【NBAデュオ列伝】ロビンソンに課せられた孤軍奮闘と勝てない日々。そして訪れた“最高の相棒”ダンカンとの出会い|前編

【NBAデュオ列伝】ロビンソンに課せられた孤軍奮闘と勝てない日々。そして訪れた“最高の相棒”ダンカンとの出会い|前編

ロビンソンとダンカンの優等生デュオが、スパーズに繁栄をもたらした。(C)Getty Images

“Class act(クラスアクト)”という言葉がある。“一流の”、“一級品の人物”というような意味だが、21世紀初頭のNBAでは、クラスアクトの名に値する選手が少なくなっていた。2004年11月に起きたデトロイトでの大乱闘事件がいい例で、バスケットボールの技能は一流でも、精神面が未熟な選手があまりにも多かったのだ。デニス・ロッドマンの派手なパフォーマンスが、メディアやファンにもてはやされ始めた1990年代中頃から、そのような状況はずっと続いていた。

 しかしその当時も、クラスアクトの名にふさわしい選手がいないわけではなかった。サンアントニオ・スパーズのティム・ダンカンがその代表で、人格的にも、選手としても隙のない完璧な選手であった。そのダンカンの先輩であるデイビッド・ロビンソンもまた、完璧な技術と人間性を持ち合わせていた。

 ロビンソンとダンカン――。NBA史上最強のツインタワーは、同時に最高のクラスアクトでもあった。
 ■史上トップクラスの優等生プレーヤー、ロビンソン

 ロビンソンのバスケットボール人生は、順風満帆を絵に描いたようなものだった。

 1987年、スパーズにドラフト1位で指名されたが、海軍士官学校の学生だったためプロ入りせず、2年間兵役についた。“アドミラル(提督)”というニックネームは、ここに由来している。

 満を持してNBA入りした1989−90シーズンには、平均24.3点、12.0リバウンド、3.89ブロックと圧倒的な成績を残し新人王を受賞。センターの体格にガード並みの運動能力を併せ持ったロビンソンのプレーに、人々は驚愕した。1992年には初代ドリームチームの一員として、バルセロナ五輪にも出場。1988年に出場したソウル五輪で銅メダルに終わった屈辱を、念願の金メダルを手にすることで晴らした。

 選手としてだけでなく、人間性も称賛された。敬虔なクリスチャンで、チャリティ活動にも熱心。高校時代は全米最高峰のハーバード大進学も不可能ではないと言われたほどの頭脳の持ち主でもあり、音楽と機械いじりを趣味としていた。
  元サンアントニオ市長のヘンリー・シスネロスは「私はジミー・カーター以降のすべての大統領候補者に会ったことがあるが、デイビッドほど人を引き付ける魅力、カリスマ性、知性を兼ね備えた人物はそうはいない。彼には間違いなく大統領になる資質が備わっている」とまで断言している。

 ただひとつ、ロビンソンに欠けていたものがあった。それはチャンピオンリング。スパーズのサポーティングキャストは弱く、ロビンソンのワンマンチームに近い状態が続いていた。とりわけインサイドは脆弱で、ロビンソン1人に多大な負担がかかっていたのである。

 スパーズがプレーオフで敗退を続けると、次第にロビンソンに非難の声が向けられるようになった。“バスケットボールに対して真摯に取り組んでいない”、“勝者になるには人が良すぎる”……。ロビンソンに限らず、スパーズのメンバー全員にそうした傾向があったため、リーダーのロビンソンが矢面に立たされたのだった。
  そこで1993−94シーズンには、デトロイト・ピストンズからリーグ最高のリバウンドマシン、ロッドマンを獲得。インサイドの強化と、大人しいチームの雰囲気を打破するための、二重の目的が込められた補強だった。

 ロッドマンは期待に応え、その年平均17.3リバウンドを奪取。守備面での負担が軽くなったロビンソンの平均得点はキャリアハイの29.8点まで上昇し、シーズン最終戦のロサンゼルス・クリッパーズ戦では71得点をあげ、シャキール・オニール(オーランド・マジック)を逆転して得点王のタイトルを手にした。

 ヘッドコーチのジョン・ルーカスがロッドマンを巧みに操縦したこともあって、チーム内で軋轢が起こることもなし。ロビンソンとロッドマンの関係も当初は上手くいっており、このトレードは大成功したかに思えた。

 しかし、これ以上ないほどクリーンなロビンソンと、これ以下はないほどダーティーなロッドマンが共存できるわけがなく、ほどなくして亀裂が入ってしまう。
  1994−95シーズン、ロビンソンは個人として最高の栄誉であるシーズンMVPを受賞。チームもレギュラーシーズン最高勝率を記録し、“今度こそ”と期待は高まった。

