「社会の不公平に断固たる態度を取ることを誇りに思う」引退後も闘い続ける真の戦士ビル・ラッセル【NBA秘話・後編】

「社会の不公平に断固たる態度を取ることを誇りに思う」引退後も闘い続ける真の戦士ビル・ラッセル【NBA秘話・後編】

チェンバレン(右)は宿敵であると同時に親友でもあった。しかし、69年のファイナル最終戦後の暴言が原因で仲違い。以後20年間も口を利かなかったという。(C)Getty Images

■白人の街?に馴染めぬ巨人はファンへのサインすらも拒否

 ラッセルがプロ入りした1950年代後半から、アメリカでは公民権運動が急速に広がりを見せていた。黒人の人権問題といえば、アスリートではモハメド・アリの印象が強いが、最初に声を上げて立ち上がったのはラッセルだった。

 1961年、セルティックスがエキシビションゲームのためケンタッキー州レキシントンを訪れた際、チームメイトのKC・ジョーンズがホテル内のレストランでサービスを断られた。それを聞いて憤怒したラッセルはすぐさま空港に電話し、黒人のチームメイト5人分の航空券を手配、アワーバックに試合には出場しない旨を伝えてボイコット。全米を巻き込んでの論争へと発展した。

 1963年、マーティン・ルーサー・キングJr.がリンカーンの奴隷解放宣言100年を記念して開催したワシントン大行進にも、ラッセルは参加している。集会場ではステージに上がるよう勧められたが、敬意を表して辞退。あの有名なI Have a Dream?のスピーチは、最前列で聞いたそうだ。

 1967年にアリが徴兵をボイコットした際の記者会見で、アリの隣に座っていたのはラッセルだった。写真にはカリーム・アブドゥル・ジャバーの姿も見える。メジャーリーグで初めてカラーバリアを破った英雄ジャッキー・ロビンソンの葬儀で、出棺時に先頭で棺を持っていたのもラッセルだ。当時、彼は次のように記している。
 アメリカのニグロ(黒色人種)が自分の歴史を作ることができるのは、4世紀ぶりのこと。これ(公民権運動)に参加することは、起こり得る最も重要なことのひとつだ?

 そんなラッセルの極端とも取れる主義主張や大胆な行動を、快く思わない白人のセルティックスファンも少なくはなく、むしろアンチ・ホワイト(反白人)?と受け止め、なかには敵意を剥き出しにする人もいた。元々ボストンは白人の街である。いくら連覇しても、先発全員が黒人のチームでは、観客数は半分程度の8000人。全員が白人のアイスホッケーは常に満席だった。

 また、ラッセルは真面目すぎるぶん、社交性に欠け、さらには閉鎖的で気難しい側面も持っていた。「ボストンのファンには偏狭さがはびこっている」と公言したこともあり、ファンとの間に貸し借りはない?との考えから、生涯に渡ってサインを拒んだ。挙句の果てには、「私は子どもたちに微笑むことも、優しくすることも拒否する」と宣言し、怒り心頭に発したファンはラッセルを「自己中心的で偏執病的、偽善的だ」と非難した。
  憎しみは増幅していき、何者かがラッセルの留守宅に侵入し、壁にスプレーで差別用語を落書きしたうえ、トロフィーを破壊し、ベッドの上に排泄物を撒き散らすという事件が起きてしまう。脅迫の手紙が届くこともしばしばだった。それらを受けてラッセルは、ボストンをレイシズムの蚤の市?と表現。チームメイトのトム・ハインソーンは、「彼はボストンに敵意を持っていた」とも語っている。メディアとも対立を深め、最も利己的かつぶっきらぼうで非協力的なアスリート?と酷評されたこともあった。

 現役最後となる1968−69シーズン、満身創痍ながらチームを優勝に導いたが、祝賀パレードにラッセルの姿はなく、そのまま引退を表明し姿を消した。それなのに、自身の引退ストーリーを『スポーツイラストレイテッド』誌に1万ドルで売るという行動に出る。それは、セルティックスファンの気持ちを踏みにじる行為だった。

