現在の制度ならレブロンの母校となっていた?創部100年以上の歴史を誇るオハイオ州大の歴史【名門カレッジ史】

現在の制度ならレブロンの母校となっていた?創部100年以上の歴史を誇るオハイオ州大の歴史【名門カレッジ史】

2007年にはドラフト1位のオーデン(右上)やコンリー(右下)を中心に全米準優勝を果たしたオハイオ州大。地元出身のレブロンが入学する可能性もあった?(C)Getty Images

ジョン・ハブリチェックら大物選手を多く輩出し、NCAAトーナメントで準優勝4回、優勝1回と輝かしい実績を誇るオハイオ州大。しかし、もし「高卒選手の直接プロ入り禁止」の制度があと数年早く導入されていたら、地元出身の神童レブロン・ジェームズの入学により、さらなる黄金期を築いていたかもしれない。

■第1回トーナメントで準優勝と創設当初から強豪校として君臨

 高校卒業後に直接NBA入りする制度が、2006年のドラフトよりも早く禁止されていたら、レブロン・ジェームズはオハイオ州大(以下OSU)に入学していたはずだ。本人がそう発言していたのだから間違いないだろう。もしそれが実現していれば、OSUのNCAAトーナメント(以下トーナメント)優勝回数は、現在の1回より増えていたかもしれない。OSUバスケットボール部(通称バッカイズ)の歴史は古く、創部は1898年。バッカイ(Buckeye)とはオハイオ州の別名で、トチノキを意味している。

 1939年に開催された第1回トーナメントでは、大会最優秀選手に選ばれたジミー・ハルの活躍で準優勝を果たす。44年からは3年連続でファイナル4に駒を進めるなど、ビッグ10カンファレンスの強豪校として君臨した。
  OSU出身者として初のNBA選手となったのは、46年にピッツバーグ・アイアンメン(現在は消滅)に入団したロジャー・ジョーゲンセン。しかし平均1.5点と爪痕を残せず、わずか1年でリーグから姿を消した。

 48年に卒業したニール・ジョンストンは、その後投手としてMLB入りを目指すも芽が出ず、51年に再びバスケ選手に転向しフィラデルフィア(現ゴールデンステイト)・ウォリアーズに入団。得意のフックシュートで得点を量産し、53年から3年連続で得点王に輝いたが、ヒザを痛めて30歳の若さで引退を余儀なくされた。

 野球つながりで言えば、メジャー通算382本塁打を放ち、日本でのプレー経験もある強打者フランク・ハワードも、OSU時代はバスケットボールのスター選手として名を馳せた。在学3年間で平均17.4点、13.9リバウンド、1試合32リバウンドの学校記録も樹立。57年にはオールアメリカンの2ndチームに選出され、58年ドラフトでは3巡目(全体20位)でウォリアーズから指名を受けたものの、入団せずに野球の道を選んだ。
  48年にロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)に入団したセンターのアーニー・ライゼンは、オールスターに4度選出。ロイヤルズ、ボストン・セルティックスでそれぞれ1回ずつ優勝し、98年にはバスケットボール殿堂入りも果たしている。

■ハブリチェックらを擁し60年に初の全米制覇を果たす

 50年代に入って低迷していたOSUは、58年にOBのフレッド・テイラーがHCに就任し復活を遂げる。60年はジェリー・ルーカス、ジョン・ハブリチェックの2年生コンビやラリー・ジークフリートを中心に、トーナメントでは全試合で相手に17点以上の差をつける圧倒的な強さで初の全米制覇を達成。インディアナ大の名物HCとして知られるボブ・ナイトも、優勝メンバーの1人だった。

 ルーカスとハブリチェックは61、62年もチームに残り、2年連続で決勝に進んだが、両年とも同州のライバル校、シンシナティ大の前に敗れ去った。
  62年のドラフト7位でセルティックス入りしたハブリチェックは、66年から13年連続でオールスターに選出。ビル・ラッセルの引退後は大黒柱を務め、通算で8個のチャンピオンリングを手にした。フィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦した65年のイースタン・カンファレンス決勝の最終戦、試合時間残り5秒で決めたチームを救うスティールは、NBA史上屈指の名シーンに数えられている。61年にロイヤルズから3位指名を受けたジークフリートは、入団を拒否してマイナーリーグでプレーしたのち、63年にハブリチェックのいるセルティックスと契約。粘り強い守備とシュート力に定評があり、66、69年にフリースロー成功率でリーグトップに立っている。

