「ノーヒットノーランのお祝いしてくれて…」ビッグボス新庄と六本木の夜

大学までプロから見向きもされず、野球の道を諦める寸前まで行ったが、社会人でサイドスローに転向し、プロ野球の世界へと進んだ川尻哲郎さん。1年目から8勝をあげ、1998年にはノーヒットノーランを記録。そしてこの年、川尻はもうひとつファンに鮮烈な印象を残す。

▲ノーヒットノーランを達成したスコアには来店した有名選手のサインが

■清原と古田の説得が作った日米野球完封未遂

この年、川尻さんはもうひとつ、プロ野球ファンに大きなインパクトを残した。それが1998年オフの日米野球、大阪ドームで行われた第4戦で、MLB通算200勝を超える大投手、カート・シリングと投げあい、日米野球史上初となる完封が目前に迫る、歴史に残る好投を見せた。

「これにはね、裏話があって。実は、最初は日本代表にも選ばれてなくて、先発の予定もなかったんだ。この前の1996年、日米野球に初めて選ばれて、甲子園で投げさせてもらったんだけど、すごく楽しくて。今年も出たいなって思ってたんだけど、選ばれなくて。

残念だなって思ってたんだけど、長嶋さんと仲のいい記者の方と俺も知り合いだったから“もし怪我人とか出たら、川尻が出たがってたって伝えてください”って、その方に言ってたんだ。そしたら本当に欠員が出て、俺に声がかかったんだよね。サイドスローっていうのもあったのかもしれないけど、あ、本当に長嶋さんに伝えてくれたんだ、って(笑)」

ここでもサイドスローであることが功を奏したのか。ただ、あくまで欠員の補充だった川尻さんに先発の予定はなかった。

「前の試合が福岡ドームで、福岡から大阪の移動中にコーチだった尾花さん(尾花高夫)に呼ばれて、“先発予定だった西村(龍次)が肘が痛いって言ってるんだけど、川尻、お前投げられる?”って言われて、大阪だったし、“あ、いいっすよ”って軽く答えて」

当時のスタメン4番は、この年シーズン66本のホームランを放ったサミー・ソーサ。そのほかに、マニー・ラミレス、カルロス・デルガドとクリーンナップだけで、ゆうに100本を超えるホームランを放った、言わば銀河系軍団だ。

「でも、なんかスイスイ抑えちゃったんだよね。もともと5回くらいの予定だったんだけど、0点に抑えてるから、“じゃあ、あと2回くらい行けるか?”って言われて、それも“良いっすよ”って軽く答えて。で、また抑えちゃって。7回抑えたから、これで終わりだってロッカーに引き上げようとしたんだよね」

すると、同じく日本代表だった清原和博と古田敦也が追いかけてきたらしい。

「“今まで日米野球で完封した投手っていないんだぞ”って。“だからお前もう少し投げさせてくださいって長嶋さんにお願いしろよ”って言われて、俺は“ああ、そうなんだ”くらいの気持ち(笑)。で、長嶋さんのところに行ったら“いいよ〜”ってあっけなく(笑)」

▲試合を思い出しながら、悔しい顔を見せる瞬間も

そのまま続投した川尻さんは8回も抑え、いよいよ完封目前の9回を迎える。

「そこで、1番のビンニャだったかな、デッドボールを与えちゃうんだけど、今見たら完全に当たりにいってるんだよね、足を出して(笑)。で、そのあとピンチが広がっちゃって。1−0だったし、もう少し点差があったら続投させてくれたのかもしれないけど、大阪ドームだったから、当時近鉄の大塚(晶文)も投げさせなきゃ、みたいな兼ね合いもあって投手交代したんだよね」

大塚が後続を抑え、見事に日本はアメリカに1−0で勝利する。川尻さんの好投にアメリカが本気を出した、9回の攻防だった。

「でも、まあ……投げたかったよね、今になって思うと(笑)。ただ当時“なんで長嶋さんは代えたんだ”って、いろいろな人が言ってくれたんだけど、そもそも長嶋さんじゃなかったら選ばれてなかったっていうのがあるから」

■BIGBOSS新庄と過ごした六本木と実家の夜

2022年のプロ野球界の話題を独占している、BIGBOSSこと北海道日本ハムファイターズの新庄剛志監督。川尻さんとは、入団した1995年から大リーグに挑戦する2000年までチームメイトだった。

