ドクターJ、ドミニク、ジョーダン、カーター……多くのスターが伝説を残したスラムダンク・コンテストの歴史

ドクターJ、ドミニク、ジョーダン、カーター……多くのスターが伝説を残したスラムダンク・コンテストの歴史

87、88年大会で優勝を飾ったジョーダンは88年大会のフリースローラインからのダンクや、リバース・ウインドミル気味に決めるゆりかごダンクなど、独創的な技を多く生み出した。(C)Getty Images

■第一次黄金時代の掉尾を飾ったドミニクとジョーダンの頂上決戦

 オールスターウィークエンドに開催されるスラムダンク・コンテストは、その時代の最先端ダンクの見本市のようなものだ。まだ見ぬ一発に、そして想像を超えた一撃に期待を膨らませ、今年もテレビやパソコンにかじりつく。スラムダンクという一瞬の煌めきと爆発の芸術には、人々を惹き付けてやまない絶対的な魅力があるのだ。

 少々残念なのは、常にリーグ最高レベルのダンカーたちが出場するわけではないこと。例えばレブロン・ジェームズ。彼に至っては、ベテランとなった今なおリーグ屈指のパワーダンカーであり、練習や試合で超絶ダンクを披露しながら、これまで1度も出場したことがない。

 いっそのこと、オールスターゲームのファン投票と一緒にダンクコンテスト出場選手の投票も行ない、故障者以外は半強制的に出場させるぐらいのことをやってみたらどうだろうか。出なければ罰金。毎年同じ顔ぶれになってしまうと出る方も大変だろうから、マックス3回までとかに決めて……。
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 1976年1月27日、アメリカのメジャー・プロバスケットボールリーグで初となるスラムダンク・コンテストが、ABAオールスターゲームのハーフタイムに開催された。場所はナゲッツの本拠地、コロラド州デンバー。経営難に陥るチームが続出したABAは、このシーズンをもってNBAへ吸収合併されるため、ABAにおける最初で最後のダンクコンテストとなった。

 ABAがダンクコンテストを企画し、リーグ消滅の4か月前に行なった最大の理由は、ひとえに収益を確保するためだった。ABAにはドクターJ(ジュリアス・アービング)やデイビッド“スカイウォーカー”トンプソン、ジョージ“アイスマン”ガービンなど、NBAを凌駕する名ダンカーが揃っている。

 そんな彼らの驚異的なパフォーマンス見たさに、狙い通りチケットは完売した。また、オールスターゲームのハーフタイムに開催したのは、選手のスケジューリングや交通費、宿泊費の心配がいらず、元手をかけないで集客や視聴率アップが見込めるからだった。

 優勝候補の筆頭は、ABAの象徴にして最大のスターであり、史上最高のダンカーとして名を馳せていたドクターJ。対抗馬は地元ナゲッツの大物ルーキー、トンプソン。マイケル・ジョーダンが子どもの頃に憧れた選手だ。
  その跳躍力は伝説と化し、当時イギリスのギネスブックがリサーチに訪れ、世界記録に認定されたほどだった。トンプソンはその年の参加選手中最も低身長だったが(公称193p、実際は190pなかったとされる)、ドクターJは「彼は7フィート(213p)あるかのようにプレーする」と評している。

 優勝を飾ったのは、最後に劇的なレーンアップ(フリースローラインから踏み切ってのダンク)を成功させたドクターJ。2位は史上初めて360をボースハンドで決めたトンプソンが獲得。全盛期を迎えつつあったダンクアーティストと、若き天才ダンカーによる夢の共演に、アリーナに詰めかけた満員のファンは熱狂した。

 翌1977年、NBA初のダンクコンテストが開催された。ABAでの成功を受けて、2匹目のドジョウを狙ったのだった。当時放映権を持っていたCBSとNBAは、オールスターのサブイベントではなく、規模を拡大し、なんと1シーズンを通して敢行した。

