高校生の同級生が証言、三沢光晴の無尽蔵のスタミナの原点

「さりげなく命がけという生きざま」をリングで見せてくれた三沢光晴。昨年、そんな彼のノンフィクション大作を上梓した元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏が、幼少期、アマレス時代、2代目タイガーマスク、超世代軍、三冠王者、四天王プロレスを回顧しつつ、三沢の強靭な心をさまざまな証言から解き明かす。その初回は、高校時代の同級生・渡部優一氏だけが知る、三沢、青春時代のヒトコマ。

■プロレスは見るスポーツではなく、やるスポーツ

「練習が終わったあと、三沢が道場の外にあるベンチプレス台に横になっていたんですよ。バーベルを挙げている雰囲気がなかったので“どうしたのかな?”ってよくよく見たら、泣いてるんですね。“どうしたの、三沢?”って聞いたら“俺、母子家庭だからさ、かあちゃんのこと思い出して、元気かなって思って……”って。

入学したときから『プロレスラーになる』って言っていて“プロレスが好きっていうのももちろんあるけど、早く稼いでかあちゃんを楽にさせてあげたいから”って。お父さんのことは残念ながら“あの野郎、来たらぶっ飛ばす!”って言ってました。具体的なことは言わなかったですけど、きっと相当なことが子どもの頃にあったんでしょうね」

足利工大附属レスリング部で同期の渡部優一はこう述懐する。

複雑な家庭環境のなかで、早くからプロレスラーを目指していた三沢光晴だが、名門・足利工大附属高校に進学するまで格闘技経験がない。小学生の頃は、陸上の短距離走と走り高跳びの選手で、高跳びでは5年生と6年生のときに越谷市の大会で優勝している。

また、バック転も小学生の頃からできたというから、跳躍力や運動神経は天性のものだったようだ。続いて、中学に進学した三沢が選んだ部活動は器械体操。跳馬、鉄棒、床の3種目。これは後年、プロレスに役立っている。

「純粋にファンとして見ているぶんには、ほかの格闘技にはない空中殺法を使う選手が好きだったよね。藤波(辰巳/現・辰爾)さんは俺が高校のレスリング部に入ったぐらいのとき(78年3月)にアメリカから凱旋帰国してきたから、憧れの選手だったけど、中学時代に特に誰かに憧れたとかはなかったね。たまたまテレビを見ていて“やりたいなあ”と思ったの。

新日本はあんまり見てなかったけどね。今にして思えば中学生の愚かな発想だったんだけど(苦笑)、ぶっちゃけ、テレビを見てて“俺だったら、こうすんのになぁ”っていう気持ちが強かったんだよ。でも、そんなことは若手の頃には言えないでしょ。先輩や記者の人たちに“俺だったら、もっと面白くなるのになぁと思う気持ちが強くなってプロレスラーになりました”なんて言えないでしょ(笑)」

中学2年生の三沢少年にとって、プロレスは「見るスポーツ」ではなく「やるスポーツ」であり、最初からプレイヤー目線で見ていたのである。

そんな三沢は、中学卒業と同時にプロレスラーになることを決意する。中学3年の進路相談の際に、希望欄に「プロレスラー」と書き、担任の先生に「ふざけないで、ちゃんと考えなさい!」と怒られ、女手ひとつで育ててくれた母親にも「高校ぐらいは行きなさい」と反対されてしまった。

結局、担任と母親の「アマレスの強い高校に入って、基礎を学んでからプロレスラーになっても遅くないでしょう」という必死の説得を受け入れた三沢は、レスリングの名門・足利工大附属高校に進学した。

▲渡部優一氏が手にしているのは、三沢が息子・修斗に贈ったタイガーマスク

■名門・足利工大附属に特待生として入学

63年に大島大和(現在は「日本レスリング協会」関東ブロック選出評議員)が創部した足利工大附属レスリング部は、のちに新日本プロレスに入団する谷津嘉章が73年の千葉国体でフリースタイル75kg級優勝、翌74年にも谷津がインターハイのフリー75kg級で優勝、さらに76年と77年の2年連続でインターハイ団体優勝という実績を持つ名門校。三沢が入学したのは78年だ。

