スーパースターは不在もLJ、ムトンボら独特の存在感を放つ選手が揃った1991年【NBAドラフト史】

スーパースターは不在もLJ、ムトンボら独特の存在感を放つ選手が揃った1991年【NBAドラフト史】

LJことラリー・ジョンソンはNBA入り1年目にダンクコンテストに出場。2位に終わったものの、豪快なダンクを披露し観客を沸かせた。(C)Getty Images

1991年はマイケル・ジョーダン率いるブルズが初優勝を遂げ、NBA人気に火がつき始めていた頃。そんな背景もあり、この年のドラフトは特に注目を集めた。史上最多の8000人の観衆の前で1位指名を受けたのはUNLVのラリー・ジョンソン。以下、個性派の面々が次々と指名されていった。

■確率10.6%のホーネッツがアップセットで1位指名権獲得

 LJ、ムトンボ、スティーブ・スミス、ケニー・アンダーソン、ステイシー・オーグモン、リック・フォックス――。1990年代を知るオールドファンなら、これらの名前を聞くと甘酸っぱいNBA酸がどこからとなく湧き出し、鼻にツンと来るに違いない。

 スーパースターにはなれなかったが、それぞれが独特な存在感を放ち、NBAファンの記憶に未だ焼き付いているであろう、懐かしの選手たち。デイル・デイビスやテレル・ブランドン、クリス・ギャトリングなど、ほかにもまだたくさんいる。俳優に例えるなら、派手、地味にかかわらず、主役を喰うような怪演をたまに演じる、忘れがたいバイプレーヤーといった感じだろうか。
  そんな選手を数多く輩出したのが1991年のドラフトだ。NBAの時代背景で言えば、ラリー・バードやマジック・ジョンソンといった1980年代のレジェンドが現役最終盤ながらまだコートに立ち、マイケル・ジョーダン率いるブルズが悲願の初優勝を遂げ、全米に空前絶後のNBAブームが到来しつつあった頃。そんなタイミングに行なわれ、さらにはカレッジ時代から話題性のあった選手が顔を揃えていたことも相まって、この年のドラフトはひときわ高い注目度を誇っていた。

 ドラフトロッタリーでは、レギュラーシーズンを最下位で終えたナゲッツに、最も高い16.7%の1位指名権獲得率が与えられていた。ところが、というか案の定、下から7番目で確率10.6%のホーネッツ(現ペリカンズ)がアップセットを演じ、1位指名権を奪取。ナゲッツは4位まで順位を下げ、2位ネッツ、3位キングス、5位ヒートに指名順が確定する。

 1988年創設のニューカマー、ホーネッツにとって球団初の1位指名権であり、この先長きに渡り、チームの屋台骨となるフランチャイズプレーヤーを獲得する絶好のチャンスが、幸運にも舞い込んできたのだった。

 ちなみに、ナゲッツほどロッタリー運に恵まれないチームはないだろう。1985年にロッタリー制度が導入されてからの36年間、3度も1位指名権獲得の最高確率を得ながら(1991、98、2003年)、1度もモノにできていない。この年のハズレも痛かったが、なんといっても悔やまれるのはキャブズと同率1位で臨んだ2003年である。逃した獲物がレブロン・ジェームズなのだから。

 一方で、最高確率を1度しか手にしたことがないにもかかわらず、3度も1位指名権を奪取した前出のキャブズのようなチームもある。運がすべてとはいえ、あまりの理不尽さにナゲッツが不憫に思えて仕方がない。
 ■8000人が詰めかけた会場で1位指名を受けたのは本命のLJ

 この年のドラフト1位候補筆頭は、UNLV4年のラリー・ジョンソン(以下LJ)。屈強な肉体にパワーとスピード、テクニックを兼ね備えた、将来のスーパースター候補だった。

