無名大学のマネージャーから“神様”の相棒に。スコッティ・ピッペンのサクセスストーリー【NBAレジェンド列伝・前編】

無名大学のマネージャーから“神様”の相棒に。スコッティ・ピッペンのサクセスストーリー【NBAレジェンド列伝・前編】

ピッペンはジョーダンとともに、ブルズのすべての優勝に貢献。“史上最高のNo.2”と評された。(C)Getty Images

シカゴ・ブルズが最後に優勝した1997−98シーズンの密着ドキュメンタリーシリーズ『ザ・ラストダンス』(全10話)の放映が始まり、マイケル・ジョーダンをはじめとした当時の優勝メンバーが改めて脚光を浴びている。“神様”ジョーダンの相棒を務め、全6回の優勝に貢献したスコッティ・ピッペンのキャリアを、前後編で振り返る。

■苦難の学生時代を乗り越え、神にも認められる万能戦士に

 マイケル・ジョーダンにあって、コビー・ブライアントとレブロン・ジェームズになかったもの——それは、「スコッティ・ピッペン」である。

 必要な時に自分に代わって得点でき、ディフェンスやリバウンドでも頼りになる。そんな相棒がいればコビーやレブロンの負担ははるかに軽かったはずだ。パウ・ガソルは好選手ではあったもののコビーに匹敵する存在ではなく、今のレブロンにはアンソニー・デイビスがいるけれども、まだコンビを組んで1年にも満たず“相棒”と呼べるほどの信頼関係はできていない。
  ジョーダンの全盛期に、ピッペンはまさしくそうした役割を演じていた。主役級の技量に恵まれながらも2番手の位置で最も光り輝いた、究極の最優秀助演俳優だった。

 ピッペンはアーカンソー州の貧しい家庭で、12人兄弟の末っ子として育った。同時代の他の子どもたちと同様、ジュリアス・アービングに憧れNBAを夢見ていたが、高校までは身長が185cmしかなく、体格も貧弱でまったく目立たない存在だった。

 そんなピッペンの元に強豪大学から誘いが来るはずもなく、高校のコーチの口利きで無名校のセントラルアーカンソー大に進んだが、選手ではなくマネージャーとしての入学だった。

 しかしピッペンはそこからの4年間、恐ろしいほどのスピードで成長を遂げる。身長が低い頃にポイントガードをしていたので、ボールハンドリングやプレーメーキングの才能が磨かれ、身長が伸びてからはフロントコートでプレーしているうちに、自然と何でもできるオールラウンドプレーヤーへ進化した。
  特にNBAスカウトの目を惹いたのは、長い腕を生かしたディフェンスだった。当時ブルズのGMを務めていたジェリー・クラウスは、とりわけピッペンにご執心だった。

「線は細いが強靭な身体、驚くほどの優雅さと滑らかな動き、並み外れて指の大きい長い手……、すべてが備わっている」。

 将来は偉大な選手になると確信したクラウスは、1987年のドラフト5位でシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)が指名したピッペンを、即座にトレードで手に入れた。

 ジョーダンもピッペンの素質の高さはすぐにわかった。この男を鍛えれば必ず自分の助けになるはずと見込んで、チーム練習が終わった後も2人で居残り練習を続けた。「マイケルは自分のクローンを作ろうとしていた」(当時のヘッドコーチ、ダグ・コリンズ)との思惑通り、ピッペンのプレースタイルはジョーダンのそれと酷似するようになっていった。
  3年目の90年にはオールスターに選ばれ、「対戦相手のコーチを本当に悩ませているのは、ジョーダンではなくピッペンの方なんだ。彼にマッチアップするのはとても難しいからね」(ブルズのアシスタントコーチ、ジョニー・バック)とまで評価された。

 しかし、彼らの行く手にはデトロイト・ピストンズの強大な壁が立ちはだかっていた。当時のピストンズはデニス・ロッドマンやビル・レインビアらを中心としたラフプレーで“バッドボーイズ”と恐れられていた。精神的に弱い部分のあったピッペンは彼らの格好の標的となり、すっかりピストンズ恐怖症にかかってしまった。

 その象徴的なシーンが89−90シーズンのカンファレンス決勝第7戦だった。雌雄を決する大事な一戦を前にピッペンは「頭痛がひどくて試合に出られない」と訴えたのだ。ちょうど1年前、89年のカンファレンス決勝第6戦で、ピッペンはレインビアのヒジを頭に食らって昏倒し、そのままコートに戻れなかった苦い思い出があった。ジョーダンに喝を入れられて試合には出たものの、フィールドゴールは10本中1本しか決められない醜態。試合に敗れただけでなく、チームメイトの信頼も失ってしまった。
 ■ジョーダンの引退を受けて2番手から“エース”へ昇格

 けれども、この屈辱をきっかけにピッペンはさらなる成長を遂げる。「あの失敗を何としても取り返したい。オフシーズンはそのことばかり考えていた」。より強靭な選手に生まれ変わるべく、強い決意を持ってピッペンはトレーニングに取り組んだ。

 再びピストンズと対戦した91年のカンファレンス決勝。ブルズの3連勝で迎えた第4戦、ピッペンはロッドマンに突き飛ばされてアゴを6針も縫う傷を負ったが、立ち上がって戦い続けた。もはやバッドボーイズは、ピッペンを肉体的に痛めつけても精神的には崩せなくなり、ブルズは4連勝でピストンズを粉砕した。
  ロサンゼルス・レイカーズと対戦したファイナルでも、マジック・ジョンソンのマッチアップという大役をこなす一方、最終第5戦では32得点、13リバウンド、7アシストと攻撃面でも大活躍し、ブルズの初優勝に大きく貢献した。

 92年にはバルセロナ五輪に出場して金メダルを獲得。翌92−93シーズンに3連覇を果たしてジョーダンが現役を引退するといよいよピッペンに主役の座が回ってきた。

“初主演”のシーズンはキャリアハイの平均22.0点、8.7リバウンド。オールスターでは29得点をあげてMVPに選ばれ、オールNBA1stチームにも初選出。ジョーダンが去って苦戦を予想されたブルズが、前年より2勝少ないだけの55勝もできたのはピッペンの活躍によるものだった。(後編へ続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2008年2月号掲載原稿に加筆・修正。

【PHOTO】引退後もその影響力は絶大!NBAの頂点に君臨するバスケットボールの”神様”マイケル・ジョーダン特集

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