三沢と時を同じくしてレスリング部に入部したのが、冒頭に登場した渡部優一である。格闘技イベントRIZINなどで活躍する渡辺修斗の父親で、3年生のときにはレスリング部の主将(三沢は副主将)を務め、日本大学に進んでからもレスリングを続けた。

その後、佐山聡に弟子入りしてプロ格闘家となり、初代修斗ウェルター級(現・修斗世界ライト級)王者として活躍。現在は掣圏真陰流興義館(せいけんしんかげりゅうこうぎかん)館長を務め、さらに佐山主宰のストロングスタイルプロレス(=リアルジャパン・プロレス)では、仮面シューター・スーパーライダーとしてファイトしている。進む道は違ったが、ずっと交流を続け、三沢が心を許していた人物だ。

「僕は中学の頃にちょっと柔道をやっていて、足利の大会に出たんです。僕は群馬の太田の選手だし、ネットも何もない時代だから知らなかったんですけど、その時にたまたま勝った相手が栃木県のチャンピオンだったんです。白帯の僕が、黒帯で超有名な選手に一本で勝っちゃったから、その噂が足利工大の大島先生の耳に入って“その選手を探せ!”と。

で、僕の父が地元の足利で若い頃に柔道を教えていたこともあって、父の知り合いの地元の柔道関係者が“その選手は私の知り合いの息子だから紹介してあげるよ”という形で大島先生にご紹介いただいて入部しました」と、渡部はレスリング部に入部した経緯を語る。

当時、大島監督は2年後の80年に開催される地元・栃木での栃の葉国体で、3年生として戦える有望な人材を探していた。そこで柔道経験者の渡部を特待生としてスカウトしたのはわかるが、格闘技経験がまったくない三沢も特待生としてスカウトされた事情を渡部はこう説明する。

「当時は、今のようにちびっこレスリングとかはないですから、中学までは柔道をやっていて高校からレスリングを始めるというケースが多かったですよね。三沢の器械体操からレスリングを始めるというのも異例でしたけど、野球とかハンドボールとかで中学のときにちょっと有名だった人間が集まってましたよ。

三沢に初めて会ったのはレスリング道場だったんですけど、三沢が“体操をやってたんだ”って言うから“どうして体操からレスリングに?”って聞いたら“俺は別にそんなにレスリングには興味ないんだよね。でもプロレスラーになりたいから、アマチュア・レスリングはプロレスラーになるための修行としてやるんだよ”って。ホント、レスリングそのものには全然興味がなかった感じでした」と、渡部は笑う。

三沢はルールもろくに知らない状態で、入部してすぐの練習試合に出場。初心者にもかかわらず勝ち星を挙げて監督を喜ばせたというが、実際に期待は大きかったようだ。

「三沢は最初から先生たちに“こいつは強くなるぞ!”って注目されてましたね。あんまりイメージが湧かないと思いますけど、三沢はとにかく力が強かったんですよ。器械体操をやっていた関係なのか、腕力がすごくあったんです。それでリーチもあるから、片足タックルを教えると、手が相手の足に引っ掛かった瞬間にバッと引きつけて倒すんで、1年生の頃から先生たちは特別に三沢に目をかけていた感じです。

その後、三沢は片足タックルを取って倒して、背中を向けた相手のバックを取ってエビ(=クレイドル・ホールド)で丸めてフォールする。あるいは相手がタックルに入ってくるのを潰して、バッと回ってエビという戦法を得意とする選手になりました。腕力が強くて、あの階級(70kg級)ではリーチが一番長かったから、背中に回って、首と足を取ってグーッと回してフォールするんです。でも、本人はあんな感じで淡々としてましたね(笑)」(渡部)

▲練習に明け暮れた足利工大附属レスリング部時代(左から3番目が三沢)