 各チームから選出された総勢22名がトーナメント形式で戦い、全米中継の試合のハーフタイムに1対1でダンクの技を競いあう。決勝はNBAファイナルのハーフタイムに開催。CBSとNBAは、回を重ねるにつれどんどん話題性が増し、最後は大盛り上がりのなか、人気ダンカーによるバトル目論んだが、そうは問屋が卸さなかった。
  目玉選手のドクターJは、賞金の増額を要求するも拒否され出場を辞退。トンプソンやガービンはトーナメント序盤で敗退する。優勝を飾ったのは、ペイサーズのシックスマンで、知名度的には数段落ちるダーネル・ヒルマン。ニックネームは“ドクター・ダンク”。

 主役級の選手が早々と姿を消したことにより、大会は途中からグダグダになってしまった。あまりの盛り上がりのなさに、このダンクコンテストは黒歴史と化し、その後NBAの正史から抹消された。ヒルマンは幻の初代ダンク王となっている。

 NBAが公式に認める初のダンクコンテストが開催されるのは、それから7年が経った1984年。記念すべき第1回の“スラムダンク・チャンピオンシップ”は、1976年のABA開催時と同じくデンバーの地で行なわれた。

 参加選手はドミニク・ウィルキンス、ラリー・ナンス、ルーキーのラルフ・サンプソンとクライド・ドレクスラー、そして8年ぶりの参加となったドクターJら総勢9人。33歳になったドクターJの髪には白いものが混じり、月日の流れを感じさせた。ドクターJの名前がアナウンスされると、観客はスタンディングオベーションとこの日一番の歓声で出迎えた。

 決勝に駒を進めたのは、リバースのウインドミルを効果的に用いたナンスと、元祖ダンク王のドクターJ。ドクターJは2本目を失敗してしまい、最後に十八番のレーンアップを披露したが、ミスを取り戻すには至らなかった。
  栄えある初代NBAダンク王はナンスに決定する。3位には強烈なパワーダンクで会場を沸かせた“ヒューマン・ハイライトフィルム”ことドミニクが食い込んだ。彼はこの後数年に渡り、ダンクコンテストの主役の1人を務めることになる。

 翌1985年はドミニクが、初代王者のナンスやドクターJを抑えて決勝ラウンドに進出。優勝を懸けて争った相手は、ルーキーセンセーション、マイケル・ジョーダンだった。若さゆえか、太めの金のネックレスを首に巻いての出場である。決勝で3本中2本の50点満点を叩き出したドミニクが勝利を掴んだ。

 1986年はジョーダンが足の骨折のため欠場。2連覇を狙って出場したドミニクだったが、身長170pのスパッド・ウェッブが会場を沸かせ、王座を勝ち取った。ウェッブは史上最低身長のダンク王となっている。翌1987年はドミニクがケガで参加を見送り、ジョーダンが初優勝。

 そして迎えた1988年、シカゴで開催されたダンクコンテストで、ドミニクvsジョーダンの頂上決戦が実現する。この2人のうちのどちらかが、リーグのベストダンカーであることに疑問の余地はなかった。2回目の優勝を狙ったウェッブは、1回戦で敗退している。

 これ以上ない盛り上がりのなかで行なわれた決勝ラウンド、3本勝負で2本を終え、ドミニクが3本目に48点以上を出せば優勝が確定。勝負は決したと思われた。ところが、3本目はこの日最低の45点。今度はジョーダンが最終3本目に49点以上で逆転優勝。レーンアップで勝負に出るも失敗(1回の失敗は許されていた)。2回目に成功を収め、見事逆転優勝を果たす。
  地元シカゴでライバルを倒し、連覇を達成したジョーダンは、リーグbPダンカーの座を獲得した。ドミニクとジョーダンが、意地とプライドを賭けて戦った世紀の一戦。会場の盛り上がりや試技の密度、そしてドラマ性や歴史的な観点から、史上最高のダンクコンテストとされている。