 前歯にはめた金歯と頭の剃り込みラインがトレードマークのやんちゃなLJは、バイタリティにあふれ、常に朗らかでいくぶん脳天気な性格は見る者を魅了してやまず、バスケットボールの能力的にもキャラ的にも、将来のNBAを背負って立つ若者の1人と目されていた。身長は公称6フィート7インチ(201p)だが、シカゴで行なわれたプレドラフト・キャンプでの計測記録によると、実際は靴下を履いた状態で6フィート5.5インチ(197p)だったそうだ。

 LJは、当時アメリカで最も治安の悪い地域のひとつとされていたテキサス州のサウスダラスにあるゲットーで生まれ育った。高校時代にマクドナルドのオールアメリカンに選出されるほどの逸材だったが、学業の問題を抱えていたこともあり、2年制のジュニアカレッジ、オデッサ大に進学。2年時に平均29.8点をマークし、強豪UNLVにリクルートされる。名将ジェリー・ターカニアンHCの下、さらなる飛躍を遂げ、1年目からチームをNCAAトーナメント決勝へと導いた。
  決勝の相手は名門デューク大。ここでもLJは22得点、11リバウンドをあげ優勝の立役者に。103対73のスコアは、歴代決勝の中で最大得点差であり、唯一の3桁得点である。翌シーズンは27勝0敗のパーフェクトシーズンを達成するも、連覇を狙ったNCAAトーナメントでは準決勝でデューク大にリベンジを果たされた。

 最終学年の成績は平均22.7点、10.9リバウンド、3.0アシスト。APアウォードこそルイジアナ州大2年のシャキール・オニール(以下シャック)に譲ったものの、ジョン・ウッデンやネイスミスなどその他すべての主要個人アウォードを獲得し、満を持してドラフトに乗り込んだのだった。

 ドラフト1位の本命は確かにLJだったが、前年のデリック・コールマンや翌年のシャックのように、鉄板というわけではなかった。当時のブルズGM、ジェリー・クラウスは『シカゴ・トリビューン』のインタビューで次のように語っている。

「ドラフトのbPピックは、(1位指名権を獲得したチームが)何を必要としているかによるだろう。PGが必要ならケニー・アンダーソン(ジョージア工科大2年)、PFが必要ならラリー・ジョンソン、SFならビリー・オーウェンス(シラキュース大3年)。そしてもしセンターが欲しいなら、ディケンベ・ムトンボ(ジョージタウン大4年)がbPになる」
  6月25日、NBAドラフトは定番の開催地であるニューヨークのマディソンスクエア・ガーデンで行なわれ、フェルト・フォーラム(現ザ・シアター)に集まったファンの数はなんと満員の約8000人。それまでの最高が3000人だったことを考えると、この年の注目度の高さが窺い知れる。チケットは事前に無料で先着順に配られたそうだが、人海戦術で大量にゲットしたダフ屋が10ドルで売っていたという。

 1位で指名されたのは、予想通りLJだった。名前が呼ばれた瞬間、ひときわ大きな歓声が上がり、「ラーリー! ラーリー!」と大合唱が巻き起こる。地元出身選手以外、誰であってもブーイングの餌食になることが少なくないニューヨークでのドラフトにおいて、盛大な歓待を受けたLJ人気の凄さは、当時相当なものだったのだろう。

 2位のネッツが地元クイーンズのプレーグラウンド・スター、アンダーソンを指名すると、会場は再び沸きに沸いた。ネッツはオーウェンスを獲得するだろうと予想されていただけに、同席していたアンダーソンの母は息子が親元に留まれることを喜び、むせび泣いた。3位のキングスはオーウェンスを、4位のナゲッツはムトンボを、5位のヒートはミシガン州大4年のスティーブ・スミスを指名。トップ4にはクラウスが予想した選手の名前が連なっていた。
 ■最も成功を収めたのはムトンボ。ドラフト1位のLJのその後は…

 プロ入り後、最も目覚ましい活躍を見せた選手は、4位でナゲッツに入団したムトンボだった。唯一殿堂入りを果たし、オールスター選出8回、最優秀守備選手賞4回、リバウンド王2回、ブロック王を3回獲得するなど、NBA史に残るディフェンダーとなった。