■寮生活で培われた三沢の無尽蔵のスタミナ

レスリング部の特待生は寮生活というのが決まりだった。渡辺が証言するその寮生活は――。

「寮は学校の敷地内にある一軒家でした。6畳あったのかなあ? そこに布団敷いて4~5人で寝るみたいな。僕は押入れの下の段で寝てましたね。食事は、朝は給食センターが弁当を届けてくれて、昼は職員の食堂で先生方と同じものを大盛りで食べて、夜は近くの食堂に行くと出来上がっていて、それを食べてました。

当時は今みたいに栄養学みたいなのがなくて、大したものは食べてないですよ。いつもみんな空腹でした。お菓子とかジュースは禁止だったんですけど、夜になると先生たちは帰っちゃうんで、そのあとに学校の裏にある10時ぐらいまでやっているお店によく行って、パンとかお菓子、ジュースを買ってました。僕たちは『裏店』って呼んでましたよ」

渡部が「アマチュアとはいえ、レスリングやるために高校に来ているような、学生のプロみたいでした」と振り返る生活は、朝の6時から8時近くまで校庭をランニングしてから授業を受け、昼は昼食が終わると道場の脇にあるバーベルセットでウエイト・トレーニング。午後は授業終了後の4時から8時ぐらいまで練習をしていたという。

「20分1ラウンドなんていうスパーリングを2連チャン、3連チャンでやるんです。最低2連チャン。その間、浦野(和男)先生もずっと唸りっぱなしですからね。やってるほうもやってるほうだけど、今思うと、よくあれだけの時間、唸ってるほうも唸っているほうだなって(苦笑)。

休みは大晦日と元旦だけですね。ああ、日曜日だけは朝練が休みでした。9時から12時の3時間はスパーリングとかの練習をやりますけど、その後は解放されるので日曜日だけはちょっと休めましたね」(渡部)

朝練の基本は6時からのランニングだが、時には起きるとすでに寮の前でバスにエンジンがかかっていて、なんの通告もなしに乗せられ、名草(なぐさ)という山を登り、峠を下りきったところで降ろされて走らされる“根性ランニング”というのもあったそうだ。学校までちょうど20kmの距離だったというからハードだ。

「到着するのが6時半ぐらいで“今から2時間以内に走って帰ってこないと、授業に間に合わないぞ!”と言われるんです。当時は携帯電話なんてないから“何かあったら、電話をよこせ!”って公衆電話を使うための10円玉を1個だけくれて、先生たちはバスに乗って帰っちゃうんですよ(苦笑)。起きぬけに、いきなりバスで連れていかれるから、走っている途中にお腹が痛くなるヤツもいました。そうすると川の中で大きいのをして、素手で川の水でケツを洗ったりとか、もうメチャクチャですね(笑)。

そういう日常だから授業中はほとんど寝てました。あんまり大っぴらに寝てると怒られますけど、当時は先生方もおおらかだったんで、試合前とかは“渡部、明日は試合なんだろ? 寝てろ、寝てろ。お前が負けると俺が言われちゃうから、休んどけ”って(笑)。当時はほんとに練習と食事以外は少しでも寝ていたいっていう感じでしたね」(渡部)

この“根性ランニング”のことは三沢、渡部の1年後輩で、のちに三沢を追うように全日本プロレスに入団する川田利明も憶えていて「山の奥に置いてこられちゃうから、まず土地勘がない人は帰ってこれないよ。先輩たちは土地勘があるから帰ってこられるけど、土地勘がなかったら、走ったって走ったって、全然違う方向に行っちゃって帰ってこれないと思うよ。

で、走って早く帰ってこないとフルーツジュース……、フルーツジュースって言っても、果汁10%ぐらいの安いのがテトラパックで何本か置いてあって、帰ってきた順にそれをみんなが口飲みするんだけど、遅く帰ってきたら、飲むものが何もないの」と振り返る。

三沢のあの強靭なスタミナは、こうした高校時代のハードな練習がベースになっているに違いない。

▲写真は栃の葉国体の出場選手と指導者の資料(下段左から2番目が三沢)

※本記事は、小佐野 景浩​:著『至高の三冠王者 三沢光晴​』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。 

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