 ジョーダンは翌年以降コンテストに出場することはなく、数年間に渡り大きな話題と興奮をもたらした2人のライバル物語は静かに幕を閉じた。それと同時に、ダンクコンテストの第一次黄金期も終焉を迎えたのだった。

■ダンクコンテストを救ったカーターの衝撃的な一撃

 ドクターJやドミニク、ジョーダンといった人気選手が舞台から降りて以降は、ショーン・ケンプやアイザイア・ライダー、ハロルド・マイナーなど傑出したダンカーが何人か出現し、それなりに盛り上がる年はあったものの、1980年代の熱気が長期に渡って蘇ることはなかった。

 そして1998年、ついにダンクコンテストの開催が見送られるという事態に。ダンクコンテストはもう役割を終えたのだろうか、そう人々が懐疑的になりはじめていたその時、風向きを変える歴史的な出来事が起きる。

 2000年のダンクコンテストにおいて、ダンク史に燦然と輝く超弩級の一発が披露されたのだった。ヴィンス・カーターがぶちかましたリバースの360ウインドミル。その衝撃的な一撃により、ダンクコンテストは再び息を吹き返す。土壇場で救世主が現われたのである。
  それでも、カーターがもたらした新たな熱気を定着させることはできなかった。ジェイソン・リチャードソンのアクロバティックなダンクや、ドワイト・ハワードのスーパーマンダンク、ブレイク・グリフィンの車超えダンクなどエンターテインメント性に富んだパフォーマンス、小兵ネイト・ロビンソンの歴代最多となる3度のチャンピオン獲得など、それなりに話題性のある年はあっても、一方で不完全燃焼に終わる年も少なくなかった。

 スター選手の出場回避や、バリエーションのネタ切れ。リーグbPダンカー決定戦から若手の登竜門的なイベントに移行し、フォーマットやレギュレーションの変更を繰り返すなどして、リーグはイベントの活性化を図ろうと試みたが、皮肉にもますます混迷の度合いを増していく。ダンクコンテストは再び低迷期をさまようことになるのか、そう思っていた矢先、またもやダンクの神様が舞い降りる。

 2016年、ジョーダンのレーンアップやカーターのリバース360に並ぶ、驚異的な一発が披露される。新鋭アーロン・ゴードンがやってのけた、マスコット越えの両足レッグスルー。中継局のTNTで、解説というか賑やかしを長年担当している元NBA選手のケニー・スミスは、カーターの時とまったく同じ決めゼリフを大声で何度も叫んだ。

“It’s over! Let’s go home! Let’s go home! ?「(あまりに凄すぎる一発に、コンテストは)もう終わりだ、家に帰ろう!」
  だが最終的に勝利をもぎ取ったのは、前年度の覇者ザック・ラビーンだった。岩をも砕く大鉈のようなゴードンのダンクに対し、切れ味鋭い日本刀のようなラビーンのダンク。お互い一歩も引かず、極上のバトルを展開した2人の絶技に、世界中のバスケットボールファンが酔いしれた。超ハイレベルで熾烈な戦いは、ドミニクとジョーダンが火花を散らした1988年のコンテストに肉薄していたと言っても過言ではないだろう。

 2人が繰り出した究極のダンクの数々は、この先もずっと語り継がれるに違いない。ドクターJやドミニク、ジョーダン、カーターらのダンクが伝説となり、時を経ても鑑賞に耐えうるように、ゴードンとラビーンによる渾身のダンクも、今後決して色褪せることはない。

 ダンクは進化する。ケニー・スミスの“It’s over! Let’s go home!”を次に聞けるのは、いつだろうか。まだ見ぬ、想像を遥かに超えた衝撃の一発を楽しみに、次なるスラムダンク・コンテストを心待ちにする日々である。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2017年4月号掲載原稿に加筆・修正。

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