大谷翔平との対戦で吉見一起が実感した野球の醍醐味

2017年からの5年間でAクラスは1度と、低迷している中日ドラゴンズ。2022年からは立浪新監督のもとチームの立て直しをはかるが、近年の中日で黄金時代といえるのが落合博満氏が監督を務めていた2004年から2011年だ。

2006年から“竜のエース”として、リーグ優勝と日本一に貢献したのが吉見一起氏が、現在の中日ドラゴンズに愛のある提言! 自身が現役だったときに、大谷翔平選手との対戦で感じた野球の醍醐味と、当時のチームが抱えていた大きな課題について語る。

※本記事は、吉見一起:著『中日ドラゴンズ復活論 -竜のエースを背負った男からの提言-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

(写真:中日新聞社)

■大谷翔平との投げ合いで無念の途中降板

中日ドラゴンズのユニホームを脱ぐ覚悟を決め、他球団でもプレーしない気持ちを固めた僕が、現役引退をフロントに伝えたのは2020年10月30日でした。

そして、光栄なことに11月6日のヤクルト戦での引退試合を行うこともできましたし、先輩の和田浩一さんからも「ヨシ、自分で選べるんだから幸せだぞ」と言っていただきました。

もちろん、引退の決断に至るまでさまざまな葛藤があり、今にして思えば……ということもあります。それは「もう少し自分の商売道具である体に対して神経を尖らせるべきだったかな」という点です。

僕は2015年に国内でトミー・ジョン手術を受けましたが、このトミー・ジョン手術、米国には専門の執刀医やスタッフも多く、やはり向こうが本場。最も大事にしていた術後のリハビリに関しても、米国ではマニュアルが確立されており、メジャーに在籍した際に同じ手術を受けた投手は、パフォーマンスを落とすことなくプレーしています。

術後、長いリハビリ期間を経て、僕はおよそ1年後の2014年7月8日に神宮球場で行われたヤクルト戦で戦列復帰を果たします。結果、5イニングを投げ3失点という内容でしたが、無事に1軍の舞台に帰ってこられました。

もちろん、トミー・ジョン手術を受けるまえより、右肘の状態は向上しています。ただ、しっくりいかない“何か”を感じていたのも確かです。

2015年も、チームは僕の右肘の状態を考慮してくれて、出場選手登録と抹消を繰り返しながら、中10日以上の間隔での登板が続きました。そんななかでも、4月1日の読売ジャイアンツ戦で6イニング無失点のピッチング。この初勝利を皮切りに、4月23日のヤクルトスワローズ戦でも7イニング無失点で2勝目を挙げるなど、なんと開幕から20イニング無失点が続きました。

「いける。戻ってきた」

秋田で行われた5月9日のヤクルト戦も6イニング1失点。ここまでの通算防御率は0.55。この時期は、ようやく確かな手応えと自信が芽生え始めていました。

ただ、しっくりいかない“何か”が、また顔をのぞかせます。5月30日の交流戦の日本ハム戦。あの大谷翔平(現ロサンゼルス・エンゼルス)と敵地で投げ合った試合で、また右肘が悲鳴を上げ、3イニングを終えたところで降板。2軍落ちを余儀なくされました。

迎えた8月5日の横浜DeNAベイスターズ戦。5イニングで71球を投げ、1失点となんとか試合をつくったのですが、自分の中では納得いく投球ではありませんでした。

さらにウエスタン・リーグでは出なかった右肘の痛みに加え、右手首付近と右腕全体の痛みも出始めました。試合では幸いにも打ちのめされませんでしたが、僕は心の中をめった打ちにされた試合となりました。 

▲昨シーズン限りで引退したが、“二刀流”大谷翔平との対戦が今なお印象強い 写真:中日新聞社

■ナゴヤドームで打者・大谷翔平と対戦!

右手首付近の痛みは、右肘のトミー・ジョン手術が原因でした。右肘の動きが制限されることで、右手首下に悪い影響を与えたためで、癒着していた神経の剥離手術をオフに受けました。これでトヨタ自動車時代から数えると通算5度目の手術です。

そして迎えた2016年シーズン。ここから僕の野球人生はもがき、あがき、苦しむ……そんな試練の連続でした。5度目のメスを入れて右手首付近の痛みこそ消えましたが、大きな代償を払うことにもなりました。この手術で微妙な指先の感覚が狂ってしまったのです。

握力は変わらず60ぐらいあります。ただ、ボールを握った際、言葉で表現しにくいのですが、常にむくんでいると言ったらいいでしょうか。手がしびれたときに物を持つと妙な違和感に襲われるのと同じような感覚です。ボールの縫い目にかける指先の感触も、それまでとは変わってしまいました。

「あれ、シュートってどうやって握るんだったっけな」

時として、こういう状態に陥るケースすらありました。心の奥底では、絶望に打ちひしがれ、投手としての命が絶たれるときが刻一刻と迫っているのを感じずにいられませんでした。大げさにいえば、別人の手になっていたのです。右手薬指は今も動きが悪く、感覚もおかしくなったままです。

ただ、そんな手負いの状態でも、モチベーションがおのずと高まり、アドレナリンが出た試合もあります。

それは2016年6月19日、北海道日本ハムファイターズとの交流戦です。3勝1敗の星取りで迎えたその日、僕は本拠地のナゴヤドームでシーズン9試合目のマウンドに立ちました。そして、マウンドとバッターボックスに立った相手は、当時プロ4年目で前代未聞といえる二刀流を継続していた大谷翔平です。

