伝説の1984年ドラフトの真相――ジョーダン獲得は「失敗」と謝罪したブルズ、歴史を変えた“ブーイの嘘”【NBAドラフト史】

伝説の1984年ドラフトの真相――ジョーダン獲得は「失敗」と謝罪したブルズ、歴史を変えた“ブーイの嘘”【NBAドラフト史】

ジョーダン(左)、オラジュワン(右上の左)、バークレー(右上の右)、ストックトン(右下)……。1984年のドラフトは、4人の殿堂入り選手を輩出した史上最高の当たり年だった。

マイケル・ジョーダンを輩出した1984年のNBAドラフトは史上最高の当たり年と言われるが、一方でこの年は今でも論議の尽きない変事が発生している。当時のカレッジ界No.1選手はジョーダン。その彼がなぜ3位指名に甘んじたのか?NBAドラフト史最大の謎に迫る。

■“史上最悪のスルー”はなぜ起こったのか?

 120年以上に及ぶバスケットボールの歴史のなかで、最も偉大な選手とされるマイケル・ジョーダンを世に送り出し、ほかにもアキーム・オラジュワン、チャールズ・バークレー(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)、ジョン・ストックトン(元ユタ・ジャズ)という4人のレジェンドを輩出した、目も眩むような豪華さを誇る1984年のNBAドラフト。

 だがその一方で、この年のドラフトでは今でも論議の尽きることがない変事が発生している。ドラフト直前のカレッジシーズンにおいて、メジャーアウォード7つすべてを独占した、いわばその年のカレッジNo.1選手であるジョーダンが、3位指名に甘んじたのである。
  その後のジョーダンの驚異的な活躍と、慢性的に故障を抱え期待外れに終わった2位指名選手、サム・ブーイの落差があまりに大きかっただけに、ジョーダンの指名をパスした行為は“史上最悪のスルー”と称されている。そして、見送ったポートランド・トレイルブレイザーズはその見る目のなさや判断力の悪さを延々と蒸し返され、歴史的愚挙としてその後何度も判断の是非を検証されることになる。

 史上最高のドラフトクラスとされる1984年組と、そのなかでも別格な存在であり、NBAの潮流を大きく変えたジョーダン。2度のスリーピートを達成し、シカゴに王朝を築いた彼が、もしあの時スルーされずブレイザーズに指名され、スコッティ・ピッペンやフィル・ジャクソン・ヘッドコーチ(HC)と出会うことがなかったら、まったく違った物語が展開されていたはずだ。そしてNBAの近代史も、まるっきり違うものになっていただろう。

 ドラフト史上最悪のスルーは、なぜ起こったのだろうか――。
 ■タンキングにより2年連続でロケッツが1位指名権を獲得

 NBAドラフトの1位指名権は、1966年から両カンファレンスの最下位チーム同士によるコインフリップ(コイントス)で争われるようになった。だが、そのシステムもついに破綻をきたし、1984年のドラフトを最後に翌年からはロッタリー制度が導入されることになる。

 コインフリップが廃止に追い込まれた最大の原因は、より上位の指名権を得るために公然と行なわれていたタンキング(試合にわざと負ける行為)にあった。1983年のドラフトにおいて、カレッジ史上最高の選手と謳われたラルフ・サンプソンを獲得するため、ヒューストン・ロケッツは1982−83シーズンに14勝68敗という大敗を喫する。そして見事コインフリップで勝利を収め、目論見通り1位指名権を勝ち取ったのだった。

 味をしめたロケッツは、翌年度のカレッジNo.1センター、地元ヒューストン大3年のオラジュワンとサンプソンのツインタワー構想を実現すべく、1983−84シーズンも最後の36試合中27試合に負け、1敗差でウエスト最下位を奪取。またもやコインフリップで勝利をもぎ取り、1位指名権の獲得に成功した。その2年間にロケッツがタンキングを行なったことは、後に当時のメンバーや主要スタッフが遠回しに認めている。

 業を煮やしたリーグは、翌1985年のドラフトに控えていた大物センター、パトリック・ユーイング(元ニューヨーク・ニックスほか)の過度な争奪戦を防止するためコインフリップ制度を廃止し、ロッタリーシステムの導入に踏み切ったのだった。この年のドラフトロッタリーは、19年間続いたコインフリップ制度の最終回ということになる。
  1984年のNBAドラフトは、6月19日、ニューヨークのマディソンスクエア・ガーデン内にあるフェルト・フォーラムで開催された。1位指名権はロケッツがもぎ取り、2位はインディアナ・ペイサーズからトレードで指名権を得ていたブレイザーズに、以下3位シカゴ・ブルズ、4位ダラス・マーベリックス、5位シクサーズと続いた。

