「運動能力よりも精神力の勝負だった」90年代に一世を風靡した高卒プレーヤー、ショーン・ケンプが語るNBAの厳しさ

「運動能力よりも精神力の勝負だった」90年代に一世を風靡した高卒プレーヤー、ショーン・ケンプが語るNBAの厳しさ

89年にデビューしたケンプは2年目から先発に定着。7年目の96年には平均19.6点、11.4リバウンドをあげ、ソニックスをファイナル進出に導いた。(C)Getty Images

2000年代前半のNBAにはコビー・ブライアントやケビン・ガーネット、トレイシー・マッグレディなど、高校から直接プロ入りした選手が多くいた。現役ではロサンゼルス・レイカーズのレブロン・ジェームズとドワイト・ハワード、レイカーズと同じLAに本拠地を置く、クリッパーズのルー・ウィリアムズがカレッジには進まず、高校卒業後にプロの世界に飛び込んでいる。

 しかし2005年を最後にNBAは高卒選手のプロ入りを禁止。現在のルールではドラフト日に19歳になっていて、なおかつ高校卒業から最低1年以上を経過していないとドラフトの資格を得ることができない。

 高卒選手の共通点は、17、18歳の時点でNBAでもトップクラスの身体能力を持っている、もしくはNBAシェイブと呼ばれるプロフェッショナルアスリートの肉体をすでに備えていることだろう。

 1989年のドラフト1巡目17位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)に指名されたショーン・ケンプもカレッジでのプレーを経験せず、高校からプロに進んだ選手の1人だ。

 当時、ソニックスのアシスタントコーチを務めていたドゥエイン・ケイシー(現デトロイト・ピストンズ・ヘッドコーチ)は、「ケンプはダンクしようとしてリングに顎をぶつけて5針縫ったという伝説を作ってNBAにやってきた」と振り返る。
  2メートルを超える長身ながら圧倒的な機動力と跳躍力を持ったケンプはケンタッキー大でプレーする予定だったが、オフコートで問題を起こして公式戦出場を前に転校。その後、コミュニティーカレッジに進んだものの、ここでもプレーせずにNBAに進むことを選んだ。

「自分より上手い選手と戦いたかった。とにかくNBAでプレーしたかった。家族を養うためにも俺は誰よりも早くプロでプレーして稼ぎたかったんだ」とケンプは言う。

 1年目から81試合に出場したケンプだが、先発はわずか1試合にとどまり、平均6.5点、4.3リバウンドと際立った数字は残せなかった。

「自分が思っていたようなプレーができなかった。速さ、高さ、若さだけではNBAで通用しないことを思い知らされた。自分では完璧だと思ってダンクにいっても、死角からブロックの手が出てきて阻まれる。多くの相手は俺を小僧だと思って出し抜こうとしてくる。それもプロの世界では重要なテクニックなんだ。いつも誰かにマークされているプレッシャーを感じていたし、NBAは運動能力よりも精神力の勝負だった」(ケンプ)。

 普通の選手はカレッジで細かい戦術やスキルを身につけるが、ケンプはプレーの基礎となる根本の部分をNBAの実戦から学ぶことになる。10代のうちに他の選手では体験できないことを誰よりも早く経験することができたのだ。
  この教訓は1996年に初めて出場した、シカゴ・ブルズとのファイナルで試されることになった。しかし極めれば極めるほど勝敗の分かれ目は選手の精神力に左右される。当時26歳だったケンプは豪快なダンクやブロックなど攻守にわたってチームを牽引。シリーズ平均23.3点、10リバウンド、2ブロックをあげ、同年にNBA記録となる72勝をあげたブルズを苦しめたが、個の力での限界を見せられ2勝4敗で敗れた。

 ケンプのシグネチャープレーは野性味あふれる豪快なスラムダンクだ。とりわけ相棒のゲイリー・ペイトンが繰り出すロブパスからのアリウープは彼の18番だった。

 彼が最初にダンカーとして注目を浴びたのが1991年のスラムダンク・コンテスト。ドクターJことジュリアス・アービングとマイケル・ジョーダンが過去の大会で見せたフリースローレーンからのダンクを、ケンプはくさび形のポーズを空中でキープし見事に決めてみせた。

 1980年代に“ヒューマンハイライトフィルム”と呼ばれた名ダンカーのドミニク・ウィルキンス以来、NBAには“ダンク馬鹿”と呼べる使い手が不在だった。もちろん、ジョーダンやクライド・ドレクスラーなどの実力者はいたものの、彼らのダンクは“アート”だった。一方ケンプのダンクはドミニクと同じように荒々しく、“ジャングルダンク”と呼ばれ、リーグきっての人気選手となった。
  空中の支配者となったケンプは1992年にそれまで履いていたナイキを離れ、リーボックと大型契約を結んだ。

「細い足首に強靭なふくらはぎを持つ俺の脚にはローカットのシューズが合っていた。ハイカットは足首の可動域を減らしてしまい、フィットしないことがある」とケンプはシューズの好みを語っていた。

 シャキール・オニールとともにリーボックの広告塔となったケンプは、1994年には自身初のシグネチャーとなる『カミカゼ』を発表。さらに1995年には『カミカゼ2』、1996年に『レインマン1』、翌年には『レインマン2』をリリースし、スターの地位を不動のものとした。

 オールスターには1993年から6年連続で出場、1994年にはドリームチーム2のメンバーとして世界選手権(現FIBAワールドカップ)で優勝。ケンプは実力、人気ともに兼ね備えたソニックスの看板選手だった。

 その後アルコールやドラッグにどっぷりハマって劇太り。さらにコート外のトラブルもあってジャーニーマン化し、2003年を最後にNBAの舞台から姿を消したケンプ。それでも試合中に繰り出すケンプのジャングルダンクの破壊力を、今も鮮明に記憶しているファンは多いはずだ。

文●北舘洋一郎

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