「満足すれば、そこで成長は止まってしまう」変わり続ける道を選ぶ、パナソニック・清水邦広の矜持

「満足すれば、そこで成長は止まってしまう」変わり続ける道を選ぶ、パナソニック・清水邦広の矜持

今年35歳を迎える清水だが、バレーに対する向上心と競技を盛り上げたいという思いはとどまることがない。写真:北野正樹

バレーボールの日本代表元主将で、右膝の大けがから復活したパナソニックのエース・清水邦広(34)が、東京五輪での代表を目指し今シーズンのV1リーグで躍動している。アタック決定率7位、サーブ効果率は西田有志(ジェイテクト)に次ぐ2位で、11勝3敗で名古屋に次ぐ2位のパナソニックをけん引している。

 海外リーグで力をつけた石川祐希(イタリアセリエA・ミラノ)や柳田将洋(サントリー)に加え、若きエース西田の台頭で、一昨年のワールドカップ(W杯)では大会初の8勝を挙げ4位につけた「龍神NIPPON」だが、代表登録メンバー27人のうち、五輪経験者は清水と、パナソニックからレンタル移籍されフランスのプロリーグでプレーをする福沢達哉の2人だけ。求められるのは、当時、38歳で主将として2008年北京五輪に導いた荻野正二(サントリー・アンバサダー)のチームリーダーとしての役割だろう。20歳で代表入り後、愛称の「ゴリ」に似合わず、シャイで言葉を選びながら話す姿が印象的だった若きエース。しかし、結婚・離婚や選手生命を絶たれるほどの大怪我を経て代表に復帰した今、SNSなどで3枚目を演じて笑いを取ってファンとバレーの距離を縮めようとするなど、その姿は大きく変わった。「批判は覚悟。少しでもバレーに興味を持ってもらうようにするのが僕の務め」と言い切る清水に、秘めたる覚悟をにじませる。
  昨年10月5日、リモートで行なわれたV1リーグ男子の開幕前記者会見に先立って開催されたファンを対象としたイベントで、清水が新しい姿を披露した。10チームの7番目に主将の深津英臣と登場した清水は開口一番、「待ちくたびれた」と笑いを誘い、以後は、髪の毛の薄い深津の頭をいじって他チームの選手らの爆笑を取るなど、出席したどのチームより目立ってパナソニックをアピールした。

 記者会見では、もちろんおふざけはなく報道陣の質問に真面目に答えていたが、イベントでの姿と180度違う立ち居振る舞いは、清水の大きな変化を感じさせるものだった。
 
 なぜ、清水は変わったのか。昨年、本拠地・パナソニックアリーナ(大阪府枚方市)で、ぶつけてみた。清水は「ああいうファンの前や公共の場でのイベントでは、堅苦しくなると『面白くない』という人が出てきてしまう。少しでも面白くすることで興味を持ってもらえる。『あのチーム、面白いじゃん』と興味を持ってもらうのも一つの手かな(と思った)。メディアの中では個性を出しながら、個々の選手の魅力を伝えるのも一つの手だと思う」と、バレーやチームに関心を持ってもらうための手段であることを説明した。
  それにしても、超一流の選手がそこまで自分をさらけ出すことに抵抗はないのだろうか。重ねて聞いてみると、「もっともっと注目を浴びるためには、アピールをしないといけいない。今、スポーツ界で野球やサッカー、バスケットなどいろんな人気スポーツがある中で、バレーがそこに食い込んでいくには、もっとファンを獲得しなければならない。(Vリーグ機構やチームなど)運営側もそうだが、選手自身も考えなくてはいけない」と、バレー界を取り巻く危機感が行動の背景にあることを説明した。

 そうした考えは以前にはなかったといい、「(ファンの前で3枚目を演じるようなことは)昔の僕ならできなかった。最近ですね、そう考えるようになったのは。チームのSNSを通しても、バレーの楽しみ方を一つでも多く提供している。模索しながらやっている」という。

 大エースがそこまでしなくても、という批判もあるかもしれない。しかし、「言われたことはないが、批判されるもの注目の一つ。なんぼでも批判してくれていい。興味がないと批判もない。興味を持ってもらえるよう、最初の一歩を踏み出してもらえるようにしていきたい。客寄せパンダと言われてもいい。もっと露出することでテレビやSNSの中で知ってもらえて興味につながる。それをしないでバレーだけやっていたらいいと言っても、お客さんは来てくれない」と意に介さない。
  福井県で生まれ、ママさんバレーをしていた母の影響で小学4年からバレーを始めて以来、常に注目を浴びてきた。
 
