コインフリップ、ロッタリー、アーリーエントリー制度…73年の歴史を誇るNBAドラフトの歴史を紐解く

コインフリップ、ロッタリー、アーリーエントリー制度…73年の歴史を誇るNBAドラフトの歴史を紐解く

73年の歴史を誇るNBAのドラフトは、様々な制度の変更を経て現在に至る。(C)Getty Images

■アメリカ4大スポーツ史上2番目に古い歴史を持つ

 2019年、ゴンザガ大の八村塁がワシントン・ウィザーズに9位指名され、普段NBAにあまり興味を持っていない日本のスポーツファンの間でも、NBAドラフトが注目を集めた。もちろんアメリカ、そして世界中のバスケットボール好きにとっては、ドラフトはNBAのオフシーズンで最大の関心事と言っていい。大きな期待を背負って全体1位指名された選手が伸び悩んだり、無名の下位指名が大成したりと、これまでドラフトは数多くのドラマを生み出し、数多くの選手やチームの運命を変えてきたのである。

 NBAでドラフト制度が施行されたのは、前身のBAAという名前だった1947年。北米4大スポーツではNFL(36年)に次いで早い時期だった。だが、その頃のプロバスケットボールはビッグビジネスではなく、全体1位で指名されたクリフトン・マクニーリーがプロ入りせず高校のコーチを選ぶほど軽んじられていた。1位指名で1試合もプレーしなかったのは、ほかには八百長事件で追放になったジーン・メルキオーニ(51年)だけだ。
 ■タンキング行為を防ぐためロッタリー制度が導入される

 初期のドラフトで最大の特徴は、テリトリアル・ピック(地域優先指名権)の存在だった。NBAが広く認知されていない時代、リーグの人気を高める方策として、各球団が1人ずつ本拠地にゆかりのある有力選手を優先的に指名できたのだ。

 具体例では、49年のドラフトでセントルイス大のエド・マコーリーがセントルイス・ホークスに、ミネソタ州ハムリン大のヴァーン・ミケルセンがミネアポリス・レイカーズに、それぞれ指名された。テリトリアル・ピックは65年まで続き、のちに殿堂入りを果たすウィルト・チェンバレン、オスカー・ロバートソン、ジェリー・ルーカスらの名選手を含め23人が指名された。そのため、この時代の全体1位は必ずしもその年のNo.1選手とは限らなかった。

 もうひとつの特徴として、66年から1位指名権が牧歌的なコインフリップで決められたことも挙げられる。基本的には前年の勝率が低い球団からウェーバー順に指名するのだが、東西両ディビジョン(69−70シーズンまでこの呼び名だった)に分かれていたため、東西の最下位球団同士が、投げたコインが表と裏のどちらを向くかコールして指名順を決めたのである。
  文字通りこれが運命の分かれ道になったのが69年で、大学バスケット史上最高の選手だったルー・アルシンダー(現カリーム・アブドゥル・ジャバー)を、コインフリップに勝ったミルウォーキー・バックスが手に入れ2年後に優勝。2位指名に甘んじたフェニックス・サンズはいまだに1度も優勝できていない。

 79年もコインフリップで勝ったロサンゼルス・レイカーズがマジック・ジョンソンを指名、敗れたシカゴ・ブルズはデイブ・グリーンウッドと大きく明暗が分かれた。

 85年からロッタリー制度が導入されたのは、ジョージタウン大のパトリック・ユーイングに関係がある。この頃すでに、少しでも上位の指名権を得るため、わざとレギュラーシーズンの順位を下げようとするタンキングは一般的に行なわれていた。85年ドラフトの目玉であるユーイングを獲得する際にも、そのような事態が起こることが十分に予想された。そこで単純なウェーバー順位ではなく、プレーオフに進めなかった全球団に、クジによって1位指名権のチャンスが与えられるようシステムを改めたのである。
  結果的に、第1回のロッタリードラフトでは勝率ワースト1位のインディアナ・ペイサーズではなく、3位のニューヨーク・ニックスがユーイングを引き当てた。大都市の人気球団に目玉選手が入団したことで、不正工作を疑っている人は今でもいる。その後は勝率の低かったチームに有利となるよう確率を変更したり、またクジで決めるのは上位3位までとするなど改善を加えながら、現在もロッタリー制は続いている。

