ハズレ年に挙げられるも、ケンプ、ハーダウェイ、ディバッツら11位以下に魅力的な才能が集結。豪華トリオが結成していた可能性も!【NBAドラフト史:1989年】

ハズレ年に挙げられるも、ケンプ、ハーダウェイ、ディバッツら11位以下に魅力的な才能が集結。豪華トリオが結成していた可能性も!【NBAドラフト史:1989年】

桁外れの運動能力を生かし、豪快なダンクを連発したケンプ。17位指名ながら、オールスター出場は1989年組トップの6回を誇る。(C)Getty Images

■上位10人中8人はハズレだが、11位以降に個性的な選手が

 ウィキペディア英語版の説明文によると、1989年のNBAドラフトは“史上最悪のドラフトのひとつと考えられている”そうだ。その理由に挙げられているのが、1位パービス・エリソン、2位ダニー・フェリーをはじめ、上位指名10人のうち8人がハズレだったから。

 たしかに、1位と2位のがっかり感は半端なく、さらには10位以内の選手のスタッツを見てみると、3位のショーン・エリオット(元サンアントニオ・スパーズほか)と4位のグレン・ライス(元シャーロット・ホーネッツほか)を除いて、なかなかのハズレっぷりである。トップ10人のキャリア平均得点は9.7点。“キング・オブ・ハズレ年”とされる2000年(1位ケニョン・マーティン:元ニュージャージー/現ブルックリン・ネッツほか)の9.0点と比べても遜色がなく、各選手の印象もかなり薄い。
  ところが、11位以降の選手も加えて総合的に見れば、そこそこイケているドラフト年に思えてくる。特に1巡目の11〜18位には、個性的で魅力にあふれた唯一無二な選手がずらりと顔を揃えており、むしろ「こんな粒立った選手がよく集まったなあ」という驚きすら覚えるほどだ。

 11位ニック・アンダーソン(元オーランド・マジックほか)、12位ムーキー・ブレイロック(元アトランタ・ホークスほか)、14位ティム・ハーダウェイ、16位デイナ・バロス(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)、17位ショーン・ケンプ、18位BJ・アームストロング。加えて26位ブラデ・ディバッツ(元サクラメント・キングスほか)に36位クリフォード・ロビンソン(元ポートランド・トレイルブレザーズほか)。

 日本のオールドファンの多くは1990年代初頭からNBAを観始めたと思うが、ちょうどその頃に輝きを放ち始めていた、懐かしくも印象深い選手たちだ。彼らが10位以内に名を連ねていたら、この年の評価はまったく違うものになっていたかもしれない。少なくとも、ウィキペディアに“最悪のひとつ”などと書かれることはなかっただろう。

 印象的な選手を数多く輩出するも、その年の顔とも言える1位指名選手をはじめ、トップ10にハズレ選手がひしめいているがゆえ、低評価を受けざるを得ない1989年のNBAドラフト。不憫というか、なんともやるせないドラフト年である。
 ■1位のエリソンはケガで失速し、2位のフェリーは海外へ逃亡

 カレッジ史上最強センターの1人と謳われたパトリック・ユーイング(元ニューヨーク・ニックスほか)の獲得競争を緩和させるため、1985年にロッタリー制度が導入され、プレーオフ進出を逃した全チームに対し均等にチャンスが与えられることになった。

 だが、その新たなロッタリーの方式にも問題点が浮上し、1990年から確率調整システム(現在のピンポンボールマシン)に変更される。つまり、1989年は初期の均等確率によるロッタリー方式が用いられた最後の年ということになる。

 ロッタリーに用意された封筒は全部で9枚。ドラムマシンから最初に抜き出された封筒に入っていたのは、レギュラーシーズンの成績が下から6番目のキングスのカードだった。3位までが抽選によって選ばれ、4位以下はレギュラーシーズンの成績順に指名順位が割り振られた。2位ロサンゼルス・クリッパーズ、3位スパーズ、4位マイアミ・ヒート、5位ホーネッツ、6位シカゴ・ブルズに確定する。

 6月27日、ニューヨークのマディソンスクエア・ガーデン内にあるフェルト・フォーラムで、1989年度のNBAドラフトは開催された。前年は3ラウンド制だったが、この年から2ラウンド制に短縮され、現在に至っている。