 ロケッツは狙い通りオラジュワンを1位で指名。4年前にナイジェリアから海を渡ってきたばかりの7フッター(213cm)は、17歳までサッカーをプレーし、バスケットボールの経験はまったくなかった。ヒューストン大では、1年先にNBA入りを果たしたクライド・ドレクスラー(元ブレイザーズほか)とストリートスタイルのバスケットボールを繰り広げ、一大旋風を巻き起こしている。

 オラジュワンは1年時にNCAAトーナメントのファイナル4に進出、2、3年時には決勝まで駒を進めたが、ジョーダンやユーイングといったライバルの後塵を拝し、優勝には手が届かなかった。それでも、地元大学のスター選手であり、史上最強のツインタワー構想を明言していたロケッツの1位指名は既定路線。壇上でデイビッド・スターンNBAコミッショナーから名前を読み上げられても、会場に驚きの声は上がらなかった。
  問題は2位指名である。候補はノースカロライナ大3年のジョーダンと、ケンタッキー大4年のブーイ。7フッターながら走力とシュート力を併せ持ち、ブロックやパスの能力にも秀でたブーイは、高校時代にマクドナルド・オールアメリカンに選ばれるなど全米にその名を轟かせていた。

 古豪ケンタッキー大に進学すると、1年時にモスクワ・オリンピックの代表チームに選ばれ(最終的にアメリカがボイコット)、2年時には平均17.4点、9.1リバウンド、2.9ブロックをマークし、トップセンターの仲間入りを果たす。

 ところがそのシーズンの最終盤、ダンクをした後にバランスを崩し、左足に全体重が乗った形で着地してしまい、その後左足脛骨の疲労骨折と診断される。回復は遅々として進まず、それから2シーズンを治療に費やし、大学に都合5年間在籍してようやく復帰を果たしたのだった。そんな足に爆弾を抱えた選手を、ブレイザーズは2位で指名する。スターンがブーイの名前を発表した瞬間、会場の観客から盛大なブーイングが沸き上がった。

 だが、周りがなんと言おうと、ブレイザーズ首脳陣にとってはこれがベストの選択だった。シューティングガードには前年のドラフトで獲得した新鋭ドレクスラーがおり、ドレクスラーの成長でスモールフォワードに回った2年連続オールスターのジム・パクソンもいた。

 何より、ブレイザーズはその7年前の1976−77シーズン、“史上最高の白人センター”と謳われたビル・ウォルトンを擁し、悲願の初優勝を遂げている。ビッグマンを中心に優勝を勝ち取った成功体験と、バックコートの選手層の厚さが、ジョーダンではなくブーイを獲得するという決断を力強く後押ししたのだった。
  バスケットボールというスポーツは、通常の人間なら手が届かない高さに設けられたリングにボールを入れて、得点を競う競技である。背が高い方が圧倒的に有利なのは自明の理だ。サイズのない選手にも重要な役割はあるとはいえ、ゲームを支配するのは往々にして背の高い選手。それゆえ、“ビックマンズ・ゲーム”などと言われたりもする。

 バスケットボールが考案された19世紀末から1980年代までは、その考えは今以上に強固だった。歴史を振り返っても、ピラミッドの頂点に立つのはジョージ・マイカン(元ミネアポリス/現ロサンゼルス・レイカーズ)やウィルト・チェンバレン(元フィラデルフィア/現ゴールデンステイト・ウォリアーズほか)、ビル・ラッセル(元ボストン・セルティックス)、カリーム・アブドゥル・ジャバー(元レイカーズほか)といった大男たち。

 事実、レギュラーシーズンMVPが制定された1956年から1987年までの32年間で、身長2m以下の選手がMVPを獲得したのは1957年のボブ・クージー(185cm)と、1964年のオスカー・ロバートソン(196cm)の2例のみ。MVPの大半は、センターでプレーするビッグマンの手に渡っている。強力なセンターを大黒柱に据えてチーム作りを行なうのが、それまでの定石だった。
 ■ブルズですらジョーダン指名は失敗と認め、地元紙で謝罪していた

 その常識を根底から覆したのが、ジョーダンの人間離れした得点能力と、トライアングル・オフェンスである。センターやパワーフォワードといったビッグマンは、オフェンスに関しては与えられた仕事をすればよい。彼らに代わって、シューティングガードのジョーダンが、試合を完全に支配する。攻撃の起点となり、相手守備陣を切り裂き、圧倒的なオフェンスの力で得点を重ねる。身長2mに満たないガードの選手でも、それまでの高く大きく屈強なセンターに代わって、王様になれることを身をもって証明したのだった。