「嫌味のない真っ直ぐな性格で、身体能力も凄まじいし、野球に取り組む姿勢も素晴らしい。あ、こういうのがスターって言うんだなって思ったね。ノーヒットノーランしたあとに、千葉マリンの試合後だったかな? “ジリさん、お祝いしましょうよ”って言ってくれて。

二人きりでタクシーに乗って六本木に行って、散々飲んで遊んだんだけど、会計のときに俺が年上で先輩だから支払おうとしたら“ジリさん、それはダメです、お祝いなんですから”って。お互い譲らなくて結局、割り勘にしたのかな(笑)。後輩と割り勘したのは後にも先にも新庄だけだね。メディアでは奔放に見せてるし、もしかしたら失礼な振る舞いをする人って思われてるかもしれないけど、すごく気遣いの人だよ」

2000年のオフにFA宣言をして、大型契約を蹴って大リーグに挑戦することになる新庄。その年の日米野球のときに極秘でニューヨーク・メッツと面会し、大リーグ行きを決断したというのは知られている話だが、実はこの時、川尻さんの実家に足を運んでいたのはあまり知られていない話だ。

「俺も新庄も日米野球に選ばれてたんだけど、東京ドームの試合後にいきなり“ジリさんの実家に遊びに行っていいですか?”って。俺はなんでだろうな、と思いながら、“うん、いいよ”って言って、両親や家族は寿司を取って大喜び。そこで何を話したかは……全然覚えてないんだよなぁ(笑)。でも当時、俺は大リーグに行きたいって周りにも言ってて。もしかしたら、そのことを話したかったのかもなって、大リーグ行きのニュースを見たときに思ったよね」

今年から北海道日本ハムファイターズを率いるBIGBOSS新庄。その手腕に川尻さんも期待を寄せる。

「やっぱり、いろいろ見てても華のあるスターだよね。戦力的に揃っているかっていうと、厳しいことを言わざるを得ないんだけど、育成も選手の見極めも全部わかってやってると思う。清宮(幸太郎)が新庄に言われて痩せたってニュースになってたけど、チームが変わるためには、まず選手の意識を変えないといけない。心から今年の日ハムには頑張ってほしいなって思うね」

▲BIGBOSS新庄の話になると、自然と笑顔があふれる

■川尻が見た野村克也、星野仙一の素顔

選手の意識を変える、というと、1999年から阪神の監督に就任した野村克也。前年までヤクルトの監督だった野村を引き抜いて、阪神の監督に据えたのは、当時大きな話題となり、ダメ虎と揶揄された阪神タイガースが変わった大きなきっかけとなった。

「やっぱり実績もあるし、素晴らしい監督だったよね。正直、野村さんが来るまで本当に弱かったし、もう4月くらいの時点で“あ、今年も優勝は無理だな”ってみんな思ってたから。だから、今のタイガースの選手たちが優勝争いをしてるのを見ると、羨ましいなって思うよ。他の人がどうだったかわからないけど、やっぱり負けるのは悔しかったし、シーズン序盤にはチームのことより個人成績のことばかりになってたから」

野村克也を招聘した1999年から2001年は3年連続最下位。しかし、華はあるが波があった新庄を4番に据え、若手を積極的に登用するなど、その後のタイガースの礎を作ったのは間違いない。

「結局は最下位になっちゃったけど、99年も一瞬首位に立ったし、それまでみたいなヨーイ、ドン!からもうダメだ、みたいなのはなくなったね。あと野村さんは茶髪とヒゲが本当に嫌いで、当時調子が悪くて2軍にいたんだけど、コーチから“ヒゲ剃ったらすぐに1軍に上げてやる”って言われて、俺も腹立ったからそのままにしてて(笑)」

その後、1軍に上がることになったが、ノムさんはすぐに川尻さんを見つけ、声をかけてきた。

「“おい、ヒゲどうなっとるんや”って。俺も“じゃあ新庄は茶髪ですけど、あれは良いんですか?”って言い返したら、野村さんが“うーん”って何も言えなくなっちゃって(笑)。結局、松井(優典)ヘッドコーチから“頼むから剃ってくれ!”って言われて、渋々剃ったんだけど、野村さんは新庄のこと本当にすごく可愛がってたし、認めていたよね」

ノムさんと新庄といえば、1年目のキャンプでノムさんの提案から新庄が投手に挑戦したのも大きなニュースとなった。今でこそ大谷翔平の二刀流が大きな話題となっているが、新庄は元祖二刀流だった。

