ユーイング、ムトンボらを輩出した“ビッグマンのジョージタウン”。そのなかで1人異彩を放つアイバーソン【名門カレッジ史】

ユーイング、ムトンボらを輩出した“ビッグマンのジョージタウン”。そのなかで1人異彩を放つアイバーソン【名門カレッジ史】

ユーイング(左上)、ムトンボ(左下)ら優秀なセンターを多く輩出。しかし唯一NBAでMVPに輝いたのはアイバーソン(右)だった。(C)Getty Images

首都ワシントンDCにキャンパスを置くジョージタウン大は、ビル・クリントン元大統領、ドナルド・ラムズフェルド元国防長官ら、多くの政治家や外務官を送り出している名門校だ。さらにスポーツではバスケットボールの強豪校で、とりわけ優秀なセンターが多いことでも知られている。

 とはいえ、同大バスケットボール部のホヤズ――ギリシャ語のwhatに当たり、試合中のかけ声に使われたのがきっかけでニックネームとして定着した――が注目されるようになったのは、ここ40年余りのこと。NCAAトーナメント(以下トーナメント)では、戦時中の1943年に準優勝して以来30年以上も出場権を逃し、もうひとつの全米大会であるNIT選手権にもほとんど顔を出すことはなかった。
  そのため、NBAでも創成期に数名を輩出しただけで、確固たる実績を残した者は皆無。そうした状況を変えたのが、1972−73シーズンからヘッドコーチ(HC)に就任したジョン・トンプソンJr.だった。

 NBAでもボストン・セルティックスで2年間プレーした経験を持つセンターは、自らと同タイプのビッグマン育成に手腕を振るい、センターを軸にしたディフェンス中心のチームを作り上げていく。1975年にはカレッジキャリアで平均10.7本を奪ったホヤズ史上最高のリバウンダー、マーリン・ウィルソンの活躍で32年ぶりのトーナメント出場。1980年にはジョン・デューレンが初めてドラフト1巡目(19位/ユタ・ジャズ)で指名されている。

 もっとも、トンプソンの門下生で最初にNBAでスターになったのは、ガードの“スリーピー”ことエリック・フロイドだった。攻撃型のポイントガード(PG)として正確なミドルシュートで得点を稼ぎ、1982年に同大初のオールアメリカン1stチームに選出。通算2304得点は今も学校記録として残っており、NBAでもゴールデンステイト・ウォリアーズなどでスターターを務め、1987年のプレーオフでは1クォーター29得点のリーグ記録を樹立している。
  1981年にはジョージタウン大史上最高の選手、パトリック・ユーイングが入学。高校生の段階で五輪代表候補に選ばれ、ビル・ラッセル(元セルティックス)二世と呼ばれていたジャマイカ出身のビッグマンは、1年生にしてホヤズをランキング1位に導き、トーナメントでも39年ぶりの決勝進出に大きく貢献。ノースカロライナ大と対戦した頂上決戦でも23得点、11リバウンドと奮闘したが、同じ1年生のマイケル・ジョーダン(元シカゴ・ブルズほか)に決勝弾を決められ惜敗した。

 1983年のトーナメントでは2回戦負けの不覚を喫したが、翌年には再び決勝に進出。ダンバー高校出身のフォワードコンビ、デイビッド・ウィンゲート(元フィラデルフィア・セブンティシクサーズほか)とレジー・ウィリアムズ(元デンバー・ナゲッツほか)が計35得点をあげる活躍で、アキ―ム・オラジュワン(元ヒューストン・ロケッツほか)を擁するヒューストン大を退けた。

 これが現時点で、ジョージタウン大唯一の全国制覇である。ユーイングの最終学年となった1985年も開幕から18連勝を記録するなど、2連覇は濃厚と見られていたものの、決勝で同じビッグイースト・カンファレンスのビラノバ大のローテンポな展開にリズムを崩され、2点差で敗戦。惜しくも連覇には届かなかった。
  ユーイングは同年のドラフトでニューヨーク・ニックスから1位指名を受け、前評判通りの活躍を見せ新人王を受賞。ジョーダンやオラジュワン、デイビッド・ロビンソン(元サンアントニオ・スパーズ)と同世代だったこともあり、個人タイトルや優勝には縁がなかったが、オールスターには11回も出場している。1992年にはバルセロナ五輪の初代ドリームチームにも参加し、ジョージタウン大在学中の1984年ロサンゼルス五輪に続いてふたつ目の金メダルを獲得した。

 ユーイングの後継者として1987年に入学してきたのが、ザイール(現コンゴ民主共和国)出身、身長218cmの巨人ディケンベ・ムトンボ(元アトランタ・ホークスほか)だった。1年目は学業を優先するため試合に出場できなかったが、翌1988年からは新入生のアロンゾ・モーニング(元マイアミ・ヒートほか)とともに、強力無比のツインタワーを形成。彼らがブロックしたボールが飛んでくる観客席のセクションは、“リジェクション・ロー”と呼ばれた。
  1991年にムトンボは年間389リバウンドの学校記録を樹立。しかし結局2人の在学中は、1989年のエリート8(準々決勝)がトーナメントの最高成績だった。

 NBA入り後はムトンボが史上最多の4度、モーニングも2度の最優秀守備選手賞を獲得。通算ブロックでもムトンボが3289本で歴代2位、モーニングは2356本で同11位にランクしており、現在はユーイングと3人揃ってバスケットボール殿堂入りを果たしている。

 その後も“ビッグマンのジョージタウン”の伝説は引き継がれ、近年でもロイ・ヒバート(元インディアナ・ペイサーズほか)、グレッグ・モンロー(元デトロイト・ピストンズほか)らが活躍。しかしジョージタウン大出身者で唯一、NBAでシーズンMVPに輝いたのは、身長183cmの小柄なガードだった。
  その男の名はアレン・アイバーソン。高校時代にはバスケットボールとフットボールで全国的に名を知られていたスーパースターだったものの、1993年に傷害事件への関与を疑われ、懲役15年を求刑された(のちに取り下げられた)ほどの問題児でもあった。

 トンプソンは素行の良くない選手を敬遠する傾向にあったが、アイバーソンの母親から懇願され奨学金をオファー。だが最初の練習試合で「今すぐ永久欠番にしてもいいくらい。NBAの大半の現役PGよりも優れた選手」(『ワシントン・タイムズ』紙)と絶賛されたほどのプレーを披露し、在学2年間で平均23.0点をマークした。

 ユーイングに次ぎ、1996年に学校史上2人目の1位指名を受けシクサーズに入団。得点王に4度輝いたスコアリング能力に加え、体格のハンディをものともしない強気なプレースタイルで、リーグ随一の人気者となった。

 キャリア平均26.7点、6.2アシストはともにジョージタウン大出身者では1位。2000−01シーズンにMVPを受賞し、2016年にバスケットボール殿堂へ迎えられた。

 1998−99シーズンを最後にトンプソンはコーチ業から退き、5年後の2004年に息子のジョン・トンプソン三世がHCに就任。2007年にはヒバート、ジェフ・グリーン(現ヒューストン・ロケッツ)らの活躍で22年ぶりにファイナル4へ勝ち進んだ。

 ただ、同年を最後にビッグイースト・カンファレンスのトーナメントでも頂点から遠ざかっており、トーナメント出場も15年が最後。ファンは名門復活を心待ちにしている。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2016年3月号掲載原稿に加筆・修正。

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