 トレードマークは、ブロックを決めた後、相手に向かって得意げに人差し指を左右に「チッチ!」と振るジェスチャー(礼を失することから、相手に面と向かっての同行為は後に禁止された)。また、1994年のプレーオフにおいて、史上初めて第8シードが第1シードを撃破するという大アップセットを演じた後、ボールを抱えて床に倒れ込み、歓喜の雄叫びを上げたシーンは、NBA史を語るうえで欠かせない名場面となっている。コンゴ訛の英語をまくし立て、なぜかいつもガハガハ笑っている豪放磊落な姿も忘れがたい。

 一方、1991年組の顔的存在であり、象徴でもあったLJはどんなNBAキャリアを歩んだのだろうか。

 1年目から全試合に出場し、平均19.2点、11.0リバウンド、3.6アシストを記録して新人王を受賞。翌年加入したアロンゾ・モーニングとともに、2年目にはプレーオフ進出を果たして1回戦を突破、若く勢いのあるホーネッツはフューチャー・ブルズ(未来のブルズ)?と呼ばれた。
  NBAに入ってから頂戴したニックネームGrandmama(グランママ)?は、コンバースと契約したLJが、おばあちゃんに扮して豪快なプレーを連発するというCMから名付けられたもの。大人気を博した同キャンペーンは、91年から96年まで続いた。

 余談だが、このGrandmamaネタには個人的な思い出がある。1993年の夏、ニューヨークのダウンタウンにあるバッタ屋みたいな洋服屋でセールをやっていたので覗いてみると、Grandmamaの写真がプリントされたコンバースの古いTシャツが1枚だけあった。絵柄のおかしさと安さにつられ、なんとなく買ってみたところ、その後電車の中や道端で見知らぬ黒人から「そのTシャツ、むっちゃクールじゃん!」「それどこで買ったんだ?」「俺も欲しい」と、何回か声をかけられた。後にも先にも、道を歩いていて見知らぬ人から身に付けているものを褒められたのは、あの時だけだ。そのTシャツはヨレヨレになるまで着倒したが、捨てられずにまだ取ってある。

 LJは、1993年には当時のNBA歴代最高額となる12年8400万ドルの契約をホーネッツと結ぶ。1994年にはバスケットボール専門誌『SLAM』創刊号の表紙とメイン特集を飾った。Grandmama効果も手伝って凄まじい人気を誇り、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
  だが、良いことばかりが続かないのが世の常。当初は順調にいっていたLJとモーニングの関係性も、次第にエゴがぶつかり合うようになり、ついには空中分解の憂き目にあう。1995年にモーニングがヒートに、翌年LJはニックスに移籍した。

 ニックスでのハイライトは1999年プレーオフ、ペイサーズとのカンファレンス決勝第3戦の、試合残り時間5.7秒で決めた逆転の4ポイントプレーだろう。試合直後のオンコートインタビューで、イスラム教に改宗したLJが繰り返し「アッラー」、「アッラー・アクバル(アラーは偉大なり)」と口にし、インタビュアーのジム・グレイが怪訝そうな表情をしていたのが印象的だった。シーズン中であっても、ラマダンの断食は欠かさなかったという。

 将来のスーパースター候補と目されてNBA入りし、デビュー当時は期待通りのプレーを披露したLJだったが、持病の腰痛の影響もあり徐々に輝きを失っていった。そして2001年、腰痛の悪化により引退を余儀なくされる。まだ32歳の若さだった。

 数年前、久しぶりにLJのニュースを目にした。彼には4人の女性との間に5人の子どもがいるそうで、12万ドルの養育費未払いを原因に自己破産を申告したのだという。いろんな意味で豪快というか、ダメダメというか、いかにもLJらしいニュースに思わず顔がほころんだ。

文●大井成義
※『ダンクシュート』2017年3月号掲載原稿に加筆・修正。

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