ノビツキー獲得を巡り繰り広げられた息詰まる駆け引き。2000年代のNBA勢力図に影響を与えたドラマ【NBAドラフト史:1998年】

ノビツキー獲得を巡り繰り広げられた息詰まる駆け引き。2000年代のNBA勢力図に影響を与えたドラマ【NBAドラフト史:1998年】

1998年のドラフトではのちにリーグのトップスターに上り詰めるノビツキー、ピアース、カーターが指名された。(C)Getty Images

■マイナー大学の無名選手がドラフト1位指名の有力候補に

 1998年のNBAドラフトリストを見て、真っ先に思うことは“歴代屈指の外れドラ1、マイケル・オロウォカンディを輩出した年”ということになるだろう。キャリア平均8.3点、6.8リバウンドという数字は、史上最低クラスとまではいかないが、それでも外れドラ1の象徴的存在の1人となっている。

 ウィキペディア日本版に記載されているオロウォカンディの説明文はわずか2行。曲がりなりにも、天下のNBAドラフト1位選手である。それがたったの2行……。いくら期待外れに終わった選手とはいえ、ちょっと不憫すぎやしないだろうか。

 オロウォカンディの異色かつユニークな経歴が、このまま語り継がれることなく朽ち果てていくのはあまりにも忍びないので、この機会に興味深いものを改めて記録にとどめておこう。
 ・ナイジェリアのラゴスに生まれ、外交官の父親の海外勤務に伴い、4歳の時にロンドンに移り住む。
・中学時代に走り幅跳びと三段跳びでイギリスの学生記録を樹立。
・バスケットボールを遊びで始めたのは18歳の時。きっかけは、ビデオで観たマイケル・ジョーダンのハイライト集に衝撃を受けて。
・図書館でアメリカの大学を紹介するガイドブックを手に取り、最初に開いたページに載っていた大学に電話をかけた。自分は7フッターであることを告げて入部の交渉をすると、奨学金なしの条件でトライアウトへの参加を認められ、渡米に至る。
・バスケ歴3年、大学3年時に弱小チームをNCAAトーナメント進出に導く。
・バスケ歴4年、大学4年時の成績は平均22.2点、11.2リバウンド、2.88ブロック。ビッグウエスト・カンファレンスの最優秀選手賞を受賞。

 そして迎えた1998年NBAドラフト。未知数の塊のような素材が、ドラフトの目玉選手になるというシンデレラストーリーが誕生する。

 この年のドラフトロッタリーで1位指名権獲得率が最も高かったのは、前シーズン11勝とダントツ最下位だったデンバー・ナゲッツ(35.92%)。ロサンゼルス・クリッパーズ(22.56%)、ゴールデンステイト・ウォリアーズ(15.09%)がそれに続いた。
  レギュラーシーズンをブービーで終えたトロント・ラプターズと、下から4番目のメンフィス(当時バンクーバー)・グリズリーズは、エクスパンションチームの規約のため、仮にロッタリーで1位になったとしても2位に格下げとなる。

 抽選の結果、案の定グリズリーズが1位となり、規約に則り2位のクリッパーズに1位指名権が与えられた。最終的に1位クリッパーズ、2位グリズリーズ、3位ナゲッツ、4位ラプターズ、5位ウォリアーズに確定する。

 1位指名の最有力候補は、アリゾナ大2年のマイク・ビビー。前年に同校初のNCAAタイトル獲得の原動力となり、翌年もPac−10(パシフィック10カンファレンス=現パシフィック12カンファレンス)の最優秀選手に選出。卓越したシュート力と堅実なゲームメークは高い評価を得ていたが、ドラフト前に複数のチームからワークアウトの要請を受けながら、地元アリゾナに近いクリッパーズ以外すべて固辞するという行為を疑問視する声もあった。
  もう1人の1位候補が、パシフィック大4年のオロウォカンディ。カンザス大3年のオールラウンダー、ポール・ピアースがトップの2人に続いた。ピアースは4位以内の指名が確実視され、なかには2位に予想するメディアもあった。

 次いで同校4年のリーフ・ラフレンツ、そして直前のシーズンに全米最優秀選手賞をはじめ、多くの個人タイトルを獲得したノースカロライナ大3年のアントワン・ジェイミソン、彼のチームメイトで親友の同3年、ヴィンス・カーターらが上位指名候補に名を連ねていた。