 現役引退から3年後の1972年3月12日、日曜日のその日はボストン・ガーデンで午後に試合が予定されていた。試合前のまだ観客がいない時間に、アワーバックとラッセル、昔のチームメイト、合わせて十人程度がコートに集まり、ラッセルの背番号6のバナーが天井に吊るされた。アワーバックは試合のハーフタイムでの開催を勧めたが、その簡素な永久欠番セレモニーが、ラッセルの望んだやり方だった。

 その後長い間、ラッセルがボストンの街に姿を見せることはなかった。
 ■ようやく平穏な日々が訪れるも、差別に対する戦いはいまだに続く

 ウィルト・チェンバレンは現役時代のラッセルにとって最大のライバルであり、親しい友人でもあった。感謝祭にはチェンバレンがラッセルを自宅に招くなど、お互いの家を行き来するほどの仲だった。ところが1969年のNBAファイナル第7戦で、ヒザにケガを負ったチェンバレンが試合残り6分にコートを退くと、試合後ラッセルはレポーターに「仮病だ」、「敗戦の責任逃れだ」と批判的なコメントをぶつけた。

 その話を耳にしたチェンバレンは激怒。ラッセルを裏切り者?とみなすようになる。実際、チェンバレンのケガは深刻で、翌シーズンにまで影響を及ぼすほどだった。それから20年間、2人は一切口を利かなかったという。それでも、時はすべてを洗い流してくれる。ラッセルがチェンバレンに謝罪し2人は和解。

 そして1999年5月6日、フリート・センター(現TDガーデン)で、ラッセルの永久欠番再?セレモニーが、満員のセルティックスファンが見守るなか執り行なわれた。セレモニーには仲直りをしたチェンバレンをはじめ、ボブ・クージー、ジョン・ハブリチェック、ラリー・バード、ジャバー、ジュリアス・アービング、オスカー・ロバートソンなど、レジェンド中のレジェンドが一同に集結。イベントの前にはチェンバレンと、あのファイナル第7戦から30年ぶりとなる1on1をプレーしたそうだ。
  アリーナに集まったセルティックスファンに向かって、ラッセルは語った。
「私はひどく、ひどく恥ずかしい」。
「私がチームとやったことは、私がすべきだと思ったことであり、私が送ってきた人生は、私が送るべきだと思った人生だった」。

 そこにいたすべての観客が立ち上がり、心を込めて送る拍手と喝采は、いつまでも鳴り止むことがなかった。その時ラッセルの目には涙が溢れていた。
  2010年、ラッセルはオバマ大統領よりプレジデント・メダル・オブ・フリーダム(大統領自由勲章)を授与される。アメリカの勲章の中で、文民に贈られる最高位の勲章だ。オバマ大統領はスピーチの中で、ラッセルを「すべての人のために、権利と尊厳を求めて立ち上がった男」と褒め称えている。

 その勲章を首から下げているラッセルの写真に、リサーチの過程でたまたま出くわしたのだが、その強烈なインパクトに度肝を抜かれた。ラッセルが床に片手と片ヒザを付き、カメラを鋭い目で凝視しているのである。一瞬コラージュかと思ったが、出典はラッセル本人のツイッター公式アカウント。

 これは2017年9月のツイートで、一部のNFL選手が人種問題への抗議として、試合前の国歌斉唱中に片膝を付くというコリン・キャパニックが始めた行為を継続していることへの後押しと、それを批判するトランプ大統領への抗議の声明だ。ラッセルはつぶやく。

ヒザを付いて、社会の不公平に断固たる態度を取ることを誇りに思う? 

 気骨の男、そして信念の男。ビル・ラッセルは今日もどこかで戦っている。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2020年2月号掲載原稿に加筆・修正。

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