 だが、時は1984年。ブレイザーズだけでなくすべてのチームにとって、バスケットボールというスポーツの主役はあくまでもビッグマン。いかにジョーダンが並外れた身体能力や得点力を秘めていようと、ガードの選手を中心に据えたチーム作りは、あり得ない選択だった。ジョーダンがリーグを支配し、長きに渡り王朝を築くことになるとは、想像すらできなかった。
  意外なことに、当のブルズですらドラフトでジョーダンを避け、ビッグマンの獲得を目論んでいたのだという。ゼネラルマネージャーのロッド・ソーンが、シカゴの地元ファンに向け、ジョーダン指名という不首尾な結果に対し遺憾の意を表明している。ドラフト翌日の『シカゴ・トリビューン』紙には、“ジョーダン獲得で行き詰まり、謝罪するブルズ”と題されたコラムが掲載されている。内容を要約するとこんな感じだ。

“厳しい選択だった。「獲得可能なセンターがいなかった。我々にほかに何ができたんだ?」とソーン。ブルズはジョーダンの指名を避けようと懸命にトライし、ビッグマンを手に入れようと努力を重ねたものの、トレードを引き受けてくれるチームはなかった“

 ノースカロライナ大の名将ディーン・スミスが、選手たちのプレーを完全にコントロールしていたことも、各チームのスカウティングの判断を鈍らせていた要因のひとつだった。厳格なスミスHCはボールのシェアを第一義とし、個人プレーを極端に嫌った。ジョーダンのカレッジ時代3年間の通算平均得点は17.7点。3年時ですら、チームのスコアリングリーダーでありながら平均19.6点である。

『ESPN』のドキュメンタリーで、元NBA選手のダーネル・バレンタイン(元ブレイザーズほか)は「もしスミスHCがグリーンライトを出していたら、ジョーダンは平均40点取っていただろう」と語っている。また、同時代にカレッジでプレーし、後にNBAでも活躍したジョニー・ドーキンス(元サンアントニオ・スパーズほか)は「当時、“ジョーダンを20点以内に抑えることができるのはディーン・スミスだけ”というジョークが流布していたよ」と述べている。
  そしてもうひとつ、ブーイの2位指名を後押しした、後味の悪い事実が後に判明した。ドラフトから30年近く経った2012年、ブーイの現役時代、特にドラフトにまつわる顛末を描いた『ESPN』のドキュメンタリー『Going Big』のなかで、本人が衝撃的とも言える告白を敢行したのだった。ドラフトに向けてブレイザーズの診断を受けた際、彼は2位指名を受けたいがために嘘をついたのだという。

「彼らは小さな木槌で俺の左足の脛骨を叩いたんだ。『何も感じない』と答えたが、実際は痛みを感じていた。ドラフトで上位指名されたいため、俺は嘘をついた。確かにそれは間違いだったかもしれない。だが、家族や恋人など愛する者がいて、彼らが経済的な援助を必要としていたら、誰もがそうするだろう。俺も同じようにしたまでだ」

 ブーイにとっては些細な嘘だったろうが、NBAの歴史を振り返れば“世紀の嘘”ということになる。もしその時ブーイが本当のことを言っていれば、ブレイザーズの指名選手が違っていた可能性は極めて高い。丸2年を治療に充て、完治したとされる故障箇所にその後も痛みを感じる、そんな状態の選手を2位で指名するなどというギャンブルは、そうそう打てるものではない。
  もしブーイを見送ったとしても、ビッグマンを欲していたブレイザーズは2位でジョーダンを指名しなかっただろう、そう語る当時のチーム関係者もいる。次なる候補はバークレーになる可能性が高かった、と。ただ、それはあくまでも仮定の話であり、ブーイが古傷に問題を抱えていたことが判明し、完全に候補から外れていたら、より慎重で深い議論や検討がなされていたはずで、実際どうなっていたかは誰にもわからない。

 兎にも角にも、ブレイザーズは2位でブーイを、ブルズは3位でジョーダンを指名した。そして、ブレイザーズの目論見は残念ながら大きく外れ、望まなかったにしろ、3位のブルズがドラフト史上最高の逸材を獲得したわけである。

 その結果は、ドラフト史やNBA史の範疇を超えて、スニーカーやファッション、スポーツシーンからカルチャー全体まで、アメリカのみならず世界中の隅々にまで影響を及ぼすことになる。1984年6月19日、歴史の転換点となる出来事が、ニューヨークのドラフト会場で起きたのだった。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2018年10月号より転載。

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