佐藤琢磨のレース史|19歳でレーシングカートを始めた実績なしの異端児【F1編】

佐藤琢磨のレース史|19歳でレーシングカートを始めた実績なしの異端児【F1編】

8月23日、インディアナポリスのインディ500で2度目の優勝を果たした佐藤。彼のレース人生のスタートは19歳だった。(C)Getty Images

インディ500で2度目の優勝を飾った佐藤琢磨。多くはこのドライバーが順風満帆なレーシングキャリアを積んできたと思っていることだろう。ホンダの庇護を受け、環境に恵まれてきたのは確かだ。しかし、その一方で彼を取り巻く環境は、常に逆境にさらされてきたと見ることもできる。

 F1で優勝経験のない佐藤は、もしかしたら他のトップドライバーに比べ、そこまでの才能には恵まれなかったのかもしれない。だが、固い意志を持って、計画を立て、目標に邁進する実行力、それを可能にするコミュニケーション能力や探求する力で自らの進みたい道を切り開いてきた。彼のドライバーとしての歩みを2回に分けて掲載する。

   ◆   ◆   ◆

 佐藤がF1の存在を初めて意識したのは10歳の時、1987年に鈴鹿で開催された日本GPを父親と見に行ったことがきっかけとなる。幼き琢磨少年は、当時ロータス・ホンダで走っていたアイルトン・セナの走りに魅了された。しかし、すぐにはレーシングドライバーを目指さず、学生時代は自転車競技にのめり込んだ。入学した和光高校には自転車部がなく、担任の教師に掛け合って自転車部を創設し、3年生の時にインターハイで優勝したというエピソードは、まさに持って生まれた実行力、コミュニケーション能力が現れたものといえる。
  逆境とは少し違うかもしれないが、レーシングドライバーのとしてのキャリアのスタートが、他の多くのドライバーに比べ、きわめて遅かったこともハンディキャップとなった。

 すでにその頃には10歳以前の幼少期からレーシングカートを始め、そこで実績を残した後、10代後半にはジュニア・フォーミュラに歩を進め、そこからさらにステップアップするというエリートコースができ上がっており、中には現在レッドブル・ホンダで活躍するマックス・フェルスタッペンや来季F1に復帰する元王者のフェルナンド・アロンソのように10代でF1にまでとたどり着く者さえいる。

 そんな趨勢の中、レーシングカートを始めたのは19歳。早稲田大学を休学してSRS(鈴鹿サーキットレーシングスクール)に入校し、腕を磨く。年齢制限ぎりぎりの19歳だったこともあり、当初は“実績がほとんどない、口の達者なお兄ちゃん”と見られていたが、すぐに持ち前の感覚の鋭さでカートの全日本チャンピオン経験者や講師陣をしのぐ速さを発揮。主席で卒業し、全日本F3選手権に参戦するスカラシップを獲得した。

「スピードでは入った直後から誰にも負けませんでしたが、自分の走りが完璧だとは思わなかったので、全員の走行データをチェックしました。講師陣のデータはもちろんですが、自分より遅いドライバーにも何か学ぶべき点があるんじゃないかと思って、とにかく隅々まで見ていました」と当時を振り返るが、この探究心が短期間での成長を促したことは事実だろう。
  無限×童夢プロジェクトで2レースを戦った後、当時、最もレベルが高く、F1への登竜門として関係者の注目度も高かったイギリスF3に参戦するため渡英する。いくつかのジュニア・フォーミュラで実績を積み、カーリン・モータースポーツからイギリスF3へと参戦。初年度の2000年はランキング3位、2001年には全26戦中12勝の成績でチャンピオンの座を勝ち取った。また、シルバーストン、ザントフールト、マカオで開催された国際F3レースも制し、F3界の頂点に立った。

 その傍らでB・A・R ホンダの若手ドライバー育成プログラムにも参加し、F1マシンのテストも経験した。そして翌2002年にジョーダン・ホンダよりF1デビュー。最終戦の日本GPで5位に入賞し、初ポイントをつかみ獲った。カートを始めてからわずか6年目での出来事だった。