『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙が予想した指名トップ5は次の通り。1位ビビー/クリッパーズ、2位オロウォカンディ/グリズリーズ、3位ピアース/ナゲッツ、4位ロバート・トレイラー/ラプターズ、5位ジェイミソン/ウォリアーズ。

 ロッタリーから1か月後の1998年6月24日、トロントに続き2度目のアメリカ国外開催となるNBAドラフトが、カナダ西海岸のバンクーバーで開催された。
  注目の1位指名、クリッパーズはビビーではなくオロウォカンディを選択。当時クリッパーズの球団社長を務めていたエルジン・ベイラーは、次のようなコメントを残している。

「ビビーはこのリーグでも素晴らしいPGになるだろう。だが、オロウォカンディのサイズと才能には眼を見張るものがある。彼は会うたびに成長しており、その成長の度合いはリーグの誰よりも著しい」

 2位のグリズリーズがビビーを、3位のナゲッツはラフレンツを指名。続いて4位ラプターズがジェイミソンを、5位ウォリアーズがカーターを指名すると、すぐさまカーターに金銭を付けた形でジェイミソンとのトレードが発表される。壇上で、大学のチームメイト同士が笑顔で帽子を交換するという珍しいシーンが繰り広げられた。
  この日起きた最大の番狂わせは、上位指名が見込まれていたピアースの名前がなかなか読み上げられないことだった。それによりドラフトは意外な様相を呈し、ひいては巡り巡って2000年代のNBAに少なくない影響与えることになる。

 当時セルティックスの球団社長兼ヘッドコーチを務めていたリック・ピティーノによる回想話を、2015年に『ボストングローブ』紙がストーリーにまとめており、これがすこぶる興味深い。『ESPN』が2006年に掲載した情報と併せて、未来の殿堂入り選手3人を巡って繰り広げられた、スリリングな駆け引きの一端を覗いてみたい。

 ドイツのプロ選手、ダーク・ノビツキーの名前がアメリカで知られるようになったのは、1997年9月にNBAがヨーロッパで開催したプロモーション・ツアーだった。ドイツのドルトムントで行なわれたエキシビションゲームで、ノビツキーはチャールズ・バークレーの頭上からダンクを叩き込んで見せた。

 翌98年3月、サンアントニオで開催されたナイキのフープサミットに招待されたノビツキーは、33得点、13リバウンドをマーク。俄然NBA関係者の注目を集める存在となったが、高校卒業後に一時就いていた兵役への復帰をほのめかしていたこともあり、指名されるとしても良くて1巡目中位というのが大方の予想だった。
  だが、ノビツキー獲得に向けて、密かに策略を巡らせているチームがあった。10位指名権を持つセルティックスである。

 1998年のオフ、セルティックス球団社長兼HCのピティーノは、バケーションでイタリアに滞在していた。そこに1本の電話が入る。声の主は、セルティックスのクリス・ウォーレスGM。「ノビツキーは掘り出し物になり得る、ローマでワークアウトを実施してほしい」。それが用件だった。

 さっそくピティーノはノビツキーの代理人と連絡を取り、ローマ郊外で極秘のワークアウトを行なう。ボールボーイにはアメリカから義弟を呼び寄せた。そのワークアウトの様子を、ピティーノは次のように回想する。

「ノビツキーが見せてくれた45分間の光景は、私がかつて目にしたことのないものだった。バスケットボールのコーチになって以来、最も印象的なトレーニングだったよ。『次のラリー・バードを見つけたぞ』。心の中でそう呟いたよ」
  ピティーノはノビツキーの代理人と昼食を取りながら、ある要請を行なった。他のNBAチームからノビツキーに接触があった場合は、アメリカでプレーせずにもう1年兵役に就くことを匂わせてほしい、その代わりセルティックスが必ず10位で指名する、と。ピティーノが下した決断は、ウォーレスGMと球団副会長のレッド・アワーバック以外、誰にも知らされなかった。

 ノビツキーは自分たち以外のどのチームともワークアウトを実施しておらず、9位以内に選ばれることはない、そうピティーノは確信していた。だが、彼に先駆けてノビツキーに接触していた人物がいたことを、ピティーノは知らされていなかった。ダラス・マーベリックスのアシスタントGM、ドニー・ネルソンがその人だった。