「ブルペンで見てて、全然投手のフォームじゃないんだけどすごい球がいってて、もしかしたら中継ぎとか抑えだったらいけるかも、と思ってた」

しかし、二刀流挑戦は新庄が膝を痛めたことにより幻となる。

「あれも、あとから聞いたら“怪我したからやめたんじゃないんです、投手に飽きちゃって”って(笑)。新庄らしいよね」

▲使われなかった時代の話になると顔が険しくなる

2002年からは闘将と呼ばれる星野仙一を招聘。2期続けて外様の名将を招聘し、タイガースは変革しようとしていた。

「やっぱり人間的な魅力がスゴかったな。野村さんも本当に野球のことを良くわかっていたし、素晴らしいところもたくさんあったんだけど、前に話した藤田(平)さんみたいに不器用な人だったから、じゃあ果たして野村監督を絶対に胴上げしたか選手がどれだけいたか、って話なんだよね。その点、星野さんを胴上げしたいって人は当時の阪神にたくさんいたと思う」

実はここにもこぼれ話がある。ノーヒットノーランを達成したとき、相手チームの監督は星野仙一。試合中、ヒットかファーストのエラーかで微妙なタイミングがあった。その時、星野は相手チームにも関わらず「今のはヒットやない! エラーや!」と叫んだという。

「それを後々、ドラゴンズの選手から聞いてうれしかったな。相手チームの監督としてよりも、投手としての星野仙一が勝つってすごく良いよね」

星野監督のもと、大幅に補強し、血の入れ替えを敢行した阪神タイガースは2003年に優勝を果たした。しかし、川尻さんはその年、満足のいく成績を残せず、2軍にいる日々が続いた。

「さっきも言ったけど、どんなに人間性が合わなくても、やっぱり使ってくれる監督とチームのことを好きになるし、2軍でどれだけいい結果残しても、上げてもらえなかったらモチベーションは下がっていくよね。優勝決定間近のとき、これまでの功労者ってことで1軍に上がってもいいよって言われたんだけど、でもその年は全然貢献してないし、“大丈夫です”って断っちゃった。リーグ優勝の瞬間はテレビで見たね」

その年のオフ、前川勝彦との交換トレードで大阪近鉄バファローズに移籍する。

「これも最初は戦力外通告だったんだよ。“来年からいりません”って言われて、俺が“ここまで頑張って、その仕打ちはさすがに酷いんじゃないか”って言って、その場は終わって。そしたら、そのあと近鉄の関係者の人に喫茶店に呼ばれて、“やる気はあるのか?”とか“年俸はいくら出てる?”とかいろいろ聞かれて、その後トレードって形になったんだよね。阪神が引き取り手を探してくれたのかもしれないし、裏では決まってたのかもしれないし、そこは未だによくわからないね」

■球団がなくなる!? そのときに川尻は・・・

晴れて近鉄バッファローズの一員となった川尻さん。しかし、その年にプロ野球界を激震させる大事件が起こる。近鉄とオリックスの球団合併に端を発した球界再編である。

「当時、内部にいても全然そんな雰囲気は感じなかった。日経新聞に「近鉄身売り! オリックスと合併」って大きく載ってて、選手も「日経ってことは本当っぽいな」って気づくレベル(笑)。でも、選手のなかでも温度差はあったかな、別に俺たちは野球してれば良いやって人もいれば、俺とか岩隈とか吉田豊彦さんとかは、率先して球場の入り口に立って、合併反対の署名を集めて。自分のツテを頼って議員さんやスポンサーさんを訪ねて署名に協力してもらったり、知恵を貸してもらったり」

今でこそセ・リーグとパ・リーグの格差はなくなったが、当時は巨人がいるセ・リーグが中心に物事が進むことが多く、近鉄とオリックス以外の合併も囁かれ、1リーグが現実的となっていた。

「でも、球団が減るってことは、それだけクビになる選手が生まれるってことで。今も野球人気の低下が叫ばれているけど、球団が1つ無くなるってことは、それだけ選手にもファンにも大きな影響を及ぼすことなんだよね。果たして、当時の選手がどこまでそれを理解していたか。署名が直接12球団存続につながったかはわからないけど、世の中に選手とファンは1リーグに反対している、という姿勢を見せられたのは良かったかな」

その後、近鉄とオリックスの合併は予定通り行われたが、楽天が新規参入することになり、2リーグ12球団は存続された。分配ドラフトの結果、川尻さんは新球団である東北楽天ゴールデンイーグルスに入団する。