 ところが迎えたプレーオフで、ロッドマンはチームの規律に違反して出場停止を命じられる。ディフェンスの要を失ったスパーズは、カンファレンス決勝でヒューストン・ロケッツに敗北。アキーム・オラジュワンに翻弄されたロビンソンは、“大舞台で弱い男”とのレッテルを貼られてしまった。

 この年を最後に移籍したロッドマンは、トレード先のシカゴ・ブルズで、ロビンソンを始めとするスパーズの面々を侮辱する発言を繰り返す。さらに悪いことに、1997年はロビンソンが背中を痛めて6試合しか出られず、スパーズはわずか20勝と最悪のシーズンを送った。

 しかし、下位に沈んだおかげで、スパーズはドラフト1位指名権を得る。チーム再建の切り札は、カレッジバスケットボール界の超目玉、ウェイクフォレスト大のティム・ダンカン以外考えられなかった。
 ■ダンカンの加入により、最強ツインタワーが完成

 ダンカンの指名を、誰よりも喜んだのがロビンソンだった。

「とてもエキサイトして、妻にも電話でダンカンを指名できたことを伝えたほどだよ。私はもう何年も、自分の助けになる選手を求めていたのだからね」

 ロビンソンはダンカンの入団が決まると、早速自宅に招いて一緒にトレーニングを積んだ。すでにその時点で、攻撃面ではダンカンが自分より優れていることをロビンソンは認めたという。ダンカンこそスパーズを優勝に導ける男であり、やがては自分にとって代わる男であることを彼は確信した。

 何よりロビンソンが気に入ったのは、ダンカンが人間的にも優れていることであった。長年NBAを取材してきたスポーツライターのピーター・ベッシーは「彼は理想的なチームメイトだよ。他人の悪口は口にしないし、落ち込んでいる時でもそれを決して表には出さない。自分の気分が他人に感染しないようにしているんだ」とダンカンの人間性を絶賛している。
  ロッドマンに対する苦い思いが記憶に新しかっただけに、選手としても、人間としても全幅の信頼を置けるチームメイトを得られたことが、ロビンソンにとっては何よりも嬉しかったのだ。2人はコートの外でも親しく付き合った。食事はもちろん、2人してダンカンの趣味であるビデオゲームにも興じた。身長2メートルをはるかに超す大男2人が、ゲームに興じて大騒ぎしている光景はあまり想像したくないが……。

 ダンカンは前評判通りの活躍を披露し、平均21.1点、11.9リバウンドの好成績で当然のごとく新人王を受賞した。ロビンソンも故障から復活し、ダンカンと無敵のツインタワーを形成。スパーズは前年から36も勝ち星を増やしたが、これはロビンソンが入団した1989−90シーズンのプラス35勝を1勝上回る新記録となった。

 1998−99シーズンはロックアウトのため開幕が大幅に遅れ、さらにマイケル・ジョーダン(元ブルズほか)の引退により、NBAの勢力地図が大きく塗り替えられることに。そして、スパーズにも大きな変化が訪れた。ロビンソンに代わって、ダンカンがチームの中心になったのである。
  ダンカンは、当時の流れを振り返ってこう語っている。

「自然な流れだった。入団した頃はデイビッドがチームの中心で、僕は彼の元で成長した。そして僕が彼にとって代わる用意ができたとき、彼は何も言わずに身を引いたんだ」

 とはいえ、ずっとスパーズの顔であったロビンソンにとっては、簡単な決断ではなかった。

「オフェンスの中心がティムに移るのは、必ずしも愉快ではなかった」

 ロビンソンは正直にそう語る。

「けれども、そのことで揉めはしなかったよ。それが正しいことであるのが、私にはわかっていたからね」

 難しい状況をロビンソンは紳士らしく受け止め、チームに波風が立つことはなかった。スパーズは怒涛の快進撃を見せ、初のカンファレンス優勝を果たす。ファイナルでもニューヨーク・ニックスを圧倒し、1976年にABAからNBAに加盟して以来、初のリーグ制覇を成し遂げた。

 平均27.4点でファイナルMVPに輝いたダンカンは「これまでずっと勝利を目指して戦ってきたデイビッドのために、勝てたことが嬉しい」と語り、ロビンソンも「長い道のりだったが、困難だったからこそ価値がある」と感慨に浸った。(後編に続く)

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2005年2月号掲載原稿に加筆・修正。

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