■以前は指名制限がなかったが、1989年から2ラウンド制に

 現在では2巡目60人までの指名となっているドラフトだが、その昔はずっと指名人数が多かった。2巡目までになったのは89年で、初期には制限がなく欲しい選手がいなくなるまで延々と指名できた。60年からは21巡までに制限され、その後NBAがエクスパンションを繰り返して球団数が増えるのに合わせ、74年には10巡、85年からは7巡、88年から3巡と少しずつ減っていった。有名な下位指名選手では、ともに95年ヒューストン・ロケッツの優勝メンバーであるマリオ・エリー(85年7巡目160位)とチャールズ・ジョーンズ(79年8巡目165位)が最も低い部類に入る。
  変わり種では84年、1巡目3位でマイケル・ジョーダンを指名したブルズが、10巡目で陸上界のスター、カール・ルイスを指名。81年はゴールデンステイト・ウォリアーズが8巡目で、八村以前では唯一の日本人選手である岡山恭崇を指名した。

 ウォリアーズは、サンフランシスコを本拠としていた69年には女性選手デニース・ロングを13巡目で指名するも、リーグから無効とされる。そのため、記録上最初にして唯一指名された女性は、77年7巡目のルシア・ハリス(ニューオリンズ・ジャズ)となっている。ルイス、岡山、ハリスのいずれもNBAではプレーしなかった。

 ドラフトにエントリーできる資格も変わってきている。当初は大学で4年間過ごさなければプロ入りできなかったのが、ライバルリーグのABAがそうした制限を設けず、中退した選手たちを受け入れ始めたことなどもあって、NBAも71年にハードシップ・ルール (経済的理由によって早期のプロ入りを認める制度)を導入。76年には経済的状況に関係なくアーリーエントリーが認められ、大学を2〜3年で中退してNBA入りする選手は増えていった。

 70年代後半には高卒選手のモーゼス・マローンが大きな成功を収めたが、高卒即プロ入りが珍しくなくなったのは、90年代後半にケビン・ガーネットやコビー・ブライアントが成功してからのこと。2001〜04年にかけてはクワミ・ブラウン、レブロン・ジェームズ、ドワイト・ハワードの3人が高卒で1位指名された。06年には大学バスケット界との共存を図り高卒選手の指名は禁じられたが、22年からは再度認められるようになる。
  ドラフトは文字通り球団と選手の運命を左右する。前述の通り、ブルズは79年にコインフリップで負けてマジック・ジョンソンを取り逃がしたが、もしマジックが入団していたらすぐに強豪となり、84年にジョーダンは指名できていなかっただろう。マジックとラリー・バードのライバル物語も、レイカーズではなくブルズだったら劇的さは薄れただろうが、その代わりに、同じカンファレンスになってレギュラーシーズン中に何度も戦っていたはずだ。

 制度に多少の手直しはあっても、ドラフトを巡る様々なドラマは、今後もファンの関心を呼び続けるだろう。

■ドラフト年表
★1947年7月1日、ミシガン州デトロイトで第1回ドラフトが開催。80人が指名を受ける。 
★1949年、本拠地にゆかりのある選手を優先的に指名できるテリトリアル・ピックを導入。
★1960年、ドラフトラウンドが史上最長の21巡目に達する(1968年も同様)。 
★1966年、テリトリアル・ピックを廃止し、前年の東西の最下位球団がコインの裏表で1位指名権を決めるコイントス制度を導入。 
★1970年、史上最多となる239人が指名される。 
★1971年、経済的な理由がある選手が早期にプロ入りできるハードシップ・ルールを導入。
★1976年、大学を卒業せずにプロ入りできるアーリーエントリー制度を導入。 
★1980年、ドラフトのテレビ中継がスタート。 
★1981年、岡山恭崇が8巡目171位でウォリアーズから指名される(入団せず)。 
★1985年、前年にプレーオフ出場を逃したチームが、抽選で指名順位を決めるロッタリーシステム制度を導入。
★1989年、ドラフトラウンドが2巡目まで縮小。
★2001年、クワミ・ブラウンが高卒選手として初のドラフト1位指名を受ける。
★2002年、中国人のヤオ・ミンがアメリカの大学でプレー経験のない外国籍選手として初の1位指名を受ける。 
★2006年、高校生のドラフトエントリーが廃止に。

文●出野哲也

※『ダンクシュート』2018年3月号掲載原稿に加筆・修正。

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