【NBAデュオ列伝】解散、再結成、そしてまた別の道へ。そのすべての過程が、ジョーダンとピッペンを“史上最高のデュオ”たらしめた|後編

【NBAデュオ列伝】解散、再結成、そしてまた別の道へ。そのすべての過程が、ジョーダンとピッペンを“史上最高のデュオ”たらしめた|後編

ピッペン(右)はジョーダン(左)がいなければ、これほど称賛されることはなかっただろう。しかし逆もまた然りで、ジョーダンにもピッペンが絶対に必要だったのだ。(C)Getty Images

■ジョーダンの引退で一時デュオ解散、そして再結成し約束の地へ

 シカゴ・ブルズが3連覇を達成してから約3か月後の1993年10月、マイケル・ジョーダンが突然の現役引退を発表。スコッティ・ピッペンは、一夜にしてブルズを背負う役目を任されることになる。

 しかし、ピッペンには荷が重かった。象徴的だったのが1994年、ニューヨーク・ニックスとのカンファレンス決勝第3戦で起きた“座り込み事件”だ。

 1点差を追う試合時間残り1.8秒の場面で、フィル・ジャクソン・ヘッドコーチ(HC)は最後のオフェンスを自分ではなく、新人のトニー・クーコッチに任せると指示。これに激怒したピッペンは、タイムアウト明けにコートに戻ることを拒否したのだ。

「スコッティは、自分の行動がどれだけの影響を及ぼすかわかっていなかった」(スティーブ・カー)

 この一件で、再びピッペンの評価は急落してしまった。
  その頃、ジョーダンも同じように苦しんでいた。野球という新たな挑戦に心は燃えていたが、マイナーリーグでの1年は散々な成績に。『スポーツイラストレイテッド』誌には「ジョーダンは野球を侮辱している」とまで書かれてしまう。

 だが、これは決して無駄な経験ではなかった。努力してもできないことがあるということがわかり、能力の劣る選手の気持ちが理解できるようになったのだ。NBA復帰後の彼は、以前のような冷酷さが影を潜め、多少ではあるが寛大な人間になった。

 1995年3月、バスケットコートに戻ったジョーダンは、ピッペンの存在が重要さを増していることに気づく。「マイケルがいない間、彼は毎晩標的になることの大変さを知った」とジャクソンHCが語ったように、中心選手としての役割を課せられ、ピッペンは大きく成長していた。

 ジョーダンの伝記を書いたデビッド・ハルバースタムはこのように記している。

「自分がマイケル・ジョーダンであり続けるためには、スコッティ・ピッペンが必要だということに気づいたのだ。こうして今、初めて相互の依存関係ができあがった……どんな時でも相手が何を望み、何を必要としているかがわかっていたので、お互いの頭の中では双子のようになっていた」

 かつては頼りなく、不満の種だった男は、ジョーダンにとって不可欠の存在になっていたのだ。
  ブルズは再び無敵のチームになった。1996年は当時のリーグ新記録となる72勝をあげ、ファイナルではシアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)を一蹴し3年ぶりに王座を奪回。続く1997年はユタ・ジャズを破って連覇を果たす。このシリーズでは、ピッペンは足を痛めていて完調ではなかったが、攻守にわたりジョーダンを支え続けた。

 ファイナルMVPに輝いたのはジョーダンだったが、トロフィーを受け取る際、彼はピッペンに声をかけた。

「一緒に持とう。お前にはその資格があるんだから」

 記者会見では「スコッティと俺は2人で1人だ。俺1人でMVPを貰うわけにはいかない。トロフィーは俺のものにして、商品の車は彼にあげるよ」とピッペンを称賛。ピッペンはそれに応えて「マイケルは毎日車を替えているから、置き場所がないんだろう」とジョークを飛ばす。彼らの間に、確かな絆ができていることを感じさせた瞬間だった。
 ■“ラストダンス”を合言葉に、再びひとつになったブルズ

 1997−98シーズンが始まる頃、ブルズは契約問題で揺れていた。ジョーダンは前年に3000万ドルを超える高額契約を結んでいたが、その際オーナーのジェリー・ラインズドーフが「この契約を一生後悔することになるかもしれない」と発言。このことを、ジョーダンは依然として根に持っていた。

 その一方で、ピッペンも不満で爆発寸前だった。1992年に7年1800万ドルで契約していたが、その後NBAの平均年俸が急騰したため、この頃には2流選手と同程度のサラリーとなっていたのである。

 しかも経営陣が彼をトレードに出そうと動いていたことを知り、悪感情と不信感は頂点に。ピッペンは痛めていた足をわざと治療せず、開幕から欠場を続け、さらに自らトレードを希望したのだった。

 以前のジョーダンなら、このような自分勝手な行動を決して認めなかっただろう。しかし、その元凶がフロントの不誠実さにあることは理解していた。それだけでなく、もはやピッペンは単なるチームメイト以上の存在であり、実の弟のようにさえ思えるようになっていたのだ。
  そして“ラストダンス”となる1997−98シーズンが開幕する。ピッペンの欠場中は王者らしからぬ戦いを繰り広げたが、ジャクソンHCも含め、経営陣に対する反感を全員が共有していたおかげで、チームはおもしろいほどひとつにまとまっていた。苦戦の末カンファレンス決勝でインディアナ・ペイサーズを倒すと、ファイナルでは2年続けてジャズを破り、2度目の3連覇を成し遂げる。

 ジョーダンは再三「フィルとスコッティと一緒なら、現役続行の可能性はある」と公言していた。しかし、すでにジャクソンHCもピッペンもブルズを去ることを決意。ロックアウト明けにジョーダンは正式に引退を表明し、ジャクソンHCは辞任、ピッペンもヒューストン・ロケッツへ移籍したことで、ブルズ王朝は終焉を迎えた。
  その後ピッペンはロケッツとポートランド・トレイルブレイザーズで5年間を過ごしたが、その間1度もファイナルには進めず。『ボストン・グローブ』紙のボブ・ライアンは、ピッペンを「ジョーダンと一緒ならリーグで2番目の選手だが、そうでなければ20番目くらい」と評したが、こうした声を完全に封じることはできなかった。

 ジョーダンも2001年、ワシントン・ウィザーズで3年ぶりの現役復帰を果たしたが、やはり衰えが顕著に。しかもウィザーズは、ジョーダン入団時のブルズのように、目的意識に欠ける集団だった。ウィザーズで過ごした2年間、ジョーダンはピッペンの存在価値がいかに大きかったか、改めて認識したに違いない。

 真に偉大な選手は、周りの選手を向上させる。ジョーダンはピッペンを鍛え上げ、ブルズを常勝集団とした。だが、ピッペンの支えがなければ、“偉大ではあるがチームを勝たせられない選手”にとどまっていたのかもしれない。その意味で、ピッペンもまた、ジョーダン同様に偉大な選手なのだ。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2004年2月号掲載原稿に加筆・修正。

【PHOTO】NBAの頂点に君臨するバスケットボールの“神様”マイケル・ジョーダン特集
 

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