アジア人初の1位指名が誕生した2002年。“中国の至宝”を巡る攻防と、人生が一変した2位指名選手の物語【NBAドラフト史】

アジア人初の1位指名が誕生した2002年。“中国の至宝”を巡る攻防と、人生が一変した2位指名選手の物語【NBAドラフト史】

2002年のドラフトで1位指名されたヤオ(左)と2位指名のウィリアムズ(右)。引退後も含めた2人の人生を辿る。(C)Getty Images

バスケットボール後進地域であるアジアから、初のドラフト1位指名選手が誕生したのは2002年のことだった。当初、トップピックが有力視されたジェイ・ウィリアムズは2位指名に落ち着いたが、悲劇はそのオフに起きる。ドラフト1、2位指名選手が引退後に辿った人生も交えながら、この年のドラフトを振り返っていこう。

■ヤオの参戦に上位指名権を持つチームが色めき立つ

 2002年のシーズンオフに書いた短いコラムのボツ原稿が、パソコンの中に残っている。書き出しはこうだ。

“01−02シーズン終了後にメディアを最も賑わしたのは、スリーピートを達成した王者レイカーズや、シャキール・オニール&コビー・ブライアントの最強デュオではなく、中国の“Hidden Dragon(隠された竜)”ことヤオ・ミンだった。身長229センチ、中国プロリーグのNo.1選手にして未完の大器が、NBAドラフトで1位指名されたのである”。
  それまで、アメリカのカレッジでプレー経験のない外国人選手のドラフト最高位は、2001年のパウ・ガソルの3位。それが、ことバスケットボールに関しては黒人や白人との間に大きな開きがあり、NBAではこれまで大成した者が1人もいないアジア人、それも東洋人が1位に選ばれたのだから、人々に与えた衝撃は並大抵ではなかった。

 当初、この年のドラフトで主役を飾るのは、デューク大3年のスターPG、ジェイ・ウィリアムズであると考えられていた。その前年、シェーン・バティエらとともにデューク大をNCAAトーナメント優勝に導き、翌年にはジョン・ウッデン・アウォードやネイスミス・アウォードなど主要個人賞を総なめにしている。シュート、パス、ドリブルのすべてにおいて卓越した能力を持ち、身体の強さや勝負強さ、リーダーシップを兼ね備え、10年に1人の逸材と目されていた。

 また、スポーツのみならず学業にも秀でており、大学3年間で社会学と経営学の学士号を取得し、3年で卒業資格を得たデューク大初のバスケットボール選手。全米規模で人気を誇り、将来のNBAを背負って立つであろうウィリアムズの1位指名は、約束されたようなものだった。
  ところが、ドラフトロッタリーを1か月後に控えた4月19日、状況を一変させるニュースが地球の裏側から舞い込んでくる。中国バスケットボール界のスーパースター、“歩く万里の長城”ことヤオのNBA挑戦を、所属チームの上海シャークスがついに承認したのだった。

 その発表がなされた日、シャークスはチーム初となる中国リーグ優勝を達成。立役者はもちろんヤオで、プレーオフ決勝シリーズ4試合の平均成績は41.3点、21リバウンド、4.3ブロックという驚異的なもの。シーズン平均でも32.4点、19リバウンド、4.5ブロックと、凄まじい記録を残している。

 ヤオは1999年にもNBA入りが噂されたが、諸般の事情によりその話は立ち消えとなっていた。その後も何度か取り沙汰され、ここにきて実現の可能性が一気に高まったものの、なにぶん相手は中国、最終的にどう転ぶかは不透明な状態だった。所属チームが許可を出したところで、中国バスケットボール協会(CBA)や、代表チームを管轄する国家体育総局が反故にする可能性が少なからずあった。
  それでも、ヤオのNBA加入の可能性が現実味を帯びてきたことで、ロッタリー上位チームは俄然色めき立つ。ヤオは5月1日にシカゴでワークアウトを開催。中国の至宝を視察しようと、多くのNBAチームがGMやスカウトを送り込んだ。

