「NBAで活躍することがすべてではない」欧州最高のシューター、“ラ・ボンバ”が1年でNBAを去った理由

「NBAで活躍することがすべてではない」欧州最高のシューター、“ラ・ボンバ”が1年でNBAを去った理由

バルセロナで数々のタイトルを獲得し、スペイン代表でも黄金期を築いたナバーロ。しかしNBAでプレーしたのはわずか1シーズンのみだった。(C)Getty Images

世界一の競技人口を誇るバスケットボール。その最高峰リーグであるNBAには世界中から優れたプレーヤーが集結し、特に2000年代以降は外国籍選手の数も飛躍的に増加した。しかし、その中には己の実力を発揮しきれず、数年でアメリカを後にしたプレーヤーも少なくない。NBAに挑み、再び欧州の舞台へ舞い戻った挑戦者たちを、シリーズで紹介しよう。

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 欧州のバスケットボールファンに「今世紀最高のヨーロッパ人選手は?」と尋ねたら、多くの人が彼の名を挙げるのではないだろうか。スペインが生んだ“ラ・ボンバ”こと、フアン・カルロス・ナバーロ。日本で開催された2006年の世界選手権(現W杯)で優勝したスペイン代表での彼の勇姿を覚えている人も多いかもしれない。

 2018年8月に現役を引退したナバーロは、欧州最高のシューターとして鳴らした。昨年11月にオリンピアコスのヴァシリス・スパノーリスに更新されるまで、通算4152得点はユーロリーグのオールタイムレコード。いっさいネットを揺らすことなくゴールを射抜く美しいそのシュートは、ファンを幾度となく興奮へと誘ってきた。
  NBAのメンフィス・グリズリーズに所属した2007−08シーズンを除き、キャリアのすべてを故郷のバルセロナに捧げたナバーロ。国内リーグ優勝8回、ユーロリーグ制覇2回など、クラブ全盛期の立役者となった。スペイン代表でも、ガソル兄弟やホセ・カルデロンらと黄金時代を築き上げ、2006年の世界選手権優勝のほか、五輪では2008年北京と12年ロンドンで銀メダル、16年のリオ大会で銅メダルに貢献。ユーロバスケットでも金・銀・銅を各2回ずつ、計6つのメダルを獲得。ユーロリーグ年間MVP(2009年)やファイナルMVP(2010年)など、数々の個人賞を受賞した21年間のキャリアは栄光に満ちたものであった。

 そのナバーロがNBAドラフトで指名を受けたのは、すでにバルセロナで主力に定着していた2002年。当時22歳だった彼は、ワシントン・ウィザーズから全体40位でその名を呼ばれた。

 親友のパウ・ガソルはその前年にアトランタ・ホークスから全体3位で指名されており、トレードでメンフィス行きが決まった時にはナバーロにもしきりにNBA行きを勧めたという。しかしナバーロは「家族も周りにいない、気候も食事もすべてが大好きなスペインを離れてまでNBAに行く気にはなれない」と当時は感じていた。
  それでもその後、カルデロンやホルヘ・ガルバホサら同世代のスペイン代表の仲間たちも次々とアメリカに旅立つと、ナバーロの気持ちも次第にNBAに傾き、バルセロナとのバイアウト交渉を始めた。

 2007年夏、NBA行きが決まった後のユーロバスケットの期間中、ナバーロに直接尋ねてみた。02年のドラフト直後にNBAに行かなかったのは、バルセロナとの契約がネックだったのか、それとも気持ちの問題だったのか。「それぞれの理由が少しずつ全部、という感じだった。契約のことも、行く気がなかったことも」とナバーロは答えた。

「バルセロナとは良い関係だったから、契約が足かせだったというわけでは決してない。また自分としても、選手として成熟しているとはその時は思えなかった。それに、もしNBAに行くとしたら、ドラフトでの順位がもっと上だったら良かったとも思っていた。ようやく行くことに決めたのは、自分の中で確信が持てるようになったからだ」

