野球で頭打ちとなり、NBAでも壁に直面。エインジが引退後に抜いた“三本目の刀”【NBA名脇役列伝・後編】

野球で頭打ちとなり、NBAでも壁に直面。エインジが引退後に抜いた“三本目の刀”【NBA名脇役列伝・後編】

引退後はセルティックスのGMに就任したエインジ。大型補強を実現させ、2008年にチームを優勝へと導いた。(C)Getty Images

■プロ入り後に壁にぶち当たるも、1986年のプレーオフで優勝に貢献

 大学卒業後は野球に専念するつもりで、NBAからの誘いは断っていたダニー・エインジ。しかし、MLBトロント・ブルージェイズで過ごした3年間の成績は、出場211試合で打率は2割2分、2本塁打と頭打ち状態。「メジャーリーグのキャンプ期間中にNCAAトーナメントに出場していなかったら、もっと良い成績を収められただろう」という声もあったが、それでもバスケットボールと野球、どちらのスポーツでより才能を発揮できるのかは、次第に明白になっていった。

 1981年のNBAドラフトでも、マーク・アグワイア(デポール大)、アイザイア・トーマス(インディアナ大)に次ぐ3番目の評価を得ていた。しかしながら、ブルージェイズとの契約にプロバスケットボールでのプレーを禁止する条項があったため、どの球団も指名を回避。それでも2巡目31位でボストン・セルティックスが指名に踏み切ると、その3日後には野球界から引退する意向を表明した。

「ほかのチームからの指名だったら野球を続けていたかもしれない。でも、歴史あるセルティックスの一員になれるチャンスを逃すわけにはいかなかった」

 ブルージェイズは法廷闘争に持ち込んだが、最終的にはセルティックスがブルージェイズに50万ドルを支払うことで和解。こうして二刀流にピリオドが打たれた。
  ただ「NBAではすぐにスターになれると思っていた」というエインジは、すぐ現実の厳しさを思い知らされる。

「チームのエースだったラリー(・バード)がウイングでボールを持っていた時、絶好のタイミングでポストに入ってパスを貰おうとしたら『邪魔だからどけ』って言われてね。それでも懲りずに同じことをしたら『何度言えばわかるんだ?俺がボールを持っている時は、ウィークサイドに立っていろ』って怒鳴られたよ」

 2年目には先発に定着して平均9.9点をあげたが、翌1983−84シーズンはデニス・ジョンソンの加入によって控えに降格。チームは優勝したものの、バスケットボール人生で初めて壁にぶち当たったエインジは“野球を捨てた選択が本当に正しかったのか”と、深く思い悩む日々を過ごしたという。
  だが、同年オフに行なわれたサマーリーグに参加し、体調を整えると同時に試合勘も取り戻した彼は、迎えた1984−85シーズンは先発に復帰。自己ベストのフィールドゴール成功率52.9%をマークする。

 そして1986年のプレーオフでは平均15.6点に加え、出場18試合でチーム最多となる41スティールを奪うなどリーグ制覇に大きく貢献。チームメイトたちがシャンパンファイトを繰り広げるなか、宗教上の理由で酒を飲まないエインジは、オレンジジュースを手に喜びの輪に加わった。
 ■現役引退後は古巣のGMに就任。大型補強を実現させ頂点に導く

 生意気な態度や発言だけでなく、ダーティーなプレーも厭わなかったエインジは、他球団の選手やファンから大いに嫌われていた。それでも「ブーイングは大歓迎だ。敵地でシュートを決めて相手ファンを苛つかせるほど、気分のいいことはないからね」と、まるで意に介さず。1983年のプレーオフ、対アトランタ・ホークス戦でトゥリー・ロリンズと乱闘を演じた時も「点を入れられそうになったらどんな手を使っても止めるし、自分の妻が相手だって同じようにするさ」と涼しい顔をしていた。

 チーム内でも怒られ役で、何かにつけてコーチ陣やベテラン選手たちから叱責を受けた。それでもバードが「ダニーは弟のような存在。時には殴りたくなることもあるけど、憎めないヤツなんだ」と語るように、何を言われてもへこまず、根に持つこともないエインジは、ベテラン揃いのチームのマスコット的な存在だった。

 1987−88シーズンには148本の3ポイントを沈め、それまでのリーグ記録を50本以上も更新。オールスターにも出場を果たしたが、翌年にはヘッドコーチ(HC)のジミー・ロジャースとの間に確執が生じ、1989年2月にサクラメント・キングスへトレードされる。「ずっとここにいるつもりだったけど、ある程度は覚悟もしていた。セルティックスには悪い感情は一切持っていない」と冷静に受け止めたエインジは、新天地へと去っていった。
  1989−90シーズンは平均17.9点をマークするが、キングスは23勝59敗と大きく負け越す。その後は移籍を重ね、1992年にはポートランド・トレイルブレイザーズ、翌1993年はフェニックス・サンズでファイナルに出場し、2年連続でシカゴ・ブルズと激突。ゴルフ仲間のマイケル・ジョーダンと激しいマッチアップを繰り広げ、相変わらずの鼻っ柱の強さも見せつけたものの、いずれの年も敗れ、自身3度目のチャンピオンリング獲得はならなかった。

 1994−95シーズン終了後に現役を退き、1996−97シーズンからはHCとして約3年間サンズを指揮。そして2003年、ゼネラルマネージャー(GM)としてセルティックスに復帰すると、2007−08シーズンには自ら陣頭指揮を執ってケビン・ガーネット、レイ・アレンを獲得する大型補強を実現し、チームを頂点に導いてみせた。
 「私がドラフトやトレードで獲得した選手たちばかりだからね。自分の子どもが優勝したようなものだよ」

 同年は最優秀エグゼクティブ賞も受賞。以後も優勝にこそ届いていないものの、チームはここ4シーズン続けてカンファレンス準決勝以上に進んでおり、リーグ屈指の敏腕GMとの評価を不動としている。

 コート上の優秀な“子どもたち”だけでなく、私生活でも6人の子どもと多くの孫に恵まれているエインジ。彼のように充実した人生を送っている人物も、そうはいないだろう。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2013年6月号掲載原稿に加筆・修正。

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