■中国との粘り強い交渉の末にロケッツがヤオを1位で指名

 この年のドラフトロッタリーで、1位指名権獲得率が最も高かったのはウォリアーズとブルズの2チーム(22.5%)。それにグリズリーズ(当時バンクーバー)、ナゲッツ、ロケッツが続いた。抽選の結果、ロケッツが8.9%というわずかなチャンスをモノにし、1位指名権を奪取する。チームの代表者としてロッタリーに参加した若きエースのスティーブ・フランシスは、満面の笑顔で喜びを表わした。

 ロケッツに続く上位の指名順は、ブルズ、ウォリアーズ、グリズリーズ、ナゲッツに確定する。ヤオとウィリアムズに次いで上位指名が有力視されていたのは、同じくデューク大3年のマイク・ダンリービー、カンザス大3年のドリュー・グッデン、コネティカット大2年のカロン・バトラーといった面々だった。
  1位指名権を手にしたロケッツは、すぐさま中国サイドとの交渉に着手する。キャロル・ドーソンGMとルディ・トムジャノビッチHC、顧問弁護士の3人は上海に飛び、さっそくヤオの家族や現地の要人たちと面会した。ドーソンいわく、交渉にあたり効力を発揮したのが、トムジャノビッチの存在だった。NBAブームが浸透しつつある中国において、アメリカと同様にトムジャノビッチは抜群の知名度を誇り、ひとかどの有名人だったそうである。

 とは言え、交渉は一筋縄ではいかなかった。ロケッツのフロント陣は、帰国後もヤオの代理人やCBA、国家体育総局と粘り強く交渉を続けた。相手が予想以上にしたたかだったこともあるが、交渉を難しいものにしていた理由のひとつに、ヤオより1年早くNBA入りしたワン・ジジ(当時マーベリックス)によるトラブルがあった。

 ワンはアメリカでのトレーニングを優先するため、本国からの帰国要請を無視し、中国代表チームから締め出しを食らっていた。「故国を捨てて、アメリカに帰化するのでは」といった憶測が流れたほどで、CBAや国家体育総局は、選手の海外移籍に殊のほか神経を尖らせていた。

 最終的にすべての問題がクリアになったのは、ドラフト当日の早朝のことだった。ドラフト開始の15時間前、その知らせをベッドの中で聞いたドーソンは、思わず大声で叫んだという。
  契約条項には中国代表チームへの優先参加や、契約金の半分以上をシャークスとCBAに支払うなど、ロケッツにとって厳しい項目が数多く盛り込まれていた。さらにタイミングが悪いことに、この年の夏には世界選手権が開催されるため、ヤオはシーズン前のトレーニングキャンプに参加できない。ロケッツのコーチングスタッフは大きな不安を抱かざるを得なかったが、厳しい条件に見合うだけの見返りを、ヤオはチームにもたらしてくれると信じるほかなかった。

 6月26日、NBAドラフトはニューヨークで開催された。1位のロケッツはヤオ、2位のブルズはウィリアムズ、3位のウォリアーズはダンリービー、4位のグリズリーズはグッデンを順当に指名。会場に詰めかけたファンは、ヤオの1位指名には大ブーイングで、2位のウィリアムズには大歓声で応えた。

 上位指名で波乱と呼べるのは、トップ5位での指名が有力視されていたバトラーが、10位まで落ちたことだろう。バトラーは指名後のインタビューで、「俺はこのドラフトでトップ5に値する選手だと思っている。俺をスルーしたチームに、報いを受けさせるつもりだ」と、感情を露わにして語った。
 ■悲劇のバイク事故によりウィリアムズの人生は一変

 1、2位で指名されたヤオとウィリアムズの、その後の足取りを辿ってみよう。

 マイケル・ジョーダンからフランチャイズ・プレーヤーのバトンを受け継ぐ選手として、大いに期待されたウィリアムズだったが、NBAへのアジャストに手間取ったこともあり、1年目は満足な結果を残すことはできなかった。それでも54試合に先発出場し、平均9.5点、4.7アシストをあげ、オールルーキー2ndチームに選出。デビュー7試合目には、ブルズの選手として4年ぶりとなるトリプルダブルを記録し、豊かな将来性を感じさせた。

