強豪ルイビル大の栄光と没落。過去3度の全米制覇を成し遂げるも、近年はスキャンダルまみれに【名門カレッジ史】

強豪ルイビル大の栄光と没落。過去3度の全米制覇を成し遂げるも、近年はスキャンダルまみれに【名門カレッジ史】

ミッチェルは2年時にトーナメント出場を果たすも、2回戦で姿を消した。(C)Getty Images

世界中を覆う新型コロナウイルスの脅威は、とうとうカレッジバスケの祭典であるNCAAトーナメント(以下トーナメント)を中止に追い込んだ。1939年の第1回以来、第二次世界大戦中も欠かさず開催されてきた大会の中止はまさしく異常事態で、ファンに大きなショックを与えている。

 さらにはNBAでも、まずユタ・ジャズのルディ・ゴベアが感染を公表。次いで3月13日にはチームメイトのドノバン・ミッチェルも検査の結果陽性であると判明し、ついにはリーグ全体が中断の決定を下した。もっとも健康な若者であれば重症化することはほとんどなく、ゴベアとミッチェルも順調に回復へ向かっているようで、とりあえずは一安心だ。

 キャリア3年目の今季はオールスターにも初出場したミッチェルが、まずその名を売ったのは2018年のスラムダンク・コンテストだった。次々に独創的な技を繰り出して王者となり、特に予選2本目の試技では、1980年代に強烈なダンクで観客を魅了した“ドクター・ダンケンシュタイン”ことダレル・グリフィスのジャージーを着用して臨み話題になった。ミッチェルにとってグリフィスはジャズの先輩であるだけでなく、今回取り上げるルイビル大の先輩にもあたる存在だ。
  同じ州に所属する超名門校、ケンタッキー大(UK)には及ばなくとも、これまでルイビル大は数々の輝かしい実績を残してきた。トーナメントの出場回数43回はカレッジ史上5位タイであり、また1980、86、2013年には全米制覇も達成(2013年のタイトルは後述する理由により剥奪)。最大のライバルであるUKとの一戦は、ケンタッキー州の別名(Bluegrass State)から“バトル・オブ・ブルーグラス”と称されている。

 バスケットボール部(通称カーディナルス)が創設されたのは1911年。結成からしばらくは結果が出ず、ヘッドコーチ(HC)も1人に定まらなかったが、1944年に就任したペック・ヒックマンの下、1948年にNCAAとは別組織であるNAIAトーナメントで頂点に立った。
  その原動力となったジャック・コールマンは、翌1949年に同大初のNBA選手となる。ロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)の主力として1951年の優勝に貢献すると、1958年にもセントルイス(現アトランタ)・ホークスでリーグ制覇を果たし、現役最終年を有終の美で飾った。キングス、ホークスの両球団で優勝を経験したのは、コールマンただ1人である。

 トーナメントに初出場したのは1951年。エースとして活躍したボブ・ロックミューラーは、翌1952年のドラフトで同大初となる1巡目指名(7位)を受けシラキュース・ナショナルズ(現フィラデルフィア・セブンティシクサーズ)に入団。しかし平均3.7点に留まり、わずか1年でNBAから姿を消した。

 1956年には平均23 .8点、22.2リバウンドをマークしたチャーリー・タイラを擁し、今度はNIT選手権を制覇。翌1957年にオールアメリカンに選出されたタイラは、同年にニューヨーク・ニックスでNBAデビューを果たすも、5年間で平均8.9点、7.4リバウンドと、こちらも大成はできなかった。
  現時点でルイビル大史上最高の選手は、1965年に入学したウェス・アンセルドだろう。201cmのサイズながらセンターを務め、2年時の1967年から2年連続でオールアメリカンに選出。1968年のドラフト2位でボルティモア・ブレッツ(現ワシントン・ウィザーズ)に入団すると、1年目から平均13.8点、18.2リバウンドと暴れ回り、リーグ史上2人目となる新人王とシーズンMVPの両獲りを成し遂げた。この時の平均得点は、歴代のMVP受賞者のなかで最少の数字となっている。

 低身長を補って余りある強靭な体格で、1975年には平均14.8本を奪取しリバウンド王を獲得。またスクリーナーとしても優秀であり、ピック&ロールから多くの得点を生み出したほか、キャリア平均3.9アシストとビッグマンながらパスも巧みだった。ブレッツが優勝した1978年にはファイナルMVPにも選ばれ、ルイビル大出身選手で唯一の殿堂入りを果たしている。
  1971−72シーズンからは、UCLAで名将ジョン・ウッデンの右腕として才覚を発揮していたデニー・クラムがHCに就任。冷静沈着なコーチングスタイルが売りの新指揮官に導かれ、チームは黄金期に突入する。

