『ツインタワー』はかくして誕生した。黄金期を築いたダンカンとロビンソンの運命の巡り合わせ

『ツインタワー』はかくして誕生した。黄金期を築いたダンカンとロビンソンの運命の巡り合わせ

ロビンソン(左)は大学時代のダンカン(右)との対戦を「一切緊張せず普段通りだった」と振り返る。(C)Getty Images

通算5度の優勝回数を誇るサンアントニオ・スパーズが、フランチャイズ史上初のチャンピオンとなったのは1998−99シーズンのこと。前年から結成した“提督”ことデイビッド・ロビンソンとティム・ダンカンの“ツインタワー”を中心に、守り勝つバスケットボールでリーグの頂点へと駆け上がった。

 ロビンソンは当時キャリア10年目、ダンカンはルーキーイヤーを終えたばかりの2年目。このシーズンからロビンソンはダンカンへファーストオプションを譲ったイメージがあるが、実際にダンカンがチームの主役となったのは、彼が新人だった1997−98シーズンの後半からだった。

 同年の最終スタッツを見てみると、ダンカンの平均21.1点に対してロビンソンは平均21.6点とほぼ同等。しかしオールスター以降ではダンカンが平均24.3点でロビンソンの平均19.0点)を大きく上回っており、迎えたプレーオフでもダンカンがエースの役割を担っていた。

 スパーズはダンカンをオフェンスの柱、そしてロビンソンが守護神に据え、リーグ屈指のチームを構築。両選手が揃ってプレーした6シーズンの間に、2度の優勝を成し遂げた。
  そして今年、文句なしでバスケットボール殿堂入りすることが決定したダンカン。そんな元相棒について、ロビンソンは4月26日(日本時間27日、日付は以下同)に出演した『SiriusXm NBA Radio』にて、ウェイクフォレスト大に在学中のダンカンと初めて対戦した時のことをこのように振り返っている。

「私がこれまで見てきたなかで、彼は最もスムースにプレーする選手なんだ。しかもそれを簡単にやってのける。もし私がカレッジでプレーしている時、NBAでトップ3に入るセンターとプレーしなきゃならない状況になったら、(緊張で)ちょっとガタガタしてしまうかもしれない。でも彼がそうなることはなかったよ。普段通りに自分のゲームをしていたんだ。信じられないレベルの高さでね」

 ロビンソンは1999年に初優勝を経験するまで“大舞台に弱い”“プレーオフで活躍できない”“ソフトだ”などと批判を浴びることもあった。しかし216cm・106kgの体格にファーストブレイクの先陣を切れるほどの走力を備え、プレーメークまでこなせる多彩なスキルを持った、歴代屈指のビッグマンだったことは間違いない。
  キャリア14シーズンで平均21.1点、10.6リバウンド、2.5アシスト、1.41スティール、2.99ブロックと素晴らしい個人成績を残し、シーズンMVPと最優秀守備選手賞に輝いたほか、オールスターとオールNBAチームに10度、オールディフェンシブチームには8度選出。得点王、リバウンド王、ブロック王のタイトルもそれぞれ1度ずつ獲得した。

 1994年2月17日のデトロイト・ピストンズ戦では、34得点、10リバウンド、10アシスト、10ブロックをマークし、史上4人目となるクァドラプルダブル(4項目で10以上の数字を記録すること)を達成。史上有数のオールラウンドセンターとしてその名を轟かせた。

 そんな輝かしい実績を残したロビンソンのキャリアにおいて、1990年代半ばはまさに全盛期。そのロビンソンを相手に、ダンカンは当時大学生だったにもかかわらず、物怖じせずにプレーしていたというのだから恐れ入る。
  そして1997年、大学を卒業したダンカンがドラフトにエントリー。スパーズは1994〜96年と3シーズン連続で55勝以上をマークしていたものの、1996−97シーズンはロビンソンが故障で6試合の出場に終わり、20勝62敗でリーグワースト3位に沈んでいた。しかしその結果として全体1位指名権を引き当て、ダンカンの獲得に成功。黄金期が幕を開けるのだった。

 今思えば、強豪だったスパーズがロビンソンのケガで1年だけ低迷し、それがダンカンがドラフトにエントリーする年だったというもの、2人を引き合わせようとする運命の仕業だったように思えてくる。

文●秋山裕之(フリーライター)

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