ラトレル・スプリーウェル、“破壊的な性格“が露わになった1994年の事件【NBAレジェンド列伝・前編】

ラトレル・スプリーウェル、“破壊的な性格“が露わになった1994年の事件【NBAレジェンド列伝・前編】

バスケと出会ってわずか5年でNBAまで上り詰めたスプリーウェル。しかしその内には“破壊的な性格”を秘めていた。(C)Getty Images

■本格的にバスケを始めてわずか1年で才能が開花

 スター選手とヘッドコーチ(HC)の関係は、時として極めて微妙なものになる。古くはクリス・ウェバーとドン・ネルソンの確執が問題となったし、さらに時を遡れば、マジック・ジョンソン(元ロサンゼルス・レイカーズ)もポール・ウエストヘッド(元レイカーズHCほか)をチームから追い出し“コーチ・キラー”の悪名を着せられた。

 しかし、ラトレル・スプリーウェルほどその名にふさわしい者はいないだろう。何しろ彼は、ゴールデンステイト・ウォリアーズ時代にPJ・カーリシモHCの首を本当に絞め上げ、2度とプレーの叶わない身になるかもしれなかった危機に直面していたのだ。

 スプリーウェルの破壊的な性格は、幼少時の環境にも原因があったのだろう。父親は3人の子どもに対し日常的に虐待を加え、彼が6歳の時に離婚が成立した後は母親の実家で育てられた。

 本格的にバスケットボールを始めたのは、NBAに進むような選手としては極めて遅く、高校の最終学年。「ピックアップ・ゲームを楽しむことはあっても、真剣に打ち込んだことはそれまでなかった」のが、背の高さと手の大きさを見込まれて組織的なプレーを学ぶと、見る見るうちに実力をつけ、平均30点近くを叩き出すようになった。

 有力大学からの奨学金の申し出はほとんどなかったが、短大に進学して2年を過ごしたのち、アラバマ大に転校。4年時には平均17.8点、1.80スティールを記録し、サウスイースタン・カンファレンスを代表する選手に成長した。
 ■プロ入り2年目で早くもリーグのベスト5に選出

 1992年のドラフトではウォリアーズが24位で指名。開幕戦から先発シューティングガードとして起用され、シーズン平均15.4点、オールスター以降に限れば18.9点と素晴らしい数字を残し、オールルーキー2ndチームに選出された。

 オフェンスでは抜群の瞬発力で見事なダンクを見舞い、守備でも腕の長さを生かしてスティールを連発。だが、最も優れていたのは無尽蔵とも思えるスタミナだった。1年目からチーム最多の総出場時間(2741分)を記録し、2年目には82試合にフル出場、うち17試合は48分間出ずっぱり。平均43.1分のプレータイムはリーグ1位で「あいつは疲れというものを知らん。試合開始直後でも、40分後でも同じようにエネルギッシュなんだ」とネルソンHCも脱帽した。
  同シーズンは平均21.0点、4.7アシスト、2.20スティールをマークし、オールスターに初出場しただけでなく、オールディフェンシブ2ndチーム、そしてオールNBA1stチームにも選出。プロ入り当初は正確に名前を読まれることすら稀だったスプリーウェルの躍進は、まさしくシンデレラ・ストーリーだった。

 ところが、ウォリアーズはその年のオフにウェバーとビリー・オーウェンスをトレードする。チームで最も仲の良かった2人が放出されたことで、スプリーウェルは首脳陣に対して不信感を募らせ、シューズに2人の背番号を書き入れて抗議の意を鮮明にした。
  ネルソンHCに目をかけられているティム・ハーダウェイとの軋轢も深まり「あのゴマすり野郎とは一緒にプレーできない」と発言。「私は彼を友人だと見なしているのだがね。彼の方はどうもそうは思っていないようだ」とネルソンは溜め息交じりにそう話すと、試合中もふて腐れた態度でファンの反感を買い、ついにはチームから出場停止処分を下されてしまった。

 スプリーウェルがどこかおかしいことに周囲が気づき始めたのは、1994年10月に起こったある事件がきっかけだった。彼の飼っていたブルドッグが4歳の娘に襲いかかり、耳の一部を噛みちぎったのだが、それに対する彼の反応は「まあ、こんなこともあるさ」。親としての愛情、人間らしい感情が明らかに欠けているようで、その翌年には免停中にスピード違反で捕まったあげく、彼を逮捕したアジア系の警察官に人種差別的な言葉を吐くなど、問題行動は悪化の一途を辿っていった。(後編に続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2012年2月号掲載原稿に加筆・修正。

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