 NBAドラフトがプライムタイム(時間帯は多少違うが、日本でいうゴールデンタイム)に生中継で全米放送されたのも、1989年からだった。『TBS』が放映し、翌年から10年以上に渡る『TNT』時代を経て、現在は『ESPN』の看板プログラムのひとつだ。
  1980年代は大物ドラ1を数多く排出し、1位指名選手のリストには錚々たる顔ぶれが並んでいる。1987年デイビッド・ロビンソン(元スパーズ)、1985年ユーイング、1984年アキーム・オラジュワン(元ヒューストン・ロケッツほか)、1983年ラルフ・サンプソン(元ロケッツほか)等々。

 ところが、1989年は突出した選手が不在で、また全体のレベルも一段低かった。珍しく1位指名候補が複数人存在し、誰がトップで選ばれるかドラフト当日までまったくわからない状態だった。ロッタリー終了後、1位指名権を獲得したキングスは指名権のトレードを他チームに打診するも、応じるチームはなかったという。

 1位指名候補に名前が挙がっていたのは、パービス・エリソン(ルイビル大4年)、ダニー・フェリー(デューク大4年)、ショーン・エリオット(アリゾナ大4年)、ステイシー・キング(オクラホマ大4年/元ブルズほか)といった面々。

 カレッジのレギュラーシーズンに選ばれる7つのメジャー個人アウォードは、例年ならば1人の選手がすべて独占するか、もしくは2選手で分け合うケースがほとんどだが、この年は3人の選手で分け合っている。ずば抜けた選手がいなかった何よりの証拠であろう。
  キングスが1位で指名したのは、その3人にも含まれていないエリソンだった。身長206cmのセンターは、1年時にチームをNCAAチャンピオンの座に導き、史上2人目となる1年生でのファイナル4最優秀選手賞を受賞。その物怖じしないプレーぶりから、付いた渾名が“ネバー・ナーバス・パービス(強心臓のパービス)”。

 NBAでは1年目からケガに悩まされ続け、34試合の出場にとどまった。平均8.0点、5.8リバウンドと満足な結果を残せず、チームメイトのダニー・エインジから“アウト・オブ・サービス・パービス(非稼働中、運転休止中のパービス)”という、笑うに笑えないニックネームを付けられている。

 そしてルーキーシーズン終了後、なんとトレードで放出。天下のドラ1がわずか1年で見切りを付けられ、三角トレードの一員としてワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)への移籍を強いられた。これに奮起したエリソンは、ケガが癒えてきたこともあり、2年目は主に控えとして76試合に出場。3年目は先発に定着し、平均20.0点、11.2リバウンド、2.68ブロックという好成績を収め、見事MIP賞を受賞する(ドラ1では史上唯一)。

 晴れて復活を果たしたと思いきや、数箇所のケガが再発し、特に両ヒザの故障がエリソンを苦しめた。翌シーズンもそれなりの結果を残したが、その後は下降線の一途を辿り、2度の移籍を経て2001年に引退している。
  1980年代後半のデューク大黄金期を牽引し、“ラリー・バード2世”と呼ばれたフェリーは、2位で指名したクリッパーズへの入団を拒否。海を渡りイタリアリーグでプレーするという身勝手な行動に走り物議を醸した。

 獲得を諦めざるを得なかったクリッパーズは、クリーブランド・キャバリアーズとのトレードを断行、フェリーはクリーブランドでプロ生活の大半を過ごしている。13年間のキャリアで平均7.0点、2.8リバウンド(一応ポジションはフォワード)、3ポイント成功率39.3%。

 今回気づいたのだが、トップ10指名選手のなかでウィキペディア日本語版のページが存在するのはフェリー、エリオット、ライスの3人だけだった。なんと、栄えあるドラフト1位指名選手のエリソンすら作成されていない。こんな年はほかにないだろう。
 ■ブルズの英断があれば、MJとあの高速PGがともにプレーしていた?

 過去のNBAドラフトを仔細に調べていると、ドラフトが終了するまで(もしくは終了後もしばらくは)口外されなかった秘話的なネタによく出くわす。他チームとの駆け引きが重要なポイントとなるイベントだけに、当然といえば当然だが、たまに今までまったく知らなかった意外な情報に出くわしたりして、「へえ、そうだったんだ」などとひとり頷きながら、夢の選手の組み合わせを想像し、ついつい「タラレバ」の世界に浸ってしまうことがある。

