ジャバーの人生を変えたマジックとの出会い。当初は疎ましく思っていたが…【NBAレジェンド列伝・後編】

ジャバーの人生を変えたマジックとの出会い。当初は疎ましく思っていたが…【NBAレジェンド列伝・後編】

マジック(左)のレイカーズ入団が、ジャバー(右)の大きな転機になった。(C)Getty Images

NBAトップクラスの実力を持ちながら、チームで浮いた存在となっていたジャバーだが、79年にマジック・ジョンソンがレイカーズに入団して以降、彼の人生は変わり始める。当初、ジャバーはマジックを疎ましく思っていた。陽気で社交好き、常に笑顔を絶やさないマジックは、自分とは正反対の性格だったからだ。79−80シーズンの初勝利を自身のシュートで決めた時も、喜んで抱きついてきたマジックを「あと81試合もあるんだぞ」とたしなめた。

 マスコミは両者の不仲説を書きたて、実際に2人の間に会話はほとんどなかった。だが、決して仲が悪かったわけではないとジャバーは言う。「ジェネレーション・ギャップはあったし、個人的な関心も異なっていたが、私たちの間には何も問題はなかった。お互いプロフェッショナルだったし、嫉妬することもなかった」。
  何より戦力として、優秀なパサーであるマジックの加入は極めて大きかった。レイカーズ移籍後のジャバーは、個人成績がチームの成功に結びつかず、優勝はおろかファイナルにすら一度も進めなかった。「アービン(マジック)が入る前もいいチームだったが、完璧ではなかった。アービンの加入で、パズルの最後のピースが埋まったんだ」。ロバートソン以来初めて、信頼に足る相棒を得たジャバーは、この年最多記録となる6度目のMVPを受賞する。

 不運にも、ファイナルでは足首の捻挫で第6戦を欠場し、優勝の歓喜の輪の中に入れなかった。ファイナルMVPは最終戦で大活躍したマジックが選ばれ、新時代の到来を予感させた。

 ただ、2年目以降のマジックは順風満帆とはいかず、非難に晒されることも多かった。そんな時に彼の後ろ盾になったのがジャバーだった。長い間チームの顔として矢面に立ってきた彼には、マジックの置かれた状況がよく理解できた。ジャバーはマジックの相談相手となり、親友とは言わないまでも信頼し合える関係になった。マジックがスポットライトを共有するようになって、精神的な余裕も生まれた。尊大で不遜な人間とのイメージは徐々に薄らぎ、チームメイトと一緒に行動する機会も増えた。
  ジャバーが最後の輝きを見せたのは、ボストン・セルティックスと対戦した85年のファイナルだった。第1戦は34点差で大敗し、その戦犯はぶざまなプレーの連続で12点、3リバウンドに終わったジャバーだった。面目を失った彼は、翌日のミーティングでチームメイト一人ひとりに謝罪。「こんなプレーは二度としない」と約束した。その言葉通り、第2戦は30点、17リバウンドと見違えるようなプレーで勝利に貢献。第5戦は36点、第6戦も29点と全盛期を思わせる活躍で、38歳にして14年ぶり2度目のファイナルMVPに輝いた。
  88-89シーズン、42歳のジャバーは開幕前から引退を宣言し、同シーズンは彼のフェアウェル・ツアーと化した。レギュラーシーズン最終戦の引退セレモニーでは、チームメイトたちからロールスロイスをプレゼントされた。「こんなプレゼントは今までなかっただろう。でも、カリームのような選手もどこにもいなかったのだ」(マジック)。通算1560試合出場、3万8387得点はいずれも引退時点で史上最多。その後出場記録は更新されたものの、得点記録は今でも最多の地位を保持している。

 引退後は黒人の歴史やジャズに関する著作を発表したり、2005年からはレイカーズのアシスタントコーチとして後進の指導にあたっている。09年には白血病であることを告白した。「病気に対する理解度を高め、多くの生命を救う」のが目的だったが、幸い早期に発見されたおかげで、生命への別状はなかった。

 公表直後から、ジャバーの元には見舞いの電話やコメントがひっきりなしに舞い込み、彼を感激させた。現役時代、実力に見合った人気を得ていなかったジャバーにとって、人々の暖かい励ましの声は特別に心に響いた。世間を向こうに回して、孤独な戦いを挑んでいたアルシンダー青年の姿はもはやない。今の彼は、カリーム・アブドゥル・ジャバー ――「気高く、力強い神の僕」という意味を込めた名前にふさわしい人物となっている。

文●出野哲也
※『ダンクシュート』2010年2月号掲載原稿に加筆・修正

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