乱世の80〜90年代に存在感を放った “用心棒”。チャールズ・オークリーがNBAに残したもの【NBA名脇役列伝・前編】
2020年04月14日 00時29分 THE DIGEST

激しい肉弾戦が繰り広げられた当時のNBAでも一際存在感を放ったオークリー。乱闘も朝飯前のスタイルでファンから人気を集めた。(C)Getty Images
1980年代のNBAでは、今よりもはるかに激しい肉弾戦が展開されていた。そんな時代にとりわけ際立っていたのが、チャールズ・オークリーだ。シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンやニューヨーク・ニックスのパトリック・ユーイングなど、スター選手の文字通り“用心棒”として活躍したビッグマンは、現在ではすっかり減少した、「オールドタイプのPF」の典型であった。
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近年のNBAで最も変化の大きかったポジションは、パワーフォワード(以下PF)だろう。ダーク・ノビツキー(ダラス・マーベリックス)やケビン・ラブ(クリーブランド・キャバリアーズ)、ラマーカス・オルドリッジ(サンアントニオ・スパーズ)など、2000年代以降に活躍し始めたPFと言えば、シュートが上手く、マークマンをペリメーターまで引き寄せるタイプ(ストレッチ・フォー)が主流となっている。そしてその一方で、かつての主流であった、リバウンドと守備に専念する“ゴール下の番人”タイプは、徐々に居場所を失いつつある。
チャールズ・オークリーは、そんなオールドタイプのPFの典型だった。実際にはアウトサイドシュートも得意で、決してペイント一辺倒ではなかったが、当時も今もオークリーのイメージは「マイケル・ジョーダンやパトリック・ユーイングらスター選手の用心棒として、敵に睨みを利かせる強面のPF」なのである。
オハイオ州クリーブランドで生まれたオークリーは、7歳の時に父親が亡くなったため、母の実家があるアラバマへ移り住む。そこでは毎朝5時半に起き、農作業に黙々と取り組む祖父の姿を見て、地道に働くことの大切さを学んだという。
幼い頃は同年代の子どもよりも身体が小さかったが、高校に進む頃には190cm近くまで身長が伸びていた。さらに友人を背中に乗せての腕立て伏せ、肩に乗せてのスクワットに励み、プロレスラー並みの筋肉も身に付けた。
クリーブランドのジョン・ヘイ高校ではフットボールのディフェンシブ・エンドとして、のちにNFLのシンシナティ・ベンガルズでプレーするティム・マギーとともに活躍。もちろんバスケットボールでも注目されてはいたが、クリーブランドでは後年、ブルズでチームメイトとなるブラッド・セラーズの方が評価は高かった。
「ブラッドはいずれプロになるんだろうなって、みんなが思っていた。俺はゲットー出身の、どこにでもいるような選手としか思われてなかったのさ」。
もっともセラーズの方はといえば「オークリーにはいつもやられていたよ。彼とのマッチアップではほとんど何もさせてもらえなかった」と、高校時代を振り返っている。
学業成績が振るわなかったこともあり、高校卒業後はバスケットボールの強豪校ではなく、無名のバージニア・ユニオン大に進学。すると、同校の所属していたディビジョンUで、オークリーを加えたチームは無敵の存在となる。「大きすぎるし、強すぎるし、上手すぎる。誰も彼を止められない」と、対戦相手のコーチたちを嘆かせたオークリーは、最終学年で平均24.0点、17.3リバウンドという好成績を残し、年間最優秀選手にも選出された。
この頃には、NBAのスカウトからラブコールを送られる存在になっていたオークリー。なかでも熱心だったのが、シカゴ・ブルズのジェリー・クラウスGMだった。迎えた1985年のドラフトで、オークリーは全体9位で地元のキャバリアーズから指名されるのだが、直後にクラウスは2選手と交換でブルズへ引き抜いたのである。
入団交渉は思いのほか難航したが、リバウンドの数字に出来高条項を盛り込むことで9月にようやく合意。「出来高があろうとなかろうと、懸命にプレーするのは変わらない。ルーキーだからって関係ないさ。誰も俺を恐れさせることなんてできない」と、オークリーは自信たっぷりに語っていた。
その言葉通り、NBAのコート上で恐れをなしたのはルーキーの彼ではなく、歴戦のベテランたちだった。リバウンドを奪うためにボックスアウトする時も、味方のチャンスを作り出すためにスクリーンをかける時も、オークリーは一切物怖じすることなく、その屈強な肉体をフル活用する。1980年代のNBAでは、現在よりもはるかに激しい肉弾戦が繰り広げられていたが、そのなかでもオークリーの強さは出色だった。
リバウンドの際には競った相手に腕を絡め、エルボーで吹き飛ばす。逆にやり返されてもお構いなしで、涼しい顔で受け流した。さらに彼は、単にフィジカルなだけでなく、クレバーな一面も備えていた。ヘルプディフェンスが的確で、また相手の得意なシューティングゾーンを熟知し、簡単にシュートが打てるようなポジション取りをさせなかったのだ。その頭の良さは攻撃面でも発揮され、オープンな選手を素早く見つけ出してパスを送る、あるいは自らがミドルシュートを放つといった状況判断を滅多に誤らなかった。
1年目から平均9.6点、8.6リバウンドでオールルーキー1stチームに選ばれると、2年目の86−87シーズンは14.5点、そしてリーグ2位の13.1リバウンドを奪取。リバウンド総数1074本は堂々の1位で、さらに翌シーズンも総リバウンド数1位に輝く。こうしてオークリーは、若きスーパースター、マイケル・ジョーダンを擁して強豪へと上り詰めようとしていたブルズの重要なピースとなっていった。(後編に続く)
文●出野哲也
※『ダンクシュート』2014年7月号掲載原稿に加筆・修正。
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— SLAM (@SLAMonline) May 17, 2018