 キリスト教が主催するスポーツ互助団体の一員として、学生時代に南米やヨーロッパを旅した経験を持つドニーは、NBA関係者の中でいち早く海外の選手に目を向け、情報通として知られていた。1995年からフェニックス・サンズでアシスタントコーチを務めていた彼は98年、父ドン・ネルソンがGM兼HCの役職に就くマブズに移籍し、アシスタントGMを任される。

 迎えたNBAドラフト、ノビツキーの人並み外れた才能と、豊かな将来性を見抜いていたドニーは、彼の獲得を父に提言。選手の才能を嗅ぎ分ける能力にかけては、リーグ随一の才覚を持つドンは快諾する。ネルソン親子はノビツキー獲得に全力を傾けた。
  ドニーはスティーブ・ナッシュが高校生の頃から知り合いで、大学生の頃には友人になっていた。1996年NBAドラフトの1巡目15位でサンズがナッシュを獲得したのも、当時のアシスタントコーチ、ドニーによる強い後押しがあったからこそだった。

 マブズは保有する6位指名権を使い、単純にノビツキーを獲得することもできたが、9位指名権を持つミルウォーキーバックス、そしてサンズとのトレードを絡めることにより、サンズで燻っていたナッシュの獲得も一挙に狙った。ピティーノが描いたシナリオは、ネルソン親子の巧妙な策略により崩壊しつつあった。

 上位チームの指名が進んでいくなか、ピティーノはある異変に気付く。5位以内の指名が確実視されていたピアースが、6位、さらには7位でも選ばれなかったのだ。彼らは指名選手をノビツキー1本に絞っていたこともあり、ピアースとのワークアウトはおろか、リサーチすら十分に行なっていなかった。

 8位のシクサーズもピアースをスルーし、セルティックスの指名選手を通達する締め切り時間までは、9位バックスの5分と自分たちの5分を合わせてあと10分。その時ピティーノは動く。万が一に備え、ピアースの最新情報を入手すべく、彼の出身校カンザス大のロイ・ウィリアムズHCに電話をかけ、ピアースの故障の有無等を確認した。
  間違いなく獲得できると確信していたノビツキーは、9位でバックスにさらわれてしまう。安心しきっていただけにショックは大きく、「我々は粉砕され、精神的に打ちのめされたよ」。そうピティーノは述懐している。

 だがしかし、9位のバックスがノビツキーを指名したということは、ピアースがセルティックスに転がり込んでくることを意味した。わずか数分間に起こった、想像を絶するいくつかの出来事に、「あの時は神経がやられそうだった」とピティーノ。

 カリフォルニア州オークランドで生まれ、小4の頃にロサンゼルスのイングルウッドに越してきたピアースは、幼少時からレイカーズの大ファンだった。そんな彼にとって、レイカーズ最大のライバルチームであるセルティックスは、もちろん最も嫌いなチーム。その彼が、ひょんなことからセルティックスに入団する。そして、長い低迷期を経てフランチャイズプレーヤーへと成長し、栄えあるキャプテンとして2008年に22年ぶりの優勝をチームにもたらすのだから、世の中わからないものだ。

 もしあの時、ノビツキーとピアースの双方が残っていたら、ピティーノはどちらを選んでいたのか。彼の答えは「ノビツキー」だった。

 マブズ、バックス、サンズの間で6選手が絡んだ三角トレード。手練のネルソン親子が緻密に企てた、見事な一撃である。将来のレギュラーシーズンMVPが、2人同時に同一トレードで動いたのは、NBA史上初めての出来事であり、その後も発生していない。

 史上有数の外れドラ1となり、残念な意味で後々語り継がれ、NBAドラフト史に名前を残したオロウォカンディ。一方、ドラフトの綾により、想定外のチームに入団するも、ボストンとダラスにそれぞれ優勝をもたらし、NBA史に燦然とその名を刻むことになったピアースとノビツキー。そしてその余波により、ノビツキーとナッシュは生涯の友情を育むことになった。

 NBAドラフトが紡ぎだすドラマは、まさに悲喜こもごもである。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2016年1月号掲載原稿に加筆・修正。

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