“信念の男”ビル・ラッセルが歩んだ差別との闘争の歴史【NBA秘話・前編】
2020年06月05日 11時30分THE DIGEST

イベントのプレゼンター役を務める際の好々爺然とした姿の印象が強いが、ラッセルは年老いた今も、差別に徹底抗戦する闘士である。(C)Getty Images
前人未踏のリーグ8連覇をはじめ、NBAの記録を調べていくと、ビル・ラッセルという名に必ず出くわす。レコードブックだけを見れば、彼の人生は華やかで栄光に包まれているかのようだ。だが、実際は違う。彼がNBA入りした1950年代は、黒人に対する偏見が当然だった時代。そういった差別と、ラッセルは徹底的に戦った。彼はアリーナの中だけでなく、その外でも“社会の不公平”に対して声をあげ、勇敢に戦ってきたのである。
■なぜ、ラッセルは44年間も殿堂入りを拒み続けたのか
2019年のNBAに関する様々な出来事の中で、個人的に一番びっくりしたのがビル・ラッセルの殿堂入りにまつわる話だ。11月16日、自身のツイッターに4枚の写真をアップし、〝HOF(ホール・オブ・フェイム)のリングを受け入れた〞と表明。
ラッセルといえば、現在存命中の元NBA選手の中で最も実績があり、最大級のリスペクトを受けている人物。それほどの超大物が、今までホール・オブ・フェイマーではなかったとは露ほども知らず、疑問に思い『The Naismith Memorial Basketball Hall of Fame』の公式サイトを見てみると、殿堂入りした年は1975年になっている。
調べてみたところ、ネイスミス・バスケットボール殿堂は1975年にラッセルへ殿堂入りを通知した際に固辞されたが、形としては正式に殿堂へ祭った。ところが、本人側は44年間了承しておらず、記念のリングを受け取らないことでボイコットの姿勢を崩していなかった、というのが事の顛末のようだ。
ではなぜここにきて、85歳のラッセルが突然リングを受け取り、気持ちの上で殿堂入りを受け入れたのか。その答えは、先のツイッターの最後に書いてある。〝1975年、私は黒人選手初の殿堂入りを拒んだ。その名誉を受けるべき人物が、私の前にいると感じたからだ。進展が見られて嬉しいよ:チャック・クーパーHOF19〞
チャック・クーパー――。よほどのNBA通でもなければ馴染みのない名前だろう。1950年のドラフト2巡目全体14位でセルティックスに指名された、史上初の黒人ドラフト指名選手だ。
この1950年は、NBAにとってエポックメイキングな年だった。NBA初となる黒人選手が同時に3人誕生したのである。史上初めてドラフト指名されたのがクーパー、最初に契約を結んだのがナット・クリフトン、初めて公式戦に出場したのがアール・ロイド。わずか1日の差だったが、先にコートに立ったロイドが、一般的には“NBA初の黒人選手”とされている。
そのロイドは2003年に、クリフトンは2014年に、そしてラッセルにとってセルティックスの先輩にあたるクーパーが、2019年9月、ついに殿堂入りを果たした。それを受けて、ラッセルは自身のボイコットを取り止めたのである。黒人としてNBAのカラーバリア(人種の壁)を破ったクーパーを差し置いて、自分が初の黒人殿堂入り選手になるわけにはいかなかった。実績からすれば誰も文句を言わなかっただろうが、彼の人生哲学がそれを許さなかったのだ。
ラッセルは現在、2009年から名称が変更されたNBAファイナルのMVP、〝ビル・ラッセル・ファイナルMVPアウォード〞のプレゼンターを務めており、毎年ファイナル最終戦直後の優勝セレモニーで姿を拝見することができる。白髪頭に白髭、笑顔がチャーミングで、やたら甲高い声で笑う背の高い好々爺。
数年前から足元と言葉の双方がおぼつかなくなっており、2019年の贈呈式では1人で歩くのも大変そうだった。もう歳も歳だし、余生をゆったりと過ごしているものと思っていたところに殿堂入り云々のニュースである。彼ほどの人物なら、思うところはあっても適当な時期にもらっておけば気も楽だったろうに、とも思ったが、それはあまりにも浅はかな考えだった。
今回いろいろと調べてみてわかったのだが、ラッセルという男は決して自分の信念を曲げない、気骨の男なのである。それも、常軌を逸するレベルで。この殿堂入りに関する小さなエピソードは、彼の生き様を象徴しているようなもの。あの見た目の好々爺ぶりからは想像もつかない、壮絶な人生をラッセルは歩んできた。いや、今でも向かい風の中を、彼は懸命に歩いている。
■バスケットの才能が開花する一方で、激しい差別にあった大学での日々
アメリカ最南部、ディープサウスのルイジアナ州ウエストモンローに、1934年という世界恐慌の真っ只中ラッセルは生まれた。当時南部では厳しい人種隔離政策が採られており、ルイジアナでは白人による黒人へのリンチも日常茶飯事だった。
ラッセルも両親が日々差別に苦しむ姿を見て育った。第2次世界大戦が始まると、地域の黒人の多くが仕事と自由を求めて、西海岸のカリフォルニア州オークランドに移住した。製紙工場に勤めていた父も、家族を引き連れオークランドへ行く決意をする。ラッセルが9歳の時だった。
