リトアニアが生んだ伝説のビッグマン、アルビダス・サボニスは今…。「母国の顔」、「父」として奮闘する日々

リトアニアが生んだ伝説のビッグマン、アルビダス・サボニスは今…。「母国の顔」、「父」として奮闘する日々

NBAに来た頃には全盛期を過ぎていたサボニスだが、221cmの長身に広いシュートレンジ、卓越したパスセンスを武器に活躍。現代ビッグマンの先駆けとも言える存在だった。(C)Getty Images

世界一の競技人口を誇るバスケットボール。その最高峰リーグであるNBAには世界中から優れたプレーヤーが集結し、特に2000年代以降は外国籍選手の数も飛躍的に増加した。では、NBAで活躍した欧州プレーヤーたちはその後、どのようなキャリアをたどっているのか。第一線を退いた彼らの今をシリーズで紹介しよう。

 1990年代後半から2000年代前半にかけてポートランド・トレイルブレイザーズで活躍したリトアニアのビッグマン、アルビダス・サボニス。若いファンにとっては、現在インディアナ・ペイサーズに所属し、ゴンザガ大で八村塁の先輩にあたるドマンタス・サボニスの父、という印象が強いかもしれないが、彼は今でもなお、欧州最高のNBAプレーヤーの1人に挙げられる名プレーヤーだった。

 サボニスは1986年のドラフトでブレイザーズから1巡目24位で指名された。当時は生まれ故郷リトアニアのカウナスにある強豪ジャルギリスでプレーしていたが、その頃リトアニアはまだソビエト連邦の支配下にあるなど、政治的な事情もあってすぐにアメリカに行くことは叶わず、実際に入団したのは95−96シーズン、峠を越えた30歳の時だった。
  1年目から平均14.5点、8.1リバウンドをマークしてオールルーキー1stチームにも選出されたが、「ルーキーといっても、もうその時は31歳だったから私は“おっさんルーキー”だったわけだ。だから、周りもフレッシュマンという扱いではなかったし、すでにある程度のキャリアは積んでいたから、それなりの敬意は示されていたように思う。その点で苦労した記憶はないんだ」。以前、『ダンクシュート』誌に掲載したインタビューで、サボニスはそう当時を振り返っている。

 サボニスの場合、もっと若くからNBAに行っていたらさらに活躍できていただろう、という声をよく聞くが、彼自身はNBAで成功するための条件に、「まずは自国で名を挙げてそれなりの評価を勝ち取っておくこと。もうひとつは、自分という選手を世間に広く知らしめておくこと」だと語っている。

 心身ともに燃え尽きて、2001−02シーズンにいったんNBAを離れて故郷に戻ったが、翌シーズンに再びブレイザーズに復帰。サボニスが入団した1995−96シーズンから2002−03シーズンまで、チームはプレーオフ進出を1度も逃すことなく、99、2000年にはカンファレンス・ファイナルまで到達している。
  在籍した7年間の成績は、平均12.0点、7.3リバウンド、2.1アシスト。センターながら、ガード並のパス捌きやシュート力を高く評価されたサボニスだが、9歳でバスケットを始めた当時は周りの選手よりも小柄で、最初はポイントガードだった。それがある夏、一気に15cmも身長が伸び、それからも身長が伸びるにしたがって、フォワード、センターとポジションが変わっていった。その過程が、NBAでも屈指の万能ビッグマンに育て上げたのだろうと本人も語っている。まるで『スラムダンク』に登場する山王工業高校のセンター、河田雅史のようだ。

 NBAに別れを告げたあとは、故郷のファンに約束した通りジャルギリスに戻って1シーズンプレーし、国内リーグ優勝に貢献した。ちなみにNBAに行く前には、欧州きっての強豪レアル・マドリーでも国内リーグと旧ユーロリーグで優勝。1995年にはファイナル4のMVPにも選出されている。

