2012、13年ヒート連覇の立役者に。当代随一の頭脳派、シェーン・バティエの華麗なるキャリア【NBA名脇役列伝・後編】

2012、13年ヒート連覇の立役者に。当代随一の頭脳派、シェーン・バティエの華麗なるキャリア【NBA名脇役列伝・後編】

大学No.1プレーヤーとして鳴らしたバティエ。NBAでは卓越したバスケIQを武器に、優秀なロールプレーヤーという立場を確立した。(C)Getty Images

素晴らしい才能や身体能力に恵まれていたわけではない。しかし、シェーン・バティエは真摯な姿勢と溢れんばかりの情熱、そして優れたバスケIQを最大の武器に、この世界を生き抜いてきた。ロケッツではT−MACやヤオ・ミンを、ヒートではレブロン・ジェームズらビッグ3を支えた、“ロールプレーヤーの鏡”の生き様に迫る。

 洋の東西を問わず、政治の世界で第2のキャリアを送る元アスリートは少なくない。NBAでも、ニューヨーク・ニックスのスター選手だったビル・ブラッドリーは民主党の上院議員となり、大統領候補にも名前の挙がった大物政治家になった。さらにデイブ・ビング(元デトロイト・ピストンズほか)はデトロイト市長を、ケビン・ジョンソン(元フェニックス・サンズほか)もサクラメント市長を務めた。

 名脇役として2012、13年のマイアミ・ヒートの2連覇に貢献したシェーン・バティエもまた、引退直後に民主党からミシガン州選出の上院議員の後継候補として立候補を打診された。結局その話は断ったが、知名度や人望の厚さを考えれば将来的に“バティエ議員”の姿を見られる日が来ないとも限らない。

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  もっとも、NBAのスカウトたちは将来の政治家を欲しがっているわけではない。彼らは学生時代の立派な実績よりも、素質や伸びしろを重視する。バティエがカレッジバスケ界で華々しい活躍をした割に、2001年のドラフトで6位指名(メンフィス・グリズリーズ)に甘んじたのはそれが理由だった。6位と聞けば悪くないように思えるかもしれないが、大学No.1選手が、1位のクワミ・ブラウンを筆頭とした3人の高校生より下位で指名されたとあっては、胸を張れるものではなかった。

 それでも1年目の成績は平均14.4点、5.4リバウンド、2.8アシストと上々で、チームメイトのパウ・ガソル(元レイカーズほか)とともにオールルーキー1stチームにも選ばれた。しかしながら、結果的にこの1年目の数字がすべてキャリアハイとなる。

 ルーキーイヤーは出場した全試合に先発で起用されたが、次第にベンチからの出番が増え、3年目には新加入のジェームズ・ポージーに押し出される格好で、完全なベンチ要員になってしまう。02年にGMに就任したジェリー・ウエストはあまりバティエを買っておらず、何度も彼をトレードに出そうと画策した。
  それでも2004−05シーズン、バティエは先発の座を取り返す。それは彼が、自身の可能性と限界を見定めて、ロールプレーヤーとしての立場を確立したからに他ならない。「彼の真価はボックススコアに表われない部分にある。相手のパスを弾き飛ばし、ルーズボールに飛び込み、スクリーンを遂行する……しかも1つの試合で5つのポジションを守りながら、だ」(『スポーティング・ニューズ』誌)。

 翌2005−06シーズン後には、新人のルディ・ゲイ(現サンアントニオ・スパーズ)らとの交換でヒューストン・ロケッツへ移籍する。ヒューストンのファンは有望なルーキーの放出に不満を露わにしたが、ダリル・モーリーGMは自分が何を手に入れたのかをよくわかっていた。

「大金を費やすことなく効果的な補強を行なうため、我々は本当の価値が見過ごされている選手たちをリストアップしていったのだが、そのトップにバティエの名があった」。すでにT−MAC(トレイシー・マッグレディ)やヤオ・ミンを擁するチームにとっては、ゲイのような点取り屋ではなく、攻守で貢献できるバティエのような脇役こそが打ってつけだったのだ。

 果たしてこの年、バティエは「ウィン・シェアーズ(勝利貢献ポイント)」という統計項目でチームトップの9.0を記録する。2人で50点近くを稼いでいたT−MACとヤオ以上に、勝利への貢献度が高かったというわけだ。「シェーンのことは“レゴ”と呼んでいるんだ。彼がコートに立っている時、チームのすべての部品が機能的につながっていくからね」(モーリーGM)。
  2008、09年には2年連続でオールディフェンシブ2ndチームに選出。本能や身体能力に頼るのではなく、ビデオやデータを分析して相手選手の特徴を的確に把握し、先の先まで攻撃パターンを読み切る頭脳的なディフェンスで、コビー・ブライアントやポール・ピアースといったスコアリングマシンを苦しめた。

 スター選手の脇を固める役割を与える上で、バティエは最高の人材だった。ただ、06年に日本で行なわれた世界選手権(現ワールドカップ)でも、レブロン・ジェームズ(現ロサンゼルス・レイカーズ)やドゥエイン・ウェイド(元ヒートほか)らとともにアメリカ代表に選ばれたが、あくまでもサポート役であり、1人でチームを引っ張るほどの力量がなかったのも事実。だからだろう、T−MACとヤオが故障に苦しむようになり、チームの再建を迫られると、ロケッツ首脳陣は11年2月、バティエをあっさりとグリズリーズへ放出したのだ。
  この2010−11シーズン終了後、バティエはFAとなってヒートへの移籍を決める。マイアミを新天地に選んだのは、CEOのニック・アリソンがデューク大時代のチームマネージャーだったこともあるが、それ以上にヒートなら優勝できる可能性が高いとの判断があったからだった。そして、その読みは現実のものとなる。

 エリック・スポーストラHCが「シェーンがいるお陰で、ウチはポジションにこだわらず選手を起用できる」と語った通り、バティエはどんな役割も器用にこなし、移籍1年目の2011−12シーズンから平均4.8点、FG成功率38.7%という数字以上の貢献を示す。そしてオクラホマシティ・サンダーと対戦したファイナルでは、最初の2試合で3ポイント9本、計34点を叩き出してチームを勢いに乗せ、大学時代以来となる優勝を味わうのだ。さらに翌13年のスパーズとのファイナルでも、第7戦で6本の3ポイントを決めて18点を奪取。接戦をものにする立役者の1人となった。
  3連覇を狙った14年ファイナルでスパーズに敗れたのを最後に、シーズン中から公言していた通り、現役を引退。「すべてをこのゲームに捧げてきたが、これ以上与えられるものがなくなってしまった。素晴らしい選手生活だったし、何ひとつ後悔することはない」。

 セカンドキャリアでは、手始めに『ESPN』のカレッジ・バスケットボール中継の解説陣に加わったが、17年にヒートのフロント入り。育成・分析部門という、彼の能力にふさわしい分野の責任者を任されている。

 政治に関しては、2016年の大統領選挙を巡る混乱に「嫌気が差した」と語っていて、当面はその気がない模様だ。だが現大統領の振る舞いを見るにつけても、アメリカでも政治家の質の低下は深刻に思える。誠実さと聡明さを併せ持ったバティエのような人間こそ、今の政界に必要な人材ではないだろうか。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2014年12月号掲載原稿に加筆・修正。

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