セ・リーグの本拠地球場での試合のため、指名打者制度はなく「5番・投手」で出場。次代のスーパースター候補である大谷と投げ合い、そして打者・大谷と対戦できる……プロ野球選手の先輩として意地を見せるというより、少年のようにワクワクするような楽しみのほうが上回っていました。

登板前からメディアに対しても「大谷君に黒星をつけたい」と堂々と公言。これを有言実行とするために自分を鼓舞する狙いもありました。と同時に、雪辱したい気持ちもありました。約1年前の15年5月30日に、同じ交流戦の日本ハム戦(札幌ドーム)でも、大谷翔平と投げ合いましたが、試合中に右肘が悲鳴を上げてしまい、3イニングを終えたところで降板。2軍落ちを余儀なくされたことはすでに述べました。

しかも、大谷とはリーグが違うので、交流戦や日本シリーズでしか対戦できません。登板前から「打倒大谷」に全神経を集中させたのです。

まず、立ち上がりを三者凡退で抑えた僕は、2回も先頭の中田翔を空振り三振に仕留めて1アウト走者なし。そして大谷との初対決を迎えると、僕が投じた外角シュートは中前にきれいにはじき返されました。なにせ打球の飛び方と打球音が違う。それはとにかく強烈でした。

僕は打者・大谷とは、この1試合しか対戦がないので深く語りづらいところはありますが、セ・リーグで僕が強打者と位置づけていた読売ジャイアンツの小笠原道大さんや、アレックス・ラミレスと同じく異次元な存在。このふたりは配球をよんで「待ってました」とばかりに自分のポイントまで引きつけて打つタイプ。

大谷の場合は、穴も大きいとは思いますが「的を外しても対応してくるんだろうな」という印象で、とにかく打撃センスの良さを感じました。

迎えた4回の第2打席。2球目に内角低めにスライダーを投げ込むと、大谷は強振しましたが、打球はレガースで覆われていない右スネ付近を直撃。苦悶の表情を浮かべて大谷はいったん治療のためベンチに戻りました。プレー再開後、僕は意図して同じ内角低めに球を投げ続けました。

言葉は乱暴ですが、僕は「いい打者ほど潰さないといけない」と思っています。その答えは内角攻め。要注意打者には、そこを攻めないと打ち取れないんです。内角に1球投げてファウルを打たせたら、次は外角へという配球はナンセンス。僕の中でこの組み立ては、基本的にセオリーにはありません。

「内角を打たれるまでとことんいったろ」

これこそが、僕が強打者と認める相手に対する考え方です。大谷が治療から戻ってくるまえからそう心に決め、結果、描いたとおりに三振を奪いました。してやったりの投球ができたので、僕の心を満足感が支配しました。

■当時のチームが抱えていた深刻な課題

後日、大谷は「制球が抜群で、自打球が当たったあとにもう一度、同じ球を投げられるあたりはさすがだなと思いました」と話したそうです。第1打席に強烈すぎる中前打を浴びただけに、まさしく溜飲を下げる三振でした。

続く第3打席は6回2死走者なし、0-0のスコアレスの局面でした。フルカウントになったとき、僕には「最後まで内角攻め」という配球が頭にありましたが、制球ミスによる一発長打の危険を感じ、外角のフォークを選択しました。

状況を考えれば、この配球は間違いではないと思いますが「打たれたくない」という気持ちが指先にも表れたのかもしれません。フォークは外角へのボールとなり、四球で歩かせてしまいました。

この1球だけは今でも悔いが残っています。しかも、続く6番のブランドン・レアードに左翼線への二塁打を浴び、俊足の大谷が本塁を駆け抜け先取点を献上。この1失点で敗戦投手となりました。

一方の投手・大谷は、8イニングを投げ被安打2、四球1、三振12の快投で6勝目をマーク。結果は僕の完敗ですが、とにかく「大谷を倒したい!」という気持ちが僕を奮い立たせたのは事実ですし、野球の醍醐味を存分に味わえました。

そんな大谷との激突が記憶に残る16年シーズンは、21試合に登板し、投球回数は131イニング3分の1、6勝7敗、防御率3.08。

かつての僕の姿を期待したファンの方には、物足りない数字といえるかもしれません。でも、当時は口にこそしませんでしたが、僕の中では十分過ぎる結果という感触を持っていたのは確かです。

でも、自分が培ってきたテクニック・経験・洞察力という「引き出し」をフルに使い、なんとかいい結果を導き出していく作業は予想以上にしんどく、精神的にも肉体的にもこたえる日々でした。

それまで簡単に抑えられていたのに抑えられない、簡単に勝てていたのに勝てない……苦労している自分をいざ目の当たりにすると「落ちてきているな」と実感せざるをえません。

しかも、当時のチームは、扇の要で絶大な信頼を寄せていた谷繁元信さんが引退してから正捕手不在の状況。僕は「捕手を育てる」と公言こそしていましたが、実際はそこまでの余裕はありません。マウンドに上がれば、そんな自分と向き合わなければならず、メカニックや体のことで手一杯。とても若手捕手のリード面にまで頭が回りませんでした。

そして、この「正捕手不在」という現実は、その後もチームを苦しめることになるのです。

▲トミー・ジョン手術後は悩み、苦しむ中でも、懸命の投球を続けた 写真:中日新聞社

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