リーグ王者が1位指名権を手にした史上唯一の珍事。レイカーズが隆盛を築くきっかけとなった1982年ドラフトを振り返る【NBAドラフト史】

リーグ王者が1位指名権を手にした史上唯一の珍事。レイカーズが隆盛を築くきっかけとなった1982年ドラフトを振り返る【NBAドラフト史】

1位指名のウォージーは、1980年代にリーグを席巻した“ショータイム・レイカーズ”の主役の1人として優勝を3度経験。1988年にはファイナルMVPに輝いた。(C)Getty Images

NBA史上でたった一度だけ、ファイナルを制したチームが直後のドラフトで1位指名選手を獲得したことがある。そんな唯一の幸運を手に入れたのは、1982年のロサンゼルス・レイカーズ。ジェームズ・ウォージーを手中に収めた名門が、80年代の隆盛を築くきっかけとなったドラフトを振り返る。

■同年に優勝した王者に、なぜ1位指名権が転がり込んだのか?

 レブロン・ジェームズとアンソニー・デイビスの加入により、一躍タイトルコンテンダーへと変貌した名門レイカーズ。2019−20シーズンはウエスタン・カンファレンスの首位を独走していたものの、新型コロナウイルスの影響によりシーズンの行方は不透明な状態が続いている。

 そんな強豪レイカーズも、2013−14シーズンから昨シーズンまでは、6年連続でプレーオフ進出を逃すどころか、毎年のように最下位争いに甘んじていた。その6回を除き、72年に及ぶ球団史の中でプレーオフ進出を果たせなかったシーズンが5回しかないことを考えると、いかにのっぴきならない事態だったかがわかる。リーグ屈指の人気を誇るチームなだけに、やきもきしていたファンも多かっただろう。
  低迷を続けるチームにとって、ドラフトによる優秀な若手の獲得は、最も手っ取り早く、なおかつ即効性の高いカンフル剤となり得る。ロッタリーチームと化していたレイカーズも3年連続で2位指名権を手にし、即戦力として期待する新人を毎年加えたが、あとほんのわずかの運に恵まれず、1位指名権の奪取には至らなかった。

 とりわけ、2015年と16年のドラ1には逸材が揃っており、もし1位指名権が転がり込んでいたら、カール・アンソニー・タウンズまたはベン・シモンズという将来のフランチャイズプレーヤー候補を手中に収めることができただけに、首脳陣は2位指名権の獲得を手放しで喜べない年が続いたのではないだろうか。

 1948年のNBA参入以降、レイカーズは3度ドラフト1位指名権を手にしている。古豪にしては少なく感じるが、同様に歴史の古いセルティックスやピストンズ、ホークスといったチームが2回であることを考えると、3回はまだ恵まれている方かもしれない。それより何より、レイカーズが獲得したドラ1の顔ぶれがこれまた凄い。3人とも殿堂入りはもちろん、“50人の偉大な選手”にも選ばれているレジェンドたちだ。
  まずは1958年、前本拠地ミネアポリス時代のエルジン・ベイラー。ラリー・バードと並び、史上最高のスモールフォワード(SF)の1人とされている。続いて79年のマジック・ジョンソン。彼についての説明は不要だろう。3人目が、今回紹介する1982年のドラ1、“ビッグゲーム・ジェームズ”ことジェームズ・ウォージー。

 レイカーズは直前の1981−82シーズンにタイトルを獲得している。優勝チームが同年のドラフトで1位指名権を手にしたのは、後にも先にもこの年だけだ。リーグを代表するベテランセンター、カリーム・アブドゥル・ジャバーに若き天才司令塔マジックが加わったレイカーズは、1979−80シーズンからの3年間で2度の優勝を飾り、新たな黄金期に突入していた。そんな強豪チームに、いったいどのような経緯でドラフト1位指名権が転がり込んできたのだろうか。
 ■“ショータイム”レイカーズに最適のウォージーが1位指名

 1980年2月、イースタン・カンファレンスでプレーオフ進出を目指すキャブズと、ウエタン・カンファレンスの首位争いを演じるレイカーズの間でささやかなトレードが成立する。キャブズの控えポイントガード(PG)、ブッチ・リー(シーズン平均1.3点、0.9アシスト)+1982年のドラフト1巡目指名権と、レイカーズの控えパワーフォワード(PF)、ドン・フォード(同4.2点、2.5リバウンド)+1980年1巡目指名権の交換だった。この地味なトレードが、後のレイカーズに思いがけない幸運をもたらすことになる。

