【コビー・ブライアント物語・Part1後編】晴れてレイカーズの一員に。順調に成長を遂げ、シャックとのデュオは日ごとに威力を増すも……

【コビー・ブライアント物語・Part1後編】晴れてレイカーズの一員に。順調に成長を遂げ、シャックとのデュオは日ごとに威力を増すも……

96年ドラフトでホーネッツからの指名後、紆余曲折を経てコビーは晴れてレイカーズの一員に。(C)Getty Image

■ドラフト後のトレードにより、憧れだったレイカーズへ入団

 1996年4月29日、コビー・ブライアントは母校の体育館で記者会見を開き、NBAへの挑戦を表明した。それまで5人の高校生が直接NBA入りを果たしているものの、彼らは皆ビッグマン。とりわけ競争の激しいシューティングガードのポジションで、まだ線の細い、精神的にも未成熟な18歳の若者が通用するのか、疑問視する声が大勢を占めていた。だが、そういった外野からの批判的な声に、コビーはまったく耳を貸さなかった。

 当時のチームメイトが、『USAトゥデイ』のインタビューで次のように回想している。「バスの中で、コビーはこう言ったんだ。『(マイケル)ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)は俺を止めることができない』ってね。彼は新たなチャレンジを常に探していた」。
  1996年のNBAドラフトにおいて、コビーの能力を最も高く評価していた人物が、ロサンゼルス・レイカーズのジェリー・ウエストGMだった。NBAロゴのモデルにもなっている伝説の名選手である。ウエストはドラフトの前にコビーをワークアウトに招き、チームOBのラリー・ドリューや守備の名手マイケル・クーパーと一緒にプレーさせると、コビーは2人を手玉に取ってみせた。

 コビーの才能にますます惚れ込んだウエストだったが、その年レイカーズが持っていた1巡目指名権は24位。ほかの大物FA選手獲得のため、サラリーキャップに空きを作りたいという思惑も重なり、ウエストは13位の指名権を持っていたシャーロット・ホーネッツとのトレードを画策する。ホーネッツの1巡目指名選手と、レイカーズの先発センターで、後にオールスターとなるブラデ・ディバッツをトレードすることで、ドラフト前日に合意。当日、ホーネッツは誰を獲得すればいいのか指名開始時間まで教えてもらえず、コビーの名前を聞いて驚いたそうだ。

 セルビア出身でロサンゼルスを第二の故郷と考えていたディバッツは、女優業を営む妻の猛反対もあり、どうしてもロサンゼルスを離れたくなかった。新人との交換でホーネッツに行くぐらいなら引退も辞さないと主張し、交渉は暗礁に乗り上げる。もしディバッツが意地を貫き通していたら、“レイカーズのコビー”は誕生していなかった。
  ウエストGMとの非常に感情的なミーティング?の末、最終的にディバッツは折れる。その結果、ドラフトから半月の時を経て、コビーは幼少の頃からの夢だった名門レイカーズの一員となった。当時のコビーの代理人は、コビーがホーネッツでプレーすることは、いかなることがあっても「あり得ない選択肢だった」と述べている。

 コビーのトレードが成立してからちょうど1週間後、もう1人のキーマンがFAでレイカーズに新加入する。7年1億2000万ドルの超大型契約を引っさげてやってきたのは、リーグを代表する大型センター、怪物シャキール・オニールだった。
 ■1年目から高い注目を浴びるが、大舞台で致命的なミスを連発

 1996−97シーズンが開幕し、プロ生活の第一歩がスタートした。シーズン初戦は、プレシーズンゲームで負った股関節のケガのため出場を見送り、翌々日の2試合目がプロデビュー戦となった。当時のNBA史上最年少出場記録を樹立したものの(18歳と72日)、出場時間はわずか6分、1リバウンド、1ブロック、フィールドゴールは1本放ってミスし無得点。結果を残すことはできなかった。

 コビーはデビュー前からアディダスと6年4800万ドルの大型契約を結び、スプライトをはじめ露出度の高いCMに出演するなど、恵まれた待遇にあった。そんなコビーをやっかむ選手や、新人のくせにやたらボールを欲しがり、アグレッシブすぎるプレーを面白くないと思う先輩も少なくなかった。

 ある時などは、コビーが派手なプレーを披露すると、ベンチのチームメイトたちが一斉にシラけた目で見ていたこともあった。シャックは公の場でコビーを“showboat(目立ちたがり屋、気取り屋)”と呼び、からかう始末。それでもコビーは自分のスタイルを変えようとせず、我が道を突き進んだ。

 年が明けた1997年1月、先発出場の最年少記録を更新(18歳と158日)。その10日後、コビーはルーキーイヤーのハイライトを迎える。オールスター・ルーキーチャレンジで、MVPこそアレン・アイバーソン(当時フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)に譲ったものの、当時の歴代最多得点となる31得点を記録した。

 そして注目のスラムダンク・コンテストでは、史上最年少のチャンピオンとなり、その名を世界に知らしめることになる。コビーはスターの階段を一歩ずつ上り始めたのだった。
  ところが――。プレーオフのカンファレンス準決勝において、それまでのバスケ人生で最大の試練を迎えてしまう。強豪ユタ・ジャズを相手に1勝3敗と後がない状態で、試合最終盤にエアボールを連発する。NBAの歴史上、5分間に4本のエアボールを放った選手がかつていただろうか。それを高校出の新人が、1年の総決算であるプレーオフの、負ければシーズン終了という重要な試合の最も緊迫した場面で、思いっ切りやらかしてしまったのである。

 試合終了後、チームはロサンゼルスへ戻り、コビーが自宅に着いたのは午前3時。疲れた身体を引きずって、すぐさま近所にある高校の体育館に行き、1日中シュートを打っていたという。

 翌1997−98シーズンは、控えとして79試合に出場。シックスマン賞で2位の得票数を得るほどの成長ぶりだった。

 前年度のスラムダンク・コンテスト優勝以降、うなぎのぼりで人気が高まっていったコビーは、自チームでは控え選手ながら、オールスターのファン投票でスターターに選出されるという珍事を招く。史上最年少のスターターというおまけつきだった。
  レギュラーシーズンを61勝21敗で終え、8年ぶりに60勝の大台に乗せたレイカーズだったが、プレーオフではカンファレンス決勝で再びジャズにスウィープ負けを喫する。コビーも平均8.7点と振るわず、2年連続で不完全燃焼のままシーズンを終えた。

 ロックアウトのため短縮された1998−99シーズンは、50試合すべてで先発を務め、チームで唯一全試合に先発出場を果たした。平均出場時間をチーム最多の37.9分まで大幅に伸ばし、平均19.9点はシャックの26.3点に次いでチーム2番目。シャックとのワンツーパンチは日増しに威力を増しつつあったものの、コビー人気の高まりとともに双方のエゴがぶつかることも多くなり、2人の間には目に見えない溝ができ始めていた。

 プレーオフでは、カンファレンス準決勝でサンアントニオ・スパーズ相手にまたもやスウィープで敗退。現状を打破するため、チームに大きな改革が必要なのは、誰の目にも明らかだった。このままの状態が続けば泥沼にはまるどころか、最悪の場合は空中分解の可能性すらあった。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2020年4月号より転載。

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