主役の座と引き換えにグラントが掴んだ“4つの優勝リングと名脇役の称号”【NBA名脇役列伝・後編】

主役の座と引き換えにグラントが掴んだ“4つの優勝リングと名脇役の称号”【NBA名脇役列伝・後編】

ブルズの3連覇に貢献し、指標的にも文句なしの選手に成長したグラント。しかしその一方で、自身の待遇に不満を募らせていった。(C)Getty Images

■ケガを恐れてたびたび欠場。4連覇を逃した“戦犯”とも

 スコッティ・ピッペンとホーレス・グラントが期待通りに成長を遂げ、マイケル・ジョーダンのワンマンチームから脱皮したシカゴ・ブルズは、1991年のファイナルでロサンゼルス・レイカーズと激突する。

 グラントは第2戦で20得点、敵地での第3戦では22得点に加え、11リバウンドも記録し勝利に大きく貢献。通算5回出場したファイナルのなかでも、グラントはこのシリーズが最も思い出深いと言う。

「何しろチーム史上初の優勝だし、マジック・ジョンソンやジェームス・ウォージーを擁するレイカーズに勝ったんだからね。ほかとは比べようもないよ。あの時はチームが一丸となって戦い、それぞれが自分の役割を忠実にこなしていた。だからこそ、優勝トロフィーに手が届いたんだ」
  その後、1992年にポートランド・トレイルブレイザーズ、1993年にはフェニックス・サンズをファイナルで倒し、ブルズは3連覇を達成。グラント自身も1993年にオールディフェンシブ2ndチームに初めて選ばれ、以降4年連続で選出されるなど、リーグを代表するパワーフォワード(PF)の座を不動のものにしていった。

 1991−92シーズンにはキャリアハイのフィールドゴール成功率57.9%をマークしたほか、オフェンシブ・レーティング(132.2)は堂々のリーグ1位、ウィン・シェアーズ(勝利貢献度/14.1)もジョーダン、カール・マローン(ユタ・ジャズ)に次ぐ3位という好成績をマーク。しかし、当時はまだこうした進歩的なデータが開発されていなかったため、グラントの価値が正当に評価されていたかどうかは疑問が残る。

 やがてグラントは、ジョーダンとピッペンばかりが脚光を浴びる状況に、少しずつ不満を募らせていく。ジョーダンに関しては「嫌な奴ではないけれど、一緒にディナーに行くこともないし、目も合わせない間柄」と公言。ジョーダンの方も、マスコミの質問に何でもストレートに答えてしまうグラントを快く思っていなかった。
  また、フィル・ジャクソン・ヘッドコーチがグラントをオフェンスの第3オプションとみなし、積極的にシュート機会を与えないことも気に入らず、球団首脳陣から正当な敬意を払われていないとも感じていた。親友だったピッペンとも次第に疎遠となり、いつしか「ホーレスはただのチームメイト」と言われるようになってしまう。

 ジョーダンが引退した1993−94シーズンはグラントにとって契約最終年だったが、ここで彼は自己最高の平均15.1点、11.0リバウンドを記録し、念願のオールスター初出場も果たす。だがその一方で、明らかな症状もないのに体調不良を訴え、試合を休むことがたびたびあった。“フリーエージェント(FA)になる前に大きなケガをしたくないからだ”と噂され、オーナーのジェリー・ラインズドーフからは「ホーレスが休みさえしなければ、我々はリーグ最高勝率を残せたはずだ」と、4連覇を逃した戦犯として名指しで批判された。
 ■自身の後釜が人気者となったことに、臍を噛む思いをしたはず

 契約延長交渉では、ラインズドーフとの直接会談で一度は合意しながら、代理人と相談したいとの申し出が受け入れられなかったために破談となり、最終的にはオーランド・マジックへの移籍を決める。

「俺のほうから見限ったんじゃない。彼らが俺との関係を断ち切ったんだ」とグラントが怒りを爆発させれば、ラインズドーフも約束を守らなかったとしてグラントを痛烈に非難。実に後味の悪い別れになった。

 とはいえ、若き逸材シャキール・オニールとアンファニー・ハーダウェイを擁して上り調子だったマジックにとって、実力と経験を兼ね備えたグラントの加入は願ったり叶ったりだった。迎えた1994−95シーズン、マジックはイースタン・カンファレンス最高勝率をマークし、プレーオフのカンファレンス準決勝では、ジョーダンが現役復帰したブルズを粉砕。このシリーズで平均18点、11リバウンドと大暴れしたグラントは「個人的な感情は何もない」と口では言いながらも、心のなかでは快哉を叫んでいたに違いない。
  しかしながら、翌1995−96シーズンのプレーオフではブルズにスウィープで返り討ちに遭う。しかもそのオフには、シャックがFAとなってレイカーズへ移籍。失速するマジックを尻目に、ブルズは1996〜98年にかけて2度目のスリーピート(3連覇)を達成するのだが、とりわけ自分の後釜としてPFを務めたデニス・ロッドマンが、世界的な人気者となって持て囃されたのは、グラントにとっては臍を噛む思いだったろう。

 その後シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)を経て、2000−01シーズンにレイカーズへ移籍。再びジャクソンの下でプレーしたグラントは、自身4度目の優勝を味わう。翌年にはマジックへ復帰、最後はジャクソンの要請で再度レイカーズに呼び戻され、2004年を最後に現役を引退した。
  弟のハービーは引退後に指導者となったが「コーチ業に興味はあるけど、どれだけ大変な仕事か、嫌と言うほど弟に聞かされているからね。1日14時間もコーチングやスカウティングに費やすのは御免だな」と話すなど、兄は同じ道に進むつもりはなさそうだ。その代わり、高い知名度を生かして世界中を飛び回り、NBAの魅力を伝える親善大使として活動。2016年にはピッペン、トニー・クーコッチとともに、ラインズドーフのスペシャル・アドバイザーの肩書きでブルズに戻っている。

「ジョーダンがいるチームでは、ほかのすべての選手は影の存在にならざるを得ない。その事実がグラントには受け入れられなかったのだ」と、前出のハルバースタムは記している。

 主役になれなかったのは不本意だったかもしれない。それでも、最高の脇役として讃えられるのも悪くはなかったと、4つのチャンピオンリングを眺めながら、今ではグラントもそう思っているのではないだろうか。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2014年5月号掲載原稿に加筆・修正。

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