 もちろん、選手同士の相性やチームのプレースタイル、サラリーキャップなど現実的な問題はあろうが、それらを取っ払ったうえで夢想するのも一興だ。今回採り上げた1989年のドラフトにも、もし実現していたら後のNBAに大きなインパクトを与えていたであろう、そして想像しただけで頭がクラクラしてくるような、思いがけない「タラレバ」がいくつかあったので紹介しよう。
  1巡目に3つの指名権を持っていたブルズは(6、18、20位)、最初のふたつでポイントガード(PG)とパワーフォワードの獲得を考えていた。とりわけPGについては、前シーズンに先発を務めていたサム・ヴィンセントを新設チームのマジックにエクスパンション・ドラフトで引き抜かれたため、絶対的エースであるマイケル・ジョーダンの新たな相棒の獲得が急務だった。

 ジェリー・クラウスGMが狙いを定めていたPGは、テキサス大エルパソ校4年のティム・ハーダウェイ。1巡目での指名が予想されていたものの、トップ10入りが見込まれるほど高い評価は受けていなかった。

 そして迎えたドラフト当日、6位の指名順が回ってくる。ブルズ首脳陣は迷いに迷った末、5位までスルーされていたフォワードのキングを指名し、ハーダウェイが18位まで残ってくれることを祈った。だが、14位でゴールデンステイト・ウォリアーズにさらわれてしまう。そこでブルズは、残っていたBJ・アームストロングの獲得に至ったのだった。

 もしあの時、6位でハーダウェイ指名に踏み切っていれば、その見返りは莫大なものになっていただろう。ジョーダン、スコッティ・ピッペン、そしてハーダウェイ。上手く機能するかどうかは別にして、とびきり大きな可能性を秘めた豪華トリオであることは間違いない。この3人による超絶ファーストブレイクを想像しただけでワクワクしてくる。

 トライアングル・オフェンスにはジョン・パクソンやアームストロングのほうがフィットしていたと思うが、ひと味違った、よりエキサイティングなジョーダンズ・ブルズを見ることができていたかもしれない。
  そしてもうひとつ。ロサンゼルス・レイカーズがこの年持っていた指名権は、1巡目のラス前となる26位。GMのジェリー・ウエストは、チーム状況からガード選手の獲得が現実的であると判断していた。指名候補は、ボストン・カレッジ4年のデイナ・バロスほか数人。

 だが、もし26位まで残っていたら、ギャンブルに打って出てもいいと考えていた選手が1人いた。ドラフト直前のインタビューで、ウエストは次のように語っている。

「チームが必要としているポジションに関係なく、将来最も大きな可能性を持った選手を獲得するつもりだ」

 ウエストの言う“最も大きな可能性を持った選手”とは、トリニティバレー・コミュニティカレッジのショーン・ケンプだった。名門ケンタッキー大にリクルートされるも、学力不足のためNCAA規定により1年間プレーを禁じられ、入学2か月後にはチームメイトからゴールドのネックレス2本を盗み、質屋に入れたかどで転校を余儀なくされている。

 素材的には素晴らしいものを持っていたが、高校卒業以降は組織だったバスケットボールを1度もプレーしておらず、文字通り未知数の塊だった。NBA入りを果たせば、弱冠19歳は当時リーグで最も若く、精神面はそれ以上に未成熟であると考えられていた。

それでもウエストは、「もし我々が彼を獲得できるポジションにいるのなら、真剣に考えなければならないだろう」と述べている。
  だが、ウエストの願いは叶わなかった。シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)が17位でケンプを指名。後に当時のソニックス球団社長ボブ・ウィットシットも、ケンプ獲得は大きなギャンブルだったと認めている。もしソニックスがギャンブルに走らずスルーしていたら、注目度の低さやリスクの大きさから考えて、ケンプがレイカーズの一員になっていた可能性は高かった。

 野獣ケンプが、リーグきってのエリートチームであるレイカーズの一員となり、きらびやかなパープル&ゴールドのジャージーを風になびかせて、フォーラムのコートを駆け巡る。そしてマジック・ジョンソンから絶妙なパスを受け、豪快なジャングルダンクの雨を降らせる。新時代の“ショータイム”に、ハリウッドの観客は熱狂していたに違いない。

 入団から8年、27歳を迎え脂が乗り始めた頃、シャキール・オニールと高校を出たてのコビー・ブライアントがレイカーズに加入。怪物シャックと若武者コビーを従えたケンプが、ジョーダン、ピッペン、ハーダウェイを擁する王者ブルズとNBAファイナルで熾烈なバトルを繰り広げる――。想像しただけで知恵熱が出そうだ。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2017年12月号掲載原稿に加筆・修正。

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