 独特なシュートフォームで有名だったルーカスは、在学中の60年にローマ五輪で金メダルを獲得。代表チームを率いたピート・ニューエルHCに「あれほどアンセルフィッシュな選手を見たことがない」と言われたほど献身的なプレーヤーだった。62年にはテリトリアル・ピック(地域優先指名)でロイヤルズに指名され、翌年に入団。65、66年には2年続けて平均20点、20リバウンドをマークし、73年にニューヨーク・ニックスで優勝を経験した。
  76年を最後にテイラーが退任すると、以降20 年間でトーナメント出場は8回、ファイナル4進出はゼロと以前ほどの強さは失われたが、この間もNBA選手を数名輩出した。インディアナ・ペイサーズなどで活躍したビッグマンのハーブ・ウィリアムズは、同大出身者ではハブリチェックに次ぐ1102試合に出場。クラーク・ケロッグも同じくペイサーズに入団し、1年目から平均20.1点。将来を嘱望されたが、ヒザのケガにより25歳でNBAキャリアを終えている。

 4年間で学校記録の通算2096点を積み重ねたデニス・ホプソンは、87年にドラフト3位でニュージャージー(現ブルックリン)・ネッツ入り。NBA生活は5年と短かったが、その後長く海外リーグでプレーした。トニー・キャンベルは球団創設間もないミネソタ・ティンバーウルブズでエースとして活躍。92年にドラフト4位でダラス・マーベリックスに入団したジム・ジャクソンは、3年目の95年に平均25.7点をマーク。しかしその後は伸び悩み、12球団を渡り歩くジャーニーマンのキャリアを送った。
  86年のドラフト9位でシカゴ・ブルズに入団したブラッド・セラーズは、選手としては大成しなかったものの、現在は生まれ故郷のオハイオ州ウォレンズビルハイツで市長(3期目)を務めている。セラーズがブルズを退団した89−90シーズン、入れ替わりにアシスタントコーチとしてやって来たジム・クレモンズもOSU出身。NBA入りした最初の年、72年にレイカーズで優勝を経験し、コーチとしてもフィル・ジャクソンの下、ブルズで4回、レイカーズで5回頂点を味わった。

■未完の大器のままリーグを去ったOSU史上初のドラ1オーデン

 97年にジム・オブライエン(元ペイサーズのHCとは別人)が指揮官に就任。初年度はカンファレンス最下位に沈むも、翌99年はマイケル・レッド、スクーニー・ペンを中心に31年ぶりにファイナル4まで勝ち進んだ。ところが当時のメンバーの1人、ボバン・サボビッチへの不正リクルートが発覚。サボビッチが出場した1998 〜2002年の試合記録はすべて抹消となり、オブライエンも04年に解任された。
  07年はAAU時代のチームメイトだったグレッグ・オーデン、マイク・コンリー、デイクワン・クックの1年生トリオがチームを牽引。トーナメントでは45年ぶりに決勝に駒を進めるも、ジョアキム・ノア、アル・ホーフォードらを擁するフロリダ大に敗れ準優勝に終わった。同年のドラフトでは、オーデンが同大史上初の1位指名でポートランド・トレイルブレイザーズに入団。コンリーが4位でメンフィス・グリズリーズ、クックは21位でシクサーズに指名された。

 オーデンはケガさえなければNBAを代表するセンターになれた逸材だったが、プレーできたのはわずか3シーズン。通算105試合の出場に終わり、26歳の若さでリーグから去った。さらに直後の2位指名がケビン・デュラントだったこともあり、ドラフト史上有数の失敗として歴史に名を刻んでしまった。クックもNBAに定着できなかったが、五輪陸上金メダリストを父に持つコンリーは年々成績を向上させ、リーグ指折りのPGに成長した。キャリア13年目を迎えた昨季からはユタ・ジャズに在籍している。
  12年にもジャレッド・サリンジャーを軸にファイナル4へ進んだものの、準決勝でカンザス大に2点差の惜敗。以後はやや精彩を欠くシーズンが続いている。昨季のNBAではコンリー、ディアンジェロ・ラッセル(ウルブズ)、エバン・ターナー(アトランタ・ホークス→ウルブズ)、ケイタ・ベイツ・ジョップ(デンバー・ナゲッツ)の4人のOBがプレーした。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2017年9月号掲載原稿に加筆・修正。

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