“下位チームの主役”から“強豪チームの脇役”へ――酸いも甘いも知り尽くしたロン・ハーパーのキャリア【NBA名脇役列伝・前編】

“下位チームの主役”から“強豪チームの脇役”へ――酸いも甘いも知り尽くしたロン・ハーパーのキャリア【NBA名脇役列伝・前編】

ハーパーは、キャリア初期はリーグきってのスコアラーとして、後期は有能な脇役として優勝に貢献した、稀有な存在だ。(C)Getty Images

バスケットボールの腕に覚えのある者なら、誰でもチームの中心となって脚光を浴びたいと思うだろう。それが優勝に縁のない下位チームであったとしても、注目の的にはなれるし高い給料も得られる。その一方で、どんな役割であっても、チームとして勝利を手にしたいとの願望もまた、皆が持っている。だが、いずれも同時に叶えられるのはごく一握りのスーパースターだけで、それ以外の選手は「弱いチームの主役」、もしくは「強いチームの脇役」のいずれかに甘んじなければならない。

 ロン・ハーパーはその両方を経験している。NBAでの最初の8年間はエースとして、最後の7年間はチャンピオンチームでロールプレーヤーに徹し、いずれの立場でも称賛を得た、数少ない選手の一人だった。
  ハーパーには子どもの頃から吃音があり、かなり大きくなってからもそのことをからかわれ続けた。だが、バスケットボールをする時だけは、周りの子どもたちは競って彼をメンバーに加えたがった。それほどまでに、ハーパーの才能は抜きん出ていたのだ。

 高校卒業後はマイアミ大学に進んだ。と言ってもフロリダの出身ではなく、生まれも育ちもオハイオ州デイトン。オハイオにはマイアミという名の郡があって、そこにあるマイアミ大は、フロリダではないことを示すため、通常「マイアミ・オブ・オハイオ」と呼ばれている。

「第1希望はアリゾナ州大だったんだけどね。母親にそれを伝えたら“マイアミならここから45分よ”と返されて、まあいいかと思ったのさ」

 身長198cm、体重98kgの体型は1歳年上のマイケル・ジョーダンとほぼ同じ。プレースタイルもジョーダンに通じるものがあった。左のシューズに“ディフェンス”、右には“ダンク”と書き込んでプレーしていたのは「そのふたつが、俺の最も得意とするもの」だったからだ。

 1985年に神戸で開かれたユニバーシアードでは、全米代表の一員として銀メダルを獲得した。大学4年時には平均24.4点、11.7リバウンドの好成績で、オール・アメリカ2ndチームに選出。所属カンファレンスの通算得点記録も樹立し、86年のドラフト1巡目8位でクリーブランド・キャバリアーズから指名された。

 GMのウェイン・エンブリーは大学の先輩でもあり、地元の有望株を手に入れてご機嫌だった。もちろんハーパーも「生まれ故郷のチームでプレーできるなんて幸せだ。ここなら家族も試合を見に来れるしね」と喜んだ。
  家族以外でも、彼のプレーを見に来る価値は十分あった。デビュー戦で25点をあげると、その後も毎試合のように高得点をマーク。12月は平均22.9点、続く1月も22.4点で、2か月連続して最優秀新人に選出された。

 評価をさらに上げたのは、2月4日にボストンで行なわれたセルティックス戦だった。ホームで異常な強さを誇った前年王者を相手に、ハーパーは21本中15本のシュートを決め、40得点を叩き出したのだ。百戦錬磨のベテランでも畏怖するボストン・ガーデンの雰囲気に、23歳の若武者はまったく呑まれることがなかった。

 1年目は最終的に平均22.9点、リーグ4位の2.55スティールと、攻守両面で素晴らしい成績。新人王投票では、ユニバーシアードで一緒にプレーしたチャック・パーソン(インディアナ・ペイサーズ)に次ぐ2位に入った。

 キャブズにはこの年、ハーパー以外にもドラフト全体1位指名のブラッド・ドアティや、2巡目で獲得したマーク・プライスら優秀な新人が続々と加入。彼らの成長と歩みを合わせるようにチームも急速に強化された。

 88−89シーズンは球団記録(当時)の57勝をあげ、デトロイト・ピストンズに次ぐリーグ2番目の高勝率でプレーオフに進出。1回戦でジョーダンに“ザ・ショット”を決められて敗退したとはいえ、チームの将来は明るいように思え、ハーパーも一生このチームにいられればいいと考えていた。
  だが、キャブズでのキャリアはたった3年で終わりを告げた。ある日、彼はエンブリーGMのオフィスに呼び出され、思いもよらぬ言葉を聞いた。ドラッグの溜まり場となっているナイトクラブで、彼の姿を見た者がいるとの報告を受けたというのだ。

「彼が何を言っているのかわからなかった。そんなクラブに行った覚えは全然なかったから。必要なら薬物検査でも何でもしてくれと言ったけど、彼は聞く耳を持たなかった」

 こうして89−90シーズンが開幕して間もなく、ロサンゼルス・クリッパーズへのトレードが決まる。

「腹が立って仕方がなかった。俺たちはとてもいいチームになっていたのに、ぶち壊されたんだ。あのまま成長していけば、キャブズはきっと優勝できていたはずだ」

 これだけでもハーパーにとっては悲劇だったが、さらなる不幸が待っていた。1月半ば、試合中のアクシデントで右ヒザの前十字靱帯を断裂。残りのシーズンは全休を余儀なくされた。約1年後に復帰を果たしたが、かつてファウルライン付近からダンクを決めたほどのジャンプ力は失われてしまっていた。

 それでもアウトサイドシュートを磨くことによって、毎年20点近くをキープ。名将ラリー・ブラウンが指揮を執った92、93年には、2年連続でプレーオフに進出した。チーム名がクリッパーズとなってからでは球団初の快挙だった。(後編に続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2012年12月号掲載原稿に加筆・修正

【名場面PHOTO】ジョーダン最後のオールスター、コビー81得点、カーターの豪快ダンク……1999-2019 NBA名場面集
 

関連記事(外部サイト)