名物監督の下で黄金期を築き、トーマスやオラディポら好選手も輩出しているインディアナ大。しかし近年は栄光に陰りが…【名門カレッジ史】

名物監督の下で黄金期を築き、トーマスやオラディポら好選手も輩出しているインディアナ大。しかし近年は栄光に陰りが…【名門カレッジ史】

名将ナイト(左下)の下、何度も全米制覇を成し遂げてきたインディアナ大。トーマス(右)、オラディポ(左上)ら好選手も輩出したが、近年は低空飛行が続いている。(C)Getty Images

2017年、佐藤琢磨が日本人レーサーとして初優勝を飾ったインディ500の開催地であるインディアナ州。アメリカンモータースポーツの聖地と呼ばれるこの地は、ケンタッキー州やノースカロライナ州と並び、アマチュアバスケが盛んな地域としても知られている。ノートルダム大やパデュー大、バトラー大といった名門校がひしめくなかで、一際大きな存在感を放っているのがインディアナ大だ。

 インディアナ州の別名“フージャー”を愛称とする同大は、NCAAトーナメント(以下トーナメント)を5度制したほか、これまでに68人のNBAプレーヤーを輩出。選手名の記されていないジャージーを着用したり、タイムアウト中に『ウィリアム・テル序曲』の演奏でチアリーディングを行なうなど、独自の文化を醸成している。
  創部当初は毎年のようにヘッドコーチ(HC)が代わり、成績も振るわなかったが、1938年にブランチ・マクラッケンが指揮官に就任するとチームは軌道に乗る。インディアナ大出身者であり、在学中にはオールアメリカンにも選出されたOBに率いられ、1940年はトーナメント初出場にして優勝を成し遂げた。

 1953年はボビー・レナードやディック・ファーリー(元シラキュース・ナショナルズ/現フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)、ドン・シュラントらの活躍で2度目の全米制覇を達成する。優勝の立役者となったセンターのシュラントは、オールアメリカンに3度選出されたほか、当時の学校記録となる通算2192得点をマーク。プロには進まなかったが、1982年に母校の殿堂入りを果たした。

 レナードはNBAでもロサンゼルス・レイカーズなどでプレーし、引退後はABA時代のインディアナ・ペイサーズのHCに就任。チームを3度の優勝に導き、コーチとして殿堂入りも果たしている。彼のほかにもインディアナ大の出身者にはNBAでのHC経験者が多く、マイク・ウッドソン(元アトランタ・ホークスHCほか)やランディ・ウィットマン(元ワシントン・ウィザーズHCほか)といった指揮官を輩出した。
  NBA入り第1号はジョン・ローガン。前身組織のBAAでスコアラーとして活躍し、セントルイス・ボマーズ(現在は消滅)時代の1947〜49年には3シーズン連続でオールBAAに選ばれた好選手だった。

 ウォルト・ベラミーは1960年のローマ五輪で金メダルを獲得し、翌1961年に新設球団のシカゴ・パッカーズ(現ワシントン・ウィザーズ)にドラフト1位で入団する。初年度から平均31.6点、19.0リバウンドと見事な数字を残し新人王に選ばれたが、以降は右肩下がりに成績が低下。結局1年目がキャリアハイとなるなど、竜頭蛇尾感が否めなかった。

 トムとディック、双子のヴァン・アースデール兄弟は1965年にNBA入りし、揃って1977年にフェニックス・サンズで引退。オールスター出場は3回ずつ、通算出場試合数はトムが929、ディックが921と、何から何までそっくりなキャリアを歩んだ。

 インディアナポリス生まれのジョージ・マッギニスは、1年時の1970−71シーズンに学校記録となる平均30.0点をマーク。同年に地元球団のペイサーズ(当時ABA)に入団すると、1975年に平均29.8点をあげて得点王に輝いた。翌年から編入したNBAでも能力を存分に発揮し、キャリア晩年の1980年に再びペイサーズへ加入。1982年に故郷で現役を引退した。
  1971年にはインディアナ大史上最高、そしてカレッジバスケ界でも指折りの名物コーチ、ボブ・ナイトが指揮官に就任。後述する数々の輝かしい実績に加え、戦術面ではモーションオフェンスの完成度を高めたことで有名だが、それ以上に激しい気性の持ち主としてその名が広く知れ渡っている。審判や対戦チームのHC、観客を相手に幾度となく揉め事を起こしたほか、判定を不服としてコート内に椅子を投げ入れたシーンは、動画などで観たことがあるファンも多いのではないだろうか。