だがそこに待ち構えていたのは、より厳しい貧困と、またもや差別の嵐だった。造船所に仕事を得た父だったが、終戦と同時に失業。一家はますます困窮していった。そんな矢先、母が病死。誰よりも仲の良かった母がいなくなったことで、ラッセルは人見知りで内向的な性格になっていき、図書館で1人時間を過ごすことが多くなった。
高校入学時に177㎝だった身長は、3年時に195㎝まで伸び、高校時代に眠ったままだったバスケットボールの才能が、大学でようやく開花する。サンフランシスコ大に進学したラッセルはNCAAトーナメントで2連覇を達成し、その間の勝敗は55連勝を含む57勝1敗。1955-56シーズンは、シーズンを通して無敗のまま優勝を果たした史上初めてのチームとなった。
一躍スターダムを駆け上がったラッセルだったが、それでも人種差別はつきまとい続けた。黒人の比率が高かったサンフランシスコ大は、それだけで嘲笑や蔑視の対象となり、試合前の練習時には観客が「グローブトロッターズ!(黒人主体の見世物的な要素が強いエキシビションチーム)」とチャントを始め、ゴールに向かって小銭を投げつけた。
1954年のクリスマストーナメントでオクラホマシティを訪れた時は、ダウンタウンのすべてのホテルが黒人選手の宿泊を拒否。やむなく選手全員で空いていた学生寮に泊まった。そういった数々の侮辱や人種差別が、人一倍センシティブなラッセルの心に深く突き刺さり、強い抵抗心や反骨心を育んでいったことは想像に難くない。
33歳の若きセルティックスHC、レッド・アワーバックは極めて先駆的な人間だった。NBAで初めて黒人選手をドラフト指名し(クーパー)、最初に黒人だけの先発ラインナップを組み、アメリカのプロスポーツ史上初となる黒人HCの起用に踏み切った(ラッセル)。1956年のNBAドラフト、セルティックスには下位の指名権しかなかったが、策士アワーバックは巧妙なトレードを企て、目玉選手だったラッセルの獲得に成功する。
ラッセルは大学時代に続き、NBAでも驚異的な活躍を披露した。史上最高のディフェンダーであり、ブロックを芸術の域まで高め、バスケットボールIQもひときわ高かった。5度のレギュラーシーズンMVPに、オールスター選出は12回を数える。
13シーズンのキャリアで、前人未到の8連覇を含む11度の優勝。ラスト2度の優勝は、HCを兼任してのものだった。ラッセルに率いられた1950年代後半から60年代のセルティックスは、アメリカのプロスポーツ史上最も偉大なチームと称されている。勝利という観点から見れば、彼以上に成功を収めたNBA選手はこの世に存在しない。(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2020年2月号掲載原稿に加筆・修正。
■なぜ、ラッセルは44年間も殿堂入りを拒み続けたのか
2019年のNBAに関する様々な出来事の中で、個人的に一番びっくりしたのがビル・ラッセルの殿堂入りにまつわる話だ。11月16日、自身のツイッターに4枚の写真をアップし、〝HOF(ホール・オブ・フェイム)のリングを受け入れた〞と表明。
ラッセルといえば、現在存命中の元NBA選手の中で最も実績があり、最大級のリスペクトを受けている人物。それほどの超大物が、今までホール・オブ・フェイマーではなかったとは露ほども知らず、疑問に思い『The Naismith Memorial Basketball Hall of Fame』の公式サイトを見てみると、殿堂入りした年は1975年になっている。
調べてみたところ、ネイスミス・バスケットボール殿堂は1975年にラッセルへ殿堂入りを通知した際に固辞されたが、形としては正式に殿堂へ祭った。ところが、本人側は44年間了承しておらず、記念のリングを受け取らないことでボイコットの姿勢を崩していなかった、というのが事の顛末のようだ。
ではなぜここにきて、85歳のラッセルが突然リングを受け取り、気持ちの上で殿堂入りを受け入れたのか。その答えは、先のツイッターの最後に書いてある。〝1975年、私は黒人選手初の殿堂入りを拒んだ。その名誉を受けるべき人物が、私の前にいると感じたからだ。進展が見られて嬉しいよ:チャック・クーパーHOF19〞
チャック・クーパー――。よほどのNBA通でもなければ馴染みのない名前だろう。1950年のドラフト2巡目全体14位でセルティックスに指名された、史上初の黒人ドラフト指名選手だ。
この1950年は、NBAにとってエポックメイキングな年だった。NBA初となる黒人選手が同時に3人誕生したのである。史上初めてドラフト指名されたのがクーパー、最初に契約を結んだのがナット・クリフトン、初めて公式戦に出場したのがアール・ロイド。わずか1日の差だったが、先にコートに立ったロイドが、一般的には“NBA初の黒人選手”とされている。