 2年後の1981−82シーズン、キャブズがリーグ最下位となる15勝67敗の成績で終えると、レイカーズが受け取っていた1巡目指名権はプラチナチケットと化す。当時はまだロッタリー制度がなく、東西両カンファレンスの最下位チームがコインの裏表で1位指名権を争う抽選方法、“コインフリップ”が採用されていた。西の最下位はサンディエゴ(現ロサンゼルス)・クリッパーズ。

 レイカーズが狙いを定めたのは、当時“史上最高のカレッジプレーヤー”と謳われていたバージニア大3年のラルフ・サンプソンだった。彼にとっても王者レイカーズは意中の球団であり、1982年ドラフトへのエントリーに前向きな姿勢を見せていた。是が非でもサンプソンを手に入れたかったレイカーズは、クリッパーズに対し600万ドル+αを提示して指名権の譲渡をオファーしたが、あえなく拒否される。

 サンプソンにとって、弱小球団であるクリッパーズは絶対に行きたくないチームだった。コインフリップでクリッパーズが勝つ確率は5割。そのリスクを恐れたサンプソンは、悩みに悩んだ末、1982年度のエントリーを見送り、もう1年大学に残る決意をする。
  そして迎えたコインフリップ。放り投げられたコインは、レイカーズが選んだ表を上にして止まった。サンプソン獲得というベストシナリオは成就しなかったものの、3週間前にチャンピオンの座に就いたばかりのリーグ王者が、ドラフト1位指名権を手にするという変事が発生したのだった。

 この年のドラフトには3人の有望選手がいた。まずはノースカロライナ大のウォージー。2年時にNCAAトーナメントで準優勝を飾り、3年時には優勝の立役者として(決勝点を決めたのはマイケル・ジョーダン)、トーナメントの最優秀選手賞を受賞している。続いてデポール大のテリー・カミングス、そしてジョージア大のドミニク・ウィルキンス。その中から1位が選ばれることは確実視されていた。

 3人は学年(3年)、ポジション(SFもしくはPF)、サイズ(205cm、95kg前後)、スタッツ(平均14〜22点、7〜10リバウンド)、身体能力の高さなど、多くの点で似通っていたが、プレースタイルは大きく違っていた。スピードと突破力のウォージー、屈強でスキルもあるカミングス、パワーと破壊力のウィルキンス。それぞれが魅力と将来性に富んだ若者だった。
  1982年6月29日、ニューヨークのマディソンスクエア・ガーデン内にあるフェルト・フォーラムでNBAドラフトは開催された。コミッショナーのラリー・オブライエンから最初に読み上げられた名前は、ジェームズ・ウォージー。

 この年のプレーオフで見せた快進撃により、レイカーズは“ショータイム”というニックネームで呼ばれ始めていた。若きエリートHCパット・ライリーの指揮の下、マジックを先頭に繰り広げられるアップテンポでエキサイティングなファーストブレイクや爆発的なオフェンスに、ウォージーのプレースタイルはピッタリだった。

 レイカーズはその後の9年間で7度のファイナル進出と3度の優勝を飾り、“西の雄”としてリーグに君臨するのだが、ウォージーはその中核選手の1人として欠かせない存在となった。また、重要な試合のここ一番で見せる圧倒的なパフォーマンスにより、“ビッグゲーム・ジェームズ”というニックネームを頂戴している。

 2位でクリッパーズに入団したカミングスは、1年目からチームの中心選手として期待以上の活躍を見せ、新人王を受賞。平均23.7点、10.6リバウンドはどちらもチームハイであり、またキャリアハイでもあった。その後、1982年組では最長となる18シーズンをNBAで過ごしている。
  ウィルキンスは3位でジャズに指名された。その頃、ジャズは深刻な財政難に陥っており、またウィルキンスもジャズでのプレーに難色を示したことから、2か月後にホークスとの間で複数人を絡めたトレードが成立する。その後12シーズンに渡り、ホークスのフランチャイズプレーヤーとして活躍。オールスターの常連となり、1985−86シーズンには平均30.3点を記録し、得点王に輝いた。