 代表でのキャリアも目覚ましく、ソビエト連邦時代に参戦した1988年のソウル五輪で金メダル、リトアニア代表としても92年のバルセロナ大会と96年のアトランタ大会で銅メダルを獲得。世界選手権(現ワールドカップ)やユーロバスケットでも、ソ連時代とリトアニア時代合わせて計6つのメダルを手にした。そして2005年、その輝かしい現役生活の幕を閉じ、2011年にバスケットボール殿堂入りを果たした。
  現役時代から祖国のバスケットボール界発展に意欲的だったサボニスは、1994年にかつての本拠地であるカウナスに『サボニス・バスケットボールセンター』を設立。7〜18歳までの選手計800人を育成する大所帯で、プロクラブのジャルギリスとも提携しており、優秀な選手は入団できる道も開かれている(現在はジャルギリスのセカンドチームという形になっている)。

 また、同時期に立ち上げた年に1度の『サボニスカップ』では、自クラブのチームを筆頭に、ロシアやラトビアなどから強豪チームを集めたトーナメントを行なっている。この大会には若き日のアンドレイ・キリレンコ(元ユタ・ジャズほか)やアレクシー・シェベド(BCヒムキ)も参戦し、世界へと羽ばたいていった。さらに2011年10月からはリトアニアのバスケットボール協会の会長も務め、文字通り母国バスケ界の長として尽力している。
  サボニスはNBAを引退したあとは南スペインのマラガに居を構え、夫人と4人の子どもと暮らしていた。ポートランドで生まれた三男のドマンタスが16歳でプロデビューしたのもスペインリーグのマラガだ。また、4歳違いの次兄タウトビダスも、スペインのプロリーグでプレーしている。

 スクールの運営、協会の会長職といったバスケ関係の仕事のほかには、バルト海に面したリトアニアで人気のリゾート地パランガにリゾートホテルを経営。ガストロノミー系のレストランも評判で、元ミス・リトアニアの夫人が運営の指揮を執っている。リトアニアでは押しも押されもせぬ英雄である一方で、スーパーマーケットのテレビCMに出演したりと、お茶の間で人気の顔でもある。スーパースターほど謙虚であるというのは本当で、サボニスも実に素朴で飾らない人物だ。

 そんな彼の人柄をよく表わしていたのが、殿堂入りセレモニーでのスピーチだろう。

「今日は私と、祖国にとって特別な日です。ここに立てることを誇りに感じています。Hall of Fame、そして私の家族、両親、友人、チームメイトやコーチたちに感謝します。とりわけポートランド・トレイルブレイザーズと、ブレイザーズのメディカルチームに。深刻なケガを負った私を、再びプロとしてプレーできるよう治療してくれたおかげで、私はオリンピックチャンピオンにもなれました。ここにこうしていられるのは、彼らのおかげでもあります」。
  2003年、ジャルギリスでインタビューに応じてくれた時の丁寧な対応も印象に残っている。一見ゴツくて怖そうだが、話し始めるとジョークも飛び出す気さくな人柄で、現地でたまたま話したバスケファンの1人は「サボニスなら今朝クリーニング屋で会ったよ」と言っていた。出資したクリーニングショップで早朝から働くスタッフを労うために、まめに店に顔を出すのだという。

 バスケスクール内のレストランは彼のメモラビリアになっていて、ロシアのゴルバチョフ元大統領やマラドーナといった、世界各国の著名人との交友の写真や、これまで使用したユニフォームなどがびっしりと壁を埋めている。インタビューのあと、ここでランチをとっていたら本人が客人を連れて遠くの席に着いたのだが、帰り際にお勘定を頼むと、「すでにオーナーからいただいております」と言われ、そのさりげない心遣いに感動した。

「私はただのバスケ小僧だった。バスケが好きで好きで、ずっとやってきたらここまで来た。いつでも、自分で進もうと思った道を選んで、スペインやアメリカに行き、キャリアを築いてきた。結果は、そうやって自分がやってきたことについてきただけなんだ。有名になろうと思っていたわけでも、名声が欲しかったわけでもない。バスケをやっていなかったら、ただの身長220cmの大男だよ(笑)」

 少年時代はアメリカはすごく遠いところだと思っていて、NBAを目指すなど、考えたこともなかったという。それが殿堂入りするまでになり、今では彼のDNAを受け継いだ息子が、世界最高峰の舞台で活躍している。

「私にとってバスケットボールは、楽しいと実感することすらないくらい、自分の一部なんだ」。引退後もなお、母国の競技発展に邁進し続ける。彼の存在そのものが、バスケットボール界のレガシーなのだ。

文●小川由紀子

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