そのロイドは2003年に、クリフトンは2014年に、そしてラッセルにとってセルティックスの先輩にあたるクーパーが、2019年9月、ついに殿堂入りを果たした。それを受けて、ラッセルは自身のボイコットを取り止めたのである。黒人としてNBAのカラーバリア(人種の壁)を破ったクーパーを差し置いて、自分が初の黒人殿堂入り選手になるわけにはいかなかった。実績からすれば誰も文句を言わなかっただろうが、彼の人生哲学がそれを許さなかったのだ。
ラッセルは現在、2009年から名称が変更されたNBAファイナルのMVP、〝ビル・ラッセル・ファイナルMVPアウォード〞のプレゼンターを務めており、毎年ファイナル最終戦直後の優勝セレモニーで姿を拝見することができる。白髪頭に白髭、笑顔がチャーミングで、やたら甲高い声で笑う背の高い好々爺。
数年前から足元と言葉の双方がおぼつかなくなっており、2019年の贈呈式では1人で歩くのも大変そうだった。もう歳も歳だし、余生をゆったりと過ごしているものと思っていたところに殿堂入り云々のニュースである。彼ほどの人物なら、思うところはあっても適当な時期にもらっておけば気も楽だったろうに、とも思ったが、それはあまりにも浅はかな考えだった。
今回いろいろと調べてみてわかったのだが、ラッセルという男は決して自分の信念を曲げない、気骨の男なのである。それも、常軌を逸するレベルで。この殿堂入りに関する小さなエピソードは、彼の生き様を象徴しているようなもの。あの見た目の好々爺ぶりからは想像もつかない、壮絶な人生をラッセルは歩んできた。いや、今でも向かい風の中を、彼は懸命に歩いている。
■バスケットの才能が開花する一方で、激しい差別にあった大学での日々
アメリカ最南部、ディープサウスのルイジアナ州ウエストモンローに、1934年という世界恐慌の真っ只中ラッセルは生まれた。当時南部では厳しい人種隔離政策が採られており、ルイジアナでは白人による黒人へのリンチも日常茶飯事だった。
ラッセルも両親が日々差別に苦しむ姿を見て育った。第2次世界大戦が始まると、地域の黒人の多くが仕事と自由を求めて、西海岸のカリフォルニア州オークランドに移住した。製紙工場に勤めていた父も、家族を引き連れオークランドへ行く決意をする。ラッセルが9歳の時だった。
だがそこに待ち構えていたのは、より厳しい貧困と、またもや差別の嵐だった。造船所に仕事を得た父だったが、終戦と同時に失業。一家はますます困窮していった。そんな矢先、母が病死。誰よりも仲の良かった母がいなくなったことで、ラッセルは人見知りで内向的な性格になっていき、図書館で1人時間を過ごすことが多くなった。
高校入学時に177㎝だった身長は、3年時に195㎝まで伸び、高校時代に眠ったままだったバスケットボールの才能が、大学でようやく開花する。サンフランシスコ大に進学したラッセルはNCAAトーナメントで2連覇を達成し、その間の勝敗は55連勝を含む57勝1敗。1955-56シーズンは、シーズンを通して無敗のまま優勝を果たした史上初めてのチームとなった。
一躍スターダムを駆け上がったラッセルだったが、それでも人種差別はつきまとい続けた。黒人の比率が高かったサンフランシスコ大は、それだけで嘲笑や蔑視の対象となり、試合前の練習時には観客が「グローブトロッターズ!(黒人主体の見世物的な要素が強いエキシビションチーム)」とチャントを始め、ゴールに向かって小銭を投げつけた。
1954年のクリスマストーナメントでオクラホマシティを訪れた時は、ダウンタウンのすべてのホテルが黒人選手の宿泊を拒否。やむなく選手全員で空いていた学生寮に泊まった。そういった数々の侮辱や人種差別が、人一倍センシティブなラッセルの心に深く突き刺さり、強い抵抗心や反骨心を育んでいったことは想像に難くない。
33歳の若きセルティックスHC、レッド・アワーバックは極めて先駆的な人間だった。NBAで初めて黒人選手をドラフト指名し(クーパー)、最初に黒人だけの先発ラインナップを組み、アメリカのプロスポーツ史上初となる黒人HCの起用に踏み切った(ラッセル)。1956年のNBAドラフト、セルティックスには下位の指名権しかなかったが、策士アワーバックは巧妙なトレードを企て、目玉選手だったラッセルの獲得に成功する。
ラッセルは大学時代に続き、NBAでも驚異的な活躍を披露した。史上最高のディフェンダーであり、ブロックを芸術の域まで高め、バスケットボールIQもひときわ高かった。5度のレギュラーシーズンMVPに、オールスター選出は12回を数える。
13シーズンのキャリアで、前人未到の8連覇を含む11度の優勝。ラスト2度の優勝は、HCを兼任してのものだった。ラッセルに率いられた1950年代後半から60年代のセルティックスは、アメリカのプロスポーツ史上最も偉大なチームと称されている。勝利という観点から見れば、彼以上に成功を収めたNBA選手はこの世に存在しない。(後編に続く)
文●大井成義
※『ダンクシュート』2020年2月号掲載原稿に加筆・修正。
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