「バスケは夢を実現するためのステップになってくれた」コビーに影響を与え、引退後も世界を闊歩するロニー・トゥリアフの終わらぬ旅

「バスケは夢を実現するためのステップになってくれた」コビーに影響を与え、引退後も世界を闊歩するロニー・トゥリアフの終わらぬ旅

苦難を乗り越えてNBA選手になったトゥリアフ。献身的なプレーで人気を博した現役時代同様、引退後も世界を飛び回っている。(C)Getty Images

世界一の競技人口を誇るバスケットボール。その最高峰リーグであるNBAには世界中から優れたプレーヤーが集結し、特に2000年代以降は外国籍選手の数も飛躍的に増加した。では、NBAで活躍した欧州プレーヤーたちはその後、どのようなキャリアをたどっているのか。第一線を退いた彼らの今をシリーズで紹介しよう。

 カリブ海に浮かぶフランスの海外県、マルティニーク島で生まれ育ったロニー・トゥリアフは、自分が将来プロバスケットボール選手になるなど想像もしていなかった。競技を始めたのも14歳と遅い。しかし父の勧めで本国フランスの首都パリに渡り、同国が誇るエリートアスリート養成所INSEPに入所すると、そこでトニー・パーカーやボリス・ディーオウら、その後ともに切磋琢磨する素晴らしい仲間と出会った。

 さらに縁あってアメリカのゴンザガ大に進学すると、4年時にはカンファレンスの最優秀選手賞を獲得。2005年のドラフトでロサンゼルス・レイカーズから全体37位で指名を受け、晴れてNBA選手となった。その後10年間で計7球団を渡り歩き、充実のプロキャリアを送った。
  そんな自身の予想をも超えたサクセスストーリーの一方で、レイカーズ入団時のメディカルチェックでは心臓に重大な欠陥が発見され、心臓部にメスを入れる大手術を受けた過去もある。しかし奇跡的なスピードで回復すると、5か月後にはプレー可能なコンディションを取り戻し、マイナーリーグで調整したあとの2006年2月、レイカーズでデビューの日を迎えた。

 トゥリアフはキャリア平均で4.7点と、決してスター選手だったわけではない。ボールハンドリングがうまいわけでもなく、テクニックで評価される選手ではなかった。しかし、常にガッツを剥き出しにする熱いプレーでチームを盛り立て、個性的な風貌も相まってファンに愛された選手だった。

 レイカーズでチームメイトだったジョーダン・ファーマーは、「一緒にプレーしてみたい選手は誰?」という質問に、「すでにチームメイトのトゥリアフ。彼のエネルギッシュさはチームに不可欠。彼の凄さをみんな過小評価している」と答えている。
  また2007−08シーズンまで3年間過ごしたレイカーズで、トゥリアフはもうひとつ、価値ある偉業を残している。それは、チームの大エースだったコビー・ブライアントを“変えた”ことだ。トゥリアフは、コビーが20年間のキャリアで友情を育んだというわずか4人の同僚の1人として名を挙げられている(あとの3人はカロン・バトラー、デレック・フィッシャー、パウ・ガソル)。

 トゥリアフが入団した当時、シャキール・オニールが去ったレイカーズでコビーは絶対的なリーダーになっていたが、自他ともに厳しい彼は同時に、近寄りがたさも漂わせていた。しかし元来おおらかな性格だったトゥリアフは、物怖じすることなくコビーに接した。それまでチームバスでは、誰もコビーの指定席の近くに寄り付かなかったが、トゥリアフは隣に座ると、平気でコビーに話しかけてはチームメイトたちを唖然とさせたという。
  少年時代にイタリアやフランスで過ごした経験をもつコビーはヨーロッパのカルチャーに興味があり、欧州人とは特に親しくしていたと言われているが、自分と屈託なく接するトゥリアフにも心を許すようになった。ある時には、遠征先のホテルで夜中の1時頃に突然コビーから「今から5分後にロビーに来い!」と呼び出され、近くの店でミルクシェイクをすすりながら、ゲームプランや人生について語り合ったという。クラブ広報が却下するような単独インタビューも、コビーはフランスのスポーツ紙やバスケ専門誌には、「トゥリアフの仲介でなら」と応じることもあった。

 トップでいるためには孤高の存在であるべきだという信念があったコビーだが、人との関わりを大切にするトゥリアフに感化され、他者とつながることでリーダーシップがより発揮されることに気づいてからは少しずつオープンになっていった。そしてトゥリアフがレイカーズを去る頃には、ホテルの自室に仲間を呼んで、ゲームをするまでになっていた。