 だが、迎えた2003年のオフにバイクで大事故を起こし、人生が一変してしまうことになる。

 ヤマハの大型スポーツバイク、YZF−R6(排気量600cc)でシカゴ北部の住宅街を走行中、交差点を右から走ってきたトラックより先に通過しようと、ウィリアムズは一時停止を無視してスロットルを開けた。トラックをギリギリでかわしたものの、直後にコントロールを失い、時速100km近いスピードで電柱に激突。ウィリアムズはノーヘルで、適切なバイクの免許を持たず、バイクやジェットスキー等の運転禁止というブルズとの契約を破っていた。
  救急搬送先の医師は、ウィリアムズのあまりの惨状に衝撃を受け、足の切断や死まで頭をよぎったという。内臓出血、足の主要神経の切断、骨盤骨折、左足の前十字靭帯を含む数箇所の靭帯断裂。文字通り瀕死の状態だった。医師は両親に連絡を取るよう指示し、すぐさま7時間半にも及ぶ緊急手術を施した。インターネットで今でも事故車の写真を見ることができるが、ハンドルから前が完全に潰れており、ノーヘルで助かったのは奇跡に近かったと思われる。

 15〜16人の医師団による14回の手術と、懸命なリハビリも虚しく、ウィリアムズの身体が元の状態に戻ることはなかった。翌年2月、ブルズはウィリアムズを解雇。掴みかけていた輝かしい未来を失い、鬱状態に苦しみ、自殺を真剣に考えたこともあったという。

 何としてでもコートに戻りたいという強い意志のもと、ウィリアムズは驚異的な回復を見せ、2006年にネッツとトレーニングキャンプ期間の無保証契約を結ぶ。しかし1か月後に契約は破棄。その後Dリーグ(現Gリーグ)に挑戦し契約を勝ち取るも、再び1か月後に解雇される。ロケッツやキャブズ、ヒートなどのトライアウトも受けたが結果は出ず、現役復帰の夢を諦めるに至った。
  ウィリアムズはブルズから解雇された後、モチベーショナル・スピーカー(人々を奮い立たせるような話をする演説家)として活動しながら、『ESPN』、『CBS』などのテレビ局でカレッジ・バスケットボールのアナリストを務めた。2015年にはNBAドラフトの中継番組の解説者に抜擢、翌2016年1月には『Life Is Not an Accident』というタイトルの自叙伝を出版し話題になった。長らく『ESPN』のカレッジ・バスケットボールのアナリストとして活躍していたウィリアムズだったが、2019年、ついにNBAの番組に起用されている。

 一方、ヤオは足と足首の故障に悩まされ続け、2011年のオフに引退を表明。ロケッツが期待した、リーグを制圧し、チームに優勝をもたらすレベルのセンターにはなれなかったものの、オールスターに8度選出され、8シーズンのキャリア平均は19点、9.2リバウンド、1.89ブロック。その人間離れしたサイズや、中国人のスターNBA選手という特異性、そして何より親しみのあるキャラから、多くの企業の広告塔としても活躍した。
  2009年には財政難に陥っていた古巣の上海シャークスを買収。引退後、野生動物の保護運動に情熱を傾け、アフリカに何度も足を運んでいるという。アジアでは今なお象牙や犀角の需要が高く、殊に中国は世界最大の象牙市場。その需要を満たすために横行するアフリカ象やサイの密猟、違法取引、そして消費を食い止めようと、ヤオは2012年にドキュメンタリーフィルムを制作した。

“ヤオのアフリカへの旅”と題されたブログの中で、種の保存のためケニアで保護されている、地球上に3頭しかいない(2016年当時。2年後に最後のオスが死亡し、現存するのはメス2頭のみ)絶滅危惧種キタシロサイと戯れたヤオは、次のように綴っている。

「巨大でパワフルな動物だ。1頭が体を押し付けてきた時、シャックをガードしている時のことを思い出したよ」

 ジェイ・ウィリアムズとヤオ・ミン。2002年のNBAドラフトで主役を演じた2人は、人生の第二幕を、そしてそれぞれ夢に見た道を、まっすぐ、ひたむきに歩んでいる。

文●大井成義

※『ダンクシュート』2016年5月号掲載原稿に加筆・修正。

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