 1972年はオールアメリカンに選ばれたジム・プライスを中心に、13年ぶりとなるファイナル4に進出。プライスは同年にNBA入りし、ミルウォーキー・バックス時代の1975年にはオールスターにも出場した。

 1975年にも再びファイナル4に駒を進めたが、1972年と同様に準決勝で敗退。チームの中核を担ったジュニア・ブリッジマンは、同年にバックスでNBAデビューし、1977年から9シーズン連続で平均2桁得点を稼ぐ活躍を見せた。キャリア12年で積み上げた通算1万1517得点は、ルイビル大OBのなかでグリフィスに次ぐ数字となっている。
  そのグリフィスを擁した1980年、ルイビル大は決勝でUCLAを破り、初の全米制覇を達成。彼らが勝利の儀式として披露していたハイファイブは、この優勝を機に知名度が全国区となり、喜びの表現として他のスポーツにも急速に広まっていった。

 トーナメントMVPを受賞したグリフィスは、在学4年間で学校記録となる通算2333点をマークし、同年のドラフト2位でジャズに入団する。迫力満点のダンクを武器に、キャリア5年目までは平均21.0点とスコアラーとして活躍。しかし足の故障で1985−86シーズンを全休し、以降は全盛期の輝きを取り戻すことができなかった。

 同じく1980年の優勝メンバーだったスクーター&ロドニーのマクレー兄弟は、1982、83年のファイナル4進出時も主力としてプレー。揃ってNBA入りを果たすも、弟ロドニーがヒューストン・ロケッツの先発スモールフォワードに定着した一方で、兄スクーターは26歳の若さでリーグを去っている。

 2度目の優勝を果たした1986年は、パービス・エリソンがデューク大との決勝戦で25得点と爆発。この活躍もあり、1年生としては42年ぶり、史上2人目となるトーナメントMVPに選ばれた。
  1989年、エリソンは学校史上初のドラフト1位指名でキングスに入団する。しかし毎年のようにケガに見舞われ、12年間のキャリアでシーズン全休を含む478試合に欠場。1992年に平均20.0点、11.2リバウンドをあげMIPを受賞したのが唯一の輝きで、ドラ1としては完全に期待外れだった。

 30年間にわたり指揮を執ったクラムは2001年に退任。彼の下でチームは6度ファイナル4に進んだほか、46シーズン連続の勝ち越し(1945〜90年)はNCAA記録となっている。

 代わってHCに就任したリック・ピティーノは、前シーズンまでボストン・セルティックスの指揮官を務め、その前にはUKを指導していた大物。2009年にチームを初のAP通信ランキング1位に導き、2013年にはゴーギー・ジェン(メンフィス・グリズリーズ)、モントレズ・ハレル(ロサンゼルス・クリッパーズ)らを擁して3度目の優勝を果たす。準決勝のウィチタ州大戦で20得点、決勝のミシガン大戦でも22得点をあげたルーク・ハンコックは、控え選手として初めてトーナメントMVPに選ばれた。
  名門校としての地位を固めたルイビル大だったが、近年は数々のスキャンダルが暴露され、悪い意味で注目を集めてしまっている。2015年10月には有望な高校生を勧誘する一環として、性的な接待が行なわれていたことが発覚。これを受けてNCAAは、2013年の全米制覇を含む2011〜15年の成績を抹消する処分を下す。大学側の不服申し立ても覆らず、2018年2月に正式決定された。

 さらに2017年9月には、勧誘のためにシューズメーカーが絡んだ多額の金銭が動いていたことも判明。このスキャンダルに対し、FBIが収賄容疑の捜査を行なうなど、カレッジバスケの規約違反を超え「犯罪」として取り扱われる大事件にまで発展した。

 ルイビル大は責任を取る形でピティーノを解任。世間的な評判は大打撃を被り、成績も振るわなくなっている。在校生はもちろん、OBのミッチェルやハレル、テリー・ロジアー(シャーロット・ホーネッツ)らがさらなる活躍を披露して、少しでも悪いイメージを払拭したい。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2018年5月号掲載原稿に加筆・修正。

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