 だが何と言っても、ウィルキンス=スラムダンクである。怒濤のごとく繰り出される人間離れした超絶ダンクに、付いた渾名が“ヒューマン・ハイライトフィルム”。パワー系のスラムダンカーとしては、史上最高レベルと言ってもいいだろう。オールスターのスラムダンク・コンテストにおけるジョーダンとの死闘は伝説となっている。

 点取り屋として、またド派手なダンカーとして、ひときわ目立つ存在ではあったが、優勝とは無縁。初代ドリームチームや“50人の偉大な選手”の選出からも漏れ、一部で物議を醸した。それでも、彼が叩き込んだ名ダンクの数々は、ファンの記憶にしっかりと焼き付けられている。
 ■名門復活のため、2014年のロッタリーに臨んだウォージー

 1982年のドラフトから30余年、2014年のドラフトロッタリーにレイカーズ代表として参加したのは、テレビでレイカーズ戦のスタジオアナリストを務めていたウォージーだった。チームの主要スタッフではない彼がなぜレイカーズを代表して出席することになったのか、その経緯についてESPNが短いインタビューを行なっている。そのなかにちょっと微笑ましいエピソードがあったので紹介したい。

 ロッタリーを1か月後に控えたある日、ウォージーに1本の電話がかかってきた。声の主はレイカーズのミッチ・カプチャックGM。レイカーズの代表としてロッタリーに出席してほしい、そうカプチャックは切り出した。

 2014年のドラフトには、カンザス大のアンドリュー・ウィギンズやジョエル・エンビードなど優秀なタレントが揃っていた。レイカーズは9年ぶりにプレーオフ進出を逃し、絶対的エースであるコビー・ブライアントがユニフォームを脱ぐ日も迫っている。新たなフランチャイズプレーヤーを必要としていたものの、2011年12月に画策したクリス・ポールのトレードはリーグに却下され、2012−13シーズンにはドワイト・ハワードを迎え入れるも1年で離脱。チームの再建を図るうえで、2014年のドラフトは次世代を担う若手有望選手を獲得する絶好の機会だった。
  球団社長のジーニー・バスや副社長のジム・バス、もしくはコビーがロッタリーに出席してもよさそうなものだったが、なぜウォージーに白羽の矢が立ったのか、その明確な理由は本人に伝えられなかった。レイカーズ最後のドラ1選手に出席してもらうことで、ゲンを担ぎたかったのだろうか。

 2013−14シーズン、レイカーズの成績は下から6番目となる27勝55敗。1位指名権の当選確率は6.3%と低かったが、大波乱が頻発することで有名なNBAドラフトロッタリー、確率ひと桁台のチームも希望を捨てる必要はまったくなかった。

 古巣のためにひと肌脱ぐ決意をしたウォージーは、さっそくラッキーチャーム(アイテム)の入手に取り掛かる。考えに考えた末、ロッタリーの会場に持ち込もうと決めたのは、レイカーズ・レジェンドの古いボブルヘッド(首振り人形)3体。

 そのうちの1体、チック・ハーンの人形はすでに持っていた。ハーンは42年間に渡りレイカーズの専属アナウンサーを務めた伝説的人物で、82年のウォージーのドラフトに参加していた。“スラムダンク”や“エアボール”といった言葉の生みの親としても、つとに有名だ。
  残りの2体は、ともに前年の2013年に他界した元オーナーのドクター・ジェリー・バスとビル・シャーマン。元NBA選手のシャーマンは、1971年から91年までレイカーズのHC、GM、球団社長を歴任し、チームの黄金期を支えた。1980年にキャブズとのトレードをまとめ上げ、ウォージーのレイカーズ入りのきっかけを作った人物でもあった。ウォージーはその古い2体の人形を探している最中で、インタビューはそこで終わっている。

 最終的に揃ったのは、シャーマンを除いた2体。ロッタリー会場で、ウォージーはそれらを机の上に並べ、結果発表に臨んだ。緊張した面持ちのウォージーと、小刻みに首を振るレトロで少々間の抜けたボブルヘッド。ほっこりとした気分にさせられた視聴者も多かっただろう。

 残念ながら頼みのボブルヘッドは効力を発揮せず、レイカーズが手にした指名順位はひとつ落として7位。1位指名権を獲得したのは、確率9番目のキャブズ。なんと当選確率1.7%を覆しての、史上2番目となる大アップセット劇だった。

 ボブルヘッドが3体揃っていたら……、そうウォージーは悔やんだに違いない。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2018年2月号掲載原稿に加筆・修正。

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