 2003年はB・A・R ホンダのリザーブ(サード)ドライバーとして過ごすが、ジャック・ヴィルヌーヴが急きょ出場を取りやめたため、最終戦の日本GPにのみ参戦する。代役ながら6位に入賞し、きっちり結果を残した。
  翌2004年はレギュラードライバーに昇格。このシーズンが、F1時代のハイライトといえるだろう。第5戦スペインGP、第9戦アメリカGP、第13戦ハンガリーGPで3番グリッドを獲得し、第7戦ヨーロッパGPでは“皇帝”ミハエル・シューマッハとフロントローに並んだ。

 多重クラッシュによりセーフティーカーが2度も出動する波乱の展開となったアメリカGPでは、2台のフェラーリに次ぐ3位でフィニッシュ。1990年の日本GPでの鈴木亜久里の3位表彰台に続く、日本人として2人目の快挙を成し遂げ、「表彰台からの眺めは一生忘れられない。波のようにうねって見えるグランドスタンドの大観衆や両手を挙げて大喜びするチームスタッフの面々。シューマッハとバリチェロから受けたシャンパン・セレブレーションの冷たい感触と甘い香り。やっぱり表彰台は最高です」 とコメントを残した。

 この年はシーズンを通して高い競争力を披露。表彰台を含む9回の入賞を果たし、フェラーリに次ぐコンストラクターズ・ランキング2位に大きく貢献した。
  一転して、2005年は苦境となった。第2戦マレーシアGPでウイルス性の発熱による欠場の憂き目に遭い、第4戦サンマリノGPではシーズン初ポイントを獲ったはずが、マシンの最低車重違反で失格。さらにチームと共に2レースの出場停止処分も科せられた。第13戦ハンガリーGPでの8位が唯一の入賞となった。

 フェラーリからルーベンス・バリチェロが加入し、ウィリアムズに移籍するはずのジェンソン・バトンが翻意して残留したため、B・A・R ホンダから押し出される形となった2006年は、鈴木亜久里率いるスーパーアグリ・F1・チームより参戦する。エンジンがホンダ、タイヤがブリヂストンと“オールJAPAN”パッケージで挑んだが、いかんせん4年落ちのマシンをベースとする「SA05」、シーズン途中から登場した「SA06」はいずれもポテンシャルが低く、最終戦ブラジルGPでの10位が最高位とポイント獲得とはならなかった。

 2007年に投入された「SA07」は、ホンダの協力を得て開発され、前年に比べて戦闘力が飛躍的に向上していた。第4戦スペインGPでは8位に入賞し、設立1年半のチームに初めてのポイントをもたらした。大荒れとなった第6戦カナダGPも6位で走り切った。
  続く2008年は、F1時代で最も困難を強いられた1年だった。レギュレーション変更にうまく対応できず、「SA08」の戦闘力が相対的に下がったことに加え、チームの財政難は極限に達し、スーパーアグリは第4戦スペインGPを最後にF1から撤退する。

 その後はル・マン24時間耐久レースへの出場やALMS(American Le Mans Series:アメリカン・ル・マン・シリーズ)、インディカー・シリーズ参戦等のオファーを受けるが、「F1から引退するつもりは全くない」と全て断り、あくまでF1のレギュラーシートを目指した。実際、スクーデリア・トロ・ロッソのテストで好パフォーマンスを見せ、復帰への可能性を十分に感じさせたが、起用までには至らず、F1という夢舞台での活動は幕を閉じることになる。そして当の本人も「F1のシートを失って、キャリアが終わった……」と感じていた。

※インディカー編に続く

文●甘利隆
著者プロフィール/東京造形大学デザイン科卒業。都内デザイン事務所、『サイクルサウンズ』編集部、広告代理店等を経てフリーランス。Twitter:ama_super

【PHOTO】世界最高峰のカーレース、F1でしのぎを削るトップドライバーたち

関連記事(外部サイト)