 美山中学時代にバレー人生を決める出会いがあった。バレーかバスケか迷っていた清水に、「お前をすごい選手に育ててやる」と勧誘してくれた松本義昭先生。選手では、サントリーのXリーグ5連覇に貢献したジルソン(元サントリー監督)。高校の先輩でもある荻野の出身地、福井市で開かれたXリーグを観戦し、ジャンプ力と相手ブロックを打ち抜くパワーに圧倒された。ここでも、松本先生からかけられた「『すごい』という選手は、日本中に何人もいる。(ジルソンのように)『わあ、すごい』と言われる選手になりなさい」という言葉が、その後の清水を支えることになる。

 東海大卒業後、一緒に入団し、ライバルから親友に代わった福沢との出会いも、中学時代。「初めての大舞台だった」という2001年の「JOCカップ 第15回都道府県対抗中学バレー」には3年で福井代表として出場。2回戦で敗退したものの、191センチの長身とサウスポーから繰り出すパワフルなスパイクで、最優秀選手賞の「JOC・JVAカップ」と、「五輪有望選手」を木村沙織(元日本代表女子主将)とともに受賞した思い出深い大会だ。「田舎育ちで井の中の蛙だったが、隣県の京都選抜の福沢のジャンプ力を見て、もっとうまくなるためにはもう一段上のライバルを見つけることが大事だと思い知らされた」という。

 福井工大付属福井高を経て進学した東海大時代の2007年に代表入りし、08年の北京五輪には福沢とともに21歳で代表に選出された。パナソニックでは、2009〜10年シーズンに2年ぶりの優勝に貢献し最高殊勲選手賞(MVP)、スパイク賞などに輝き、2010年には黒鷲旗全日本選抜男女選手権でチームを3連覇に導いた。
  順風満帆のバレー人生の歯車が大きく狂ったのは、18年2月18日。Vプレミアリーグ、「ファイナルステージ ファイナル6」のJT戦で、スパイクを打って着地した際に、右膝を痛めてコートに倒れ込んだ。右膝前十字靭帯損傷で全治12か月の大けがだった。右足甲を骨折した16年に続く長いブランクを伴う故障だったが、復帰後も感染症などで再入院を余儀なくされ、代表として国際親善大会のコートに戻ったのは19年8月のことだった。

「正直言って、もう辞めようと思ったこともあった」と振り返るが、揺らぐ思いを踏みとどまらせたのは、1勝もできなかった北京五輪と、その後の世界最終予選で五輪出場を逃し続けたことに対する日本代表のエースとしての自責の念だ。北京五輪では「出場するだけで満足してしまい、何もできなかった」といい、12年シドニー、主将で臨んだ16年リオデジャネイロ両五輪の出場権を逃し「男子バレーを低迷させた」と今も自らを責める。
 
 今季のリーグ戦はコロナ禍でも予定通り開幕できたものの、フランス代表監督のまま就任したティリ監督の来日が開幕直前まで遅れ、5月からの公式戦がなくぶっつけ本番で臨んだ。しかし、フランスからのリモートの指導で、例年よりボールを使った実戦的な練習が増えたことから、「ここ数年で一番激しく、質の高い練習をしてきた。練習時間は変わらないが、ボールに触わる時間が増え、サーブのスピードも上がった」と練習の成果を実感している。
  東京五輪が予定通り1年延期で開催されると、大会直後の8月11日に35歳を迎える。345センチあったスパイクの最高到達点は15センチも下がり、パフォーマンスの衰えは隠せない。しかし、かつてのように100%ではなく、30%の力でも相手守備陣の穴を突き、相手の力を利用したブロックアウトで得点を挙げるなど、プレースタイルを変えて対応している。

「まず、代表に選んでもらうこと」と言葉を選びながらも、目指すのは郷土のレジェンド・荻野。「若手と一緒にトレーニングをこなし、チームを引っ張ってくれた」と現在、代表登録メンバーの最年長の自分の姿に重ねる。

 座右の銘は「小さな積み重ねがのちに大きな変化を生む」。右膝の大怪我をした際、当時のコーチ、モッタ・パエス・マウリシオさんから「今は実感ができないかもしれないが、リハビリをコツコツと重ねることで大きな変化が生まれるから、頑張れ」とかけてもらった言葉だ。

「これが限界だと思って満足すれば、そこで成長は止まってしまう」「僕には伸びしろしかない」。大怪我からの復活を果たした自負が、言葉にみなぎっている。

文●北野正樹(フリーライター)
きたの・まさき/1955年生まれ。2020年11月まで一般紙でプロ野球や高校野球、バレーボールなどを担当。南海が球団譲渡を決断する「譲渡3条件」や柳田将洋のサントリー復帰などを先行報道した。
 

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