 ドラフトから実際に海を渡るまでの5年間、ガソルは「早く来い!来なきゃダメだ!」としきりにナバーロのお尻を叩いていたそうだが、結果的に07年にウィザーズが交渉権をグリズリーズに譲渡したことで、ナバーロはガソルのチームメイトとしてNBAに見参することになった。
  27歳の“ルーキー”は同じシューターであるマイク・ミラーの2番手という位置付けながら、レギュラーシーズン全82試合に出場。開幕直後の11月には4試合でチームハイの得点をあげるなど、期待通りのシュート力を発揮し、30試合で先発も任された。ニューオリンズで行なわれたオールスターではルーキーチャレンジにも出場。最終的に平均25.8分の出場でチーム4位の10.9点、3ポイント成功数(156本)、フリースロー成功率(84.9%)ではチームハイを記録し、オールルーキー2ndチームにも選出されている。グリズリーズは22勝60敗でカンファレンス13位と勝利とは縁遠かったが、ナバーロのパフォーマンスは今後を期待させるに十分だった。

 しかし彼は1年の契約をまっとうすると、翌シーズンに古巣バルセロナへ帰還。その一番の理由は、「バルセロナで常勝に慣れていた自分にとって、敗戦続きは精神的に厳しかった」というものだった。
  バルセロナで絶対的なエースだったナバーロは、“自分が試合を決める”という責任を負ってプレーする使命感に飢えていた。また、妻と幼い子ども2人が、友達や家族のいないメンフィスでの暮らしに慣れなかったのも要因のひとつ。頼みのガソルも2月にレイカーズに引き抜かれ、ロサンゼルスに去ってしまっていた。

 そんな時、ヒーローの帰還を熱望するバルセロナから、破格のオファーが届いたのだった。ナバーロの気持ちに迷いはなかった。

 翌シーズンから、ナバーロのプレーはスピード、パスワークなどあらゆる点において一層冴えわたった。のちに彼自身も「29〜32歳くらいが自分のキャリアのピークだった」と語っているが、その理由を「アメリカでは試合数が多く、実戦で鍛えられたのと、フィジカルの強い相手とマッチアップしてタフになれたから」と分析している。

 いったんエンジンがかかると、嵐のように炸裂する3ポイント。ラ・ボンバに火がつくとチーム全体のエナジーレベルも高騰し、会場も沸き立った。NBA最高のシューター、ステフィン・カリーもナバーロの大ファンであると公言し、片足に重心をかけて放つ彼独特のフォームを練習したと語っている。

 しかし本人は、「実はシューティングよりも、ゲームの流れを読んだりすることのほうが好き」だという。アスリートの中には「天才肌」だと言われることを嫌う選手が多いが、努力だけでは手に入れられない「天賦の才」というものがあるとすれば、ナバーロには間違いなくそれがあった。
  2020年6月13日、ナバーロは40歳の誕生日を迎えた。プロアスリートにしては珍しく、彼はSNSをやっていないので近況などはあまり世に知られていないが、現在は強化スタッフの一員として古巣バルセロナの発展に尽力している。

「プロチームではなく、若い世代の育成に携わりたい」というのが彼の願いだ。「成長していく過程が見たいんだ。それからもうひとつ。最近の選手はトップチームに昇格したらすぐにNBAに目がいきがちだが、その風潮を変えたい。バルセロナは本当にいいクラブなんだ。だからここで、じっくり取り組むことの良さも教えたい」

 ちなみにナバーロは、スペイン代表時代の一番の思い出に、2006年の世界選手権を挙げている。「あの大会で、人々から敬意のこもった声援を受けた時、自分のパワーがぶわーっと高いところに昇華した」のだと、日本での記憶を語ってくれた。

 来年、無事に東京五輪が開催された時、会場のさいたまスーパーアリーナにはその感触を再び味わいに来た彼の姿があるかもしれない。

文●小川由紀子

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