「だから、所属している球団がなくなって、新しい球団の1年目に所属していたって、かなりレアな体験をしているよね(笑)。楽天の1年目は、オリックスと近鉄がプロテクトした選手から外れた選手を楽天が取る、みたいなチーム構成だから、殆ど寄せ集めに近い感じだったかな」

そのチームにあって、川尻さんはわずか2試合の登板で1勝も上げることができず、その年で現役を引退する。

「直接の原因は肉離れだったんだよね。投内連携の練習をしていたんだけど、そのときのコーチが熱心で。今思えば、練習だからそこまで気合い入れてやらなくてもよかったんだけど、タッチプレーの練習でランナーがちょっとフェイントをかけたときに、俺もつられて動いたら、スパイクが人工芝の切れ目に挟まって、それで肉離れ。

本拠地も仙台だから寒くて、リハビリも思うように進まなくて、でも治ってからは2軍で抑えてたんだけど、なかなか呼ばれなくて。そこから1軍で2度先発のチャンスをもらったんだけどダメだったね」

川尻さんは家族に「これでダメだったら諦める」という言葉をかけ、トライアウトを受験。しかし、どこからも声がかからなかった。

「自分の中では悔いなくやったなって気持ちだったし、どこからも誘われないなら、そこが辞め時だなって。もともとプロになれるって思ってなかった男が、丸11年プロの世界にいれたわけで、そこはもう幸運だったし、幸せだった」

現役を引退した川尻さんは、楽天のジュニアスクールのコーチや、野球解説者、独立リーグのコーチや監督を務めている。

▲お店に来るお客さんとの交流は川尻にとって楽しみの一つだ

「やっぱり野球の話をするのは好きだし、教えるのも楽しい。でも野球以外のこともやってみたいなっていう気持ちもずっとあって、それでこの新橋で「TIGER STADIUM」ってお店をやってるんだよね。

取材した私は北海道出身のタイガースファンで、子どものときに円山球場で川尻さんからサインをもらったことがある。円山球場のフェンスは低く、大勢の子どもたちが金網越しにサインをせがみ、選手はそれをいなす、というのが通常の風景だったのだが、川尻さんは黙々と、100人近くの子どもたちにサインをしていた。帽子をグラウンドに落とすと、その帽子にもサインをしてもらった、良い思い出だ。

「そういえば、そんなことあったかもね、なんて(笑)。でも、サインをするのは本当に苦じゃなかったんだよね、みんなすごく喜んでくれるし、こうやってお店をやっていても“あの時、川尻さんにもらったサインです! あれからずっと阪神ファンです!”って言ってくれる人が多くて、ああ、あのときに面倒くさがらずサインして良かったなって思うよ」

ダメ虎、と呼ばれた時代を知るファンは、関西以外で肩身の狭い思いをしたことを懐かしく、苦々しく思うかもしれない。

「今でこそタイガースファンは全国にいるけど、当時は関東で阪神ファンが集える場所って少なかったから、そういう人たちの憩いの場になったら良いな、と思ってこのお店をやってるのは大きいね。やっぱり、人が喜んでくれるのが何よりうれしいから」

店内では、プロ野球中継を見ながら川尻さんの生解説が聞ける。

「来てもらった人はわかると思うけど、俺はけっこう辛辣だから、ここでは書けないような批判もちゃんとするよ(笑)。でも、根底にあるのはタイガース、そしてプロ野球に対する愛だから。今年の阪神は……どうだろう、さっき言ったみたいに、今年で最後の矢野監督を絶対に胴上げしたい、って選手がどれだけいるかだと思うんだよね。

あと、去年の後半戦の佐藤(輝明)、潜在的なものはすごい山(俊)がどうなるか、ちょっと心配なのと、自分とちょっとフォームが似てる青柳(晃洋)には頑張ってほしいな。こういうのも聞かれたら全部答えるから、タイガースファンに限らず、お店に来てほしいね」

▲背番号19は今なお光り続ける

「スカウトに声かけられなかった」川尻哲郎の運命を変えたサイドスロー | 俺のクランチ | WANI BOOKS NewsCrunch(ニュースクランチ)( https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/2950 )

■プロフィール

川尻 哲郎(かわじり・てつろう)

1969年1月5日生まれ。日大二高-亜細亜大-日産自動車(1994年4位)‐阪神タイガース(95〜03)‐大阪近鉄バファローズ(04)‐東北楽天ゴールデンイーグルス(05)。通算60勝72敗3セーブ

タイガースタジアム( https://tiger-st.com/ )

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