 2008年オフ、4年1700万ドルというオファーを提示されてトゥリアフがゴールデンステイト・ウォリアーズに移籍することが決まった際には、「とても悲しい。彼はキープしてほしかった。彼のことは人として大好きだった。バスケットボール選手としてもね。だから彼が去ってしまうのは耐えがたいが、これがNBA選手の宿命だ…」とコメントしている。
  トゥリアフはその後、ニューヨーク・ニックス、ワシントン・ウィザーズ、マイアミ・ヒート、ロサンゼルス・クリッパーズ、ミネソタ・ティンバーウルブズと渡り歩き、ヒートではチャンピオンの栄誉にもあずかった。そしてウルブズに所属していた2014年12月、右臀部を痛めて関節鏡手術を受けると、直後に3チーム間トレードでフィラデルフィア・76ersに移籍し、その後に解雇。回復後はNBAに復帰する道を探っていたが、2016年10月、33歳で現役引退を発表した。

 NBAでキャリアを築いた間には、フランス代表としても数々の国際大会に出場した。ユーロバスケット(欧州選手権)に3回(2003、07、09年)、日本で行なわれた06年世界選手権(現ワールドカップ)や12年のロンドン五輪でも主力としてプレー。残念ながらメダル獲得はならなかったが、パーカーやディーオウらタレントが揃い、自国ファンから爆発的な人気を集めたこの頃のフランス代表チームで、トゥリアフはリバウンダー、そしてムードメーカーとして圧倒的な存在感を発揮した。
  INSEP時代からの仲間であるパーカー、ディーオウとの結束はとりわけ固く、現役時代からディーオウと共同出資してパリにスポーツをテーマとするレストランを開業したり、インディーズ映画の製作に携わったりと、公私にわたって交友を続けている。またニコラ・バトゥームも加えた4人で、島でサバイバルゲームをしながらお宝を探す人気のリアリティTVショーに出演するなど、お茶の間でも人気を博している。

 そんな彼の現在の主な活動は、NBAのアンバサダーだ。NBAは現在、アフリカ大陸での競技振興に力を入れている。今回の新型コロナウイルスの影響で開幕が延期になってしまったが、12か国のチームで行なわれるバスケットボールアフリカリーグ(BAL)も今年から開催されるはずだった。

 セネガルにルーツを持つディーオウや、NBAでアフリカ人選手たちと交流してアフリカへの親近感を高めたというトゥリアフは、バスケットボールクリニックを通して、これまで何度も現地を訪れてきた。

「自分は14、5歳と、かなり遅い時期にバスケットボールを始めたが、いいコーチに恵まれたおかげでキャリアを築くことができた。そうした自分の経験を、アフリカの子どもたちとシェアできたら嬉しい」と、精力的に活動している。
  また、NBAと協力してアフリカの学校教育にバスケットボールを取り入れる試みを行なっているフランスの政府機関『フランス開発庁』のアンバサダー兼アドバイザーも務めている。青少年たちへのメッセンジャーとして、大学などの講演会に呼ばれることも多い。

「英語をまったく話せないでアメリカの大学に行くことになった時も、心臓にメスを入れることになった時も、とても怖かった。怖さは、自分がやろうとしていることを妨げる要因になってしまうものだと思う。でも、怖さを乗り越えて何かを実現することができた時、自分のキャパシティが広がる。『自分はこのくらいまでだろう』と、自ら制限してしまっていた壁を、そこで打ち壊すことができる。『恐れ』は、退けるんじゃなく、親友になるくらいのつもりでアクションを起こしていくと、乗り越えられるんだ」

 自分自身の経験を交えながら、愛情たっぷりに話すトゥリアフの講演は、学生たちへ大きなインパクトを与えると評判だ。
  ティーンエイジャーの頃に故郷を離れ、パリやアメリカなど世界各地に移り住んだ経験は、彼を“地球人”へと育てた。そんな彼にとって旅はライフワークでもある。

「プロのバスケットボール選手になるなんて思ってもいなかったけれど、自分は世界中を旅する人になるとは思っていた。思えばバスケットボールは、それを実現するための最初のステップになってくれた。今はそのおかげで、アフリカやヨーロッパや世界中のいろいろなところを回って、人々とつながることができている。僕は旅をすることで、人々が夢を実現するための力になりたいんだ」

 トゥリアフにとっては、バスケットボール選手を引退した今こそが、人生のメインステージであるようだ。

文●小川由紀子

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