結果自分を律する術を知らないまま歳を重ねていく。良く言えば自由奔放、悪く言えば自制心やモラルの欠如した不完全な大人。

 一昔前に比べたら、NBAからマンチャイルド的な選手の数はずいぶん減ったように思う。日本でNBAブームが起きた1990年代は、それこそ両手で数え切れないほどたくさんのマンチャイルドが存在した。その代表的な選手の1人がショーン・ケンプだ。
  異次元のパワーとスピード、そして驚異の跳躍力を持ち、桁外れに豪快なジャングルダンクを武器に一世を風靡した “ザ・レインマン”。その人間離れしたパフォーマンスや、まるで獣のような佇まいは、個性的な選手が数多く存在した1990年代のNBAでも強烈な異彩を放ち、敵地でも喝采を浴びる数少ない選手の1人だった。潜在的な身体能力においては、あのマイケル・ジョーダンをも凌駕するだろう――ケンプ全盛の頃、そう語る識者もいたほどだ。

 そんなスタープレーヤーが、2002−03シーズンをもって、33歳という脂が乗り切っているはずの年齢でNBAから姿を消した。実際はその6年前、27歳の時にシアトルを捨て去って以降、本来の姿を失ってしまったと言ってもいいだろう。体重の増加によるパフォーマンスの低下、そしてドラッグやアルコールの誘惑を断ち切れず、終いには身上を潰してしまったのだった。

 欲望の赴くままに生きたマンチャイルドは、立ち止まることも引き返すこともせず、神から授かった類稀な肉体と才能を無残にも朽ち果てさせてしまった。超人的なプレーで人々を惹きつけてやまなかった男の、あまりにも寂しい末路――。
 ■地元エルカートの話題を独占した驚異の高校生

 1969年11月26日、アメリカで最もバスケットボールの盛んな州のひとつ、インディアナ州エルカートにショーン・トラビス・ケンプは生まれた。シングルマザーの母は2つの仕事をこなして家計を支え、生まれつきヒザと踵に障害のあった少年は、小学校高学年まで足の矯正具を手放せなかった。足の病気が治ると同時に身長はみるみる伸び始め、初めてダンクを成功させたのは12歳の時だった。

 コンコード高校に入学する頃には、地元で彼の名を知らぬ者はいなかった。1年時からスターターとして活躍し、高校の体育館、マッキュエンジムは彼のプレーを一目見ようとするファンで毎試合埋め尽くされた。体育館の外には、500人もの少年少女がサインを貰おうと待ち構えていた日もあったという。学校側は急遽体育館の観客席を800席増設し、マッキュエンジムは“The house that Shawn built(「ショーンが建てた家」。ベーブ・ルースとヤンキー・スタジアムの関係をもじっている)”と呼ばれた。

 ケンプの怪物ぶりはまたたく間に全国へと知れ渡り、マッキュエンジムには有名大学はおろかNBAのスカウトまでもが姿を見せるようになった。最終学年、ケンプはチームをインディアナ州の高校選手権優勝に導き、卒業を間近に控えた春には全米トップクラスの高校生が集うマクドナルド・オールアメリカンに招待され注目を浴びた。その時一緒に参加した選手には、アロンゾ・モーニング、クリスチャン・レイトナー、クリス・ジャクソン、クリス・ミルズらがいる。
  1988年、有名大学の熾烈なリクルート合戦が繰り広げられるなか、ケンプが選んだ大学は古豪ケンタッキー大だった。ところが、同大学でプレーすることへの基本合意書にサインしたものの、SAT(大学進学適性試験)の点数が全然足りなく、NCAAの規定により1年間プレーができなくなってしまう。彼の学力は、高校の卒業証書を満足に読めず、自分の名前のスペルすら間違えるほどだった。

 1988年11月、ケンプはケンタッキー大でわずか数か月過ごした後、突然学校を去っていった。その表向きの理由は、リクルートに際しての違反(実際はミルズに対してはあったが、ケンプにはなかった)とされているが、事実は次のようなものだったらしい。

 入学早々、チームメイトのロッカーから金のネックレス2本が盗まれるという事件が発生した。そのチームメイトはコーチの息子だった。警察による捜査の結果、ケンプがそのネックレスを質に入れようとしていたことが判明。ケンプは犯行を否認したが、犯人が誰なのかは火を見るよりも明らかだった。被害に遭ったチームメイトはケンプを告発しなかったが、その事件により彼はケンタッキー大を追われた。
  その後、ケンタッキー大のアシスタントコーチ、ドゥエイン・ケイシー(同年ミルズのリクルートスキャンダルで失脚。現ピストンズHC)の紹介で、テキサスのトリニティバレー・コミュニティカレッジに編入。すでにシーズンが半ばを過ぎていたこともあり、そこでもプレーせず、ケンプは大胆にもNBA入りを表明する。当時、大学でプレー経験のない状態でNBA入りした選手は4人しかおらず、また丸1年実戦から遠ざかっていたにもかかわらず、である。

■ペイトンと出会い開花したジョーダン級の才能

 1989年のNBAドラフトで、シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)がケンプを1巡目17位で指名するというギャンブルに打って出る。ケンプの名前が読み上げられると、ドラフト会場にはブーイングの嵐が吹き荒れた。観客の多くは、ケンプがケンタッキー大で起こした不祥事のことを知っており、さらには高校卒業から1年間もブランクのあるティーンエイジャーが、いくら才能があろうと簡単にはNBAで通用するはずがないと考えていた。
  だが、ソニックスの仕掛けたギャンブルが決して失敗ではなかったことを、ケンプは身をもって証明してみせた。1年目から控え選手ながら81試合に出場し、平均出場時間13.8分、6.5点、4.3リバウンドを記録。またマイアミで行なわれたオールスターのスラムダンク・コンテストに出場し、準決勝で敗れたものの、優勝したドミニク・ウィルキンスを差し置いて1回戦でトップのスコアをマークするなど、ファンの多くは弱冠20歳の若者に秘められた無限の可能性を感じずにはいられなかった。

 そして翌1990年、ソニックスはオレゴン州大のオールアメリカンPG、ゲイリー・ペイトンの獲得に成功。ここにケンプ&ペイトンの強力デュオが誕生する。

 ルーキーイヤーから先発として全試合に出場し、ストリートスタイルの創造性あふれるプレーを得意としていたペイトンは、本能の赴くままプレーするケンプにとって最良のパートナーとなった。一方のケンプもシーズンの途中からスターターに定着、平均15.0点、8.4リバウンドと成績を大幅に伸ばし、球団記録となる1試合10ブロックをマークするなど徐々に頭角を現わしていった。再挑戦したスラムダンク・コンテストでは、ディー・ブラウンに次いで2位の好成績を収めている。(後編に続く)

文●大井成義

※『ダンクシュート』2004年5月号掲載原稿に加筆・修正。
 

関連記事(外部サイト)