 ただコーチとしての力量は確かで、1976年にはカレッジバスケ史上有数のチームを作り上げた。ケント・ベンソンやスコット・メイ、クイン・バックナーらを中心に、シーズン無敗のままトーナメント決勝に進出。史上初めて同カンファレンス同士の対決となったミシガン大との頂上決戦は、メイが26得点、ベンソンが25得点を奪い3度目の全米制覇を成し遂げた。
  最優秀選手に選ばれたメイは同年のドラフト2位でシカゴ・ブルズに、ベンソンは翌1977年に1位でミルウォーキー・バックスに入団したが、両選手とも指名順位にふさわしい成績は残せず。バックナーはトーナメント優勝に続き、1976年のモントリオール五輪で金メダル、NBAでも1984年にボストン・セルティックスでチャンピオンとなり、NCAA/五輪/NBAで頂点に立った史上5人目の選手となった。

 ナイト門下生で一番の出世頭はアイザイア・トーマスだろう。小柄ながらも抜群の俊敏性と旺盛な闘争心、そして明晰な頭脳を武器に、1年時から主力として活躍。1981年のトーナメント決勝では23得点、5アシストをあげ、チームを4度目の優勝に導いた。

 同年のドラフト2位で入団したデトロイト・ピストンズでは、ルーキーイヤーから先発に定着すると攻守両面でチームを牽引し、弱小だったチームを強豪に押し上げる原動力に。1989、90年に2年連続でリーグ制覇を果たしたほか、現役最終年を除いて毎年オールスターに選出されるなど、人気と実力を兼ね備えたスター選手としてその名を轟かせた。
  1984年のロサンゼルス五輪では、マイケル・ジョーダン(元ブルズほか)やパトリック・ユーイング(元ニューヨーク・ニックスほか)といった豪華メンバーがアメリカ代表チームに集結。彼らを指揮して優勝に導いたのもナイトだった。

 この時1年生ながら代表入りを果たしたスティーブ・アルフォード(元ダラス・マーベリックスほか)は、その経験を糧に大きく成長。4年生となった1987年には、エースとしてチームをトーナメント決勝に導く原動力となる。大一番となったシラキュース大戦は、残り5秒でキース・スマート(元サンアントニオ・スパーズ)が逆転の決勝シュートを沈める劇的な勝ち方で、5度目の全米制覇を達成した。

 アルフォードの通算2438点は、カルバート・チェイニー(元ブレッツほか)に次いで学校史上2位の記録。1999年に地元紙が選んだ「インディアナ大で20世紀最高のアスリート」では、水泳で9個の五輪金メダルを獲得したマーク・スピッツを抑え、堂々の1位に輝いた。残念ながらプロでは大成しなかったが、指導者としてUCLAなど4つの大学をトーナメントに導いている。
  1991年に殿堂入りを果たしたナイトだったが、高圧的に選手を怒鳴りまくる指導スタイルは、1990年代後半には時代遅れの産物となっていた。選手へ暴力を振るったのが問題となっただけでなく、大学首脳部との確執もあり、1999−2000シーズン限りでHCを辞職。毀誉褒貶の激しい人物ではあったけれども、42年間で積み重ねた通算899勝は退任時点で史上1位、現在でも3位と実績に文句のつけようはない。後のインタビューでは「インディアナ大のファンは素晴らしかったけれども、学校の連中には一切尊敬の念を持っていない」と語っている。
  彼のあとを継いだマイク・デイビスHCの下、2002年には準優勝を果たすも、その後はトーナメント出場の当落線上をさまようなど、フージャーズの栄光には陰りが見えている。プレシーズンのランキングで1位だった2012−13シーズンも、ヴィクター・オラディポ(ペイサーズ)、コディ・ゼラー(シャーロット・ホーネッツ)、ヨギ・フェレル(サクラメント・キングス)とのちのNBA選手を3人も擁しながら、スウィート16で敗退した。現在はこの3人を含め、8選手がNBAでプレーしている。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2017年8月号掲載原稿に加筆・修正。

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