手紙にカミソリ、噛ませ犬…“タイガーvs小林”“藤波vs長州”がもたらしたもの
2022年11月09日 07時00分WANI BOOKS NewsCrunch
2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1982年の“リアルファイト”を再検証する!
日本にプロレスが持ち込まれて以来、これまで何度か大きなブームが起こってきたが、テレビ黎明期の力道山時代を除けば、80年代初頭に起こったプロレスブームこそが最大のものだろう。
特に新日本は、全国で年間250近く組まれた興行が、ほとんど超満員の大入り続き。テレビの視聴率は、裏番組に『太陽にほえろ!』『3年B組金八先生』といった強力な番組があったにもかかわらず、平均で25%以上を獲得。“過激なアナウンサー”古舘伊知郎の名調子に乗って、まさに社会現象を起こしていた。
その空前のプロレスブームの原動力になったのが、タイガーマスクの出現であることは言うまでもないだろう。アニメの世界から実際のリングに飛び出したタイガーマスクは、カンフー映画を思わせるキレのある蹴り技と、リングを所狭しと動き回り、華麗な飛び技を繰り出す斬新な戦いぶりで人気爆発。子どもを中心に、これまでプロレスに興味を持っていなかった層までも虜(とりこ)にさせた。
「タイガーマスクの人気は本当に凄まじかったね。これまでのプロレス会場とは、客入りから熱気、雰囲気まですべてを変えてしまったよ」
そう語るのは、“虎ハンター”と呼ばれ、全盛期のタイガーマスクと熾烈なライバル抗争を繰り広げた小林邦昭だ。
小林は昭和57年10月、人気絶頂だったタイガーマスクに突如、牙を剥き、虎のマスクを引き裂いて素顔を晒そうとするなど、タイガーの敵役として、最も印象を残したレスラーの一人。
当時はタイガーマスクファンの憎悪を一身に浴びていたが、その素顔は、タイガーが覆面レスラーに変身するまえ、素顔の佐山サトルとして戦っていた若手時代に、最も仲の良かった兄弟子でもあった。そんなタイガーマスクを誰よりもよく知る小林に、まずはそのルーツである佐山サトル時代から語ってもらった。
■佐山の動きは若手時代から“タイガーマスク”だった
「佐山が新日本プロレスに入門してきたのは、たしか昭和50年だったと思うけど、当時彼はまだ17歳。身長が低くて童顔だから、子どもみたいだったよね。あの頃の新日本は、まだ選手の数も少なかったから入門が許されたんだろうけど、身長170センチそこそこだったから、普通だったらプロレスラーにはなれない体だった。
ただ、運動神経はズバ抜けてましたよ。ある日、夕方に『ちょっと走りに行ってきます』って言ったきり、1時間半くらい帰ってこなかったんで、どこまで行ったのかと思って聞いてみたら、『渋谷のロータリーまで走って、折り返してきました』って言うんだよ。(世田谷区野毛(のげ)の)道場から渋谷まで走ったら、往復で20キロ。それを体重背負ったレスラーが軽く走るんだからね。
ほかにも、縄跳びやれば2時間ノンストップだし、タイガーマスクのあの動きは、そういった基礎運動能力からきてるんだと思うよ」
当時の新日本プロレス道場は、練習の厳しさでは特に定評があり、耐えきれなくなった練習生が次々と夜逃げしていくことで有名だった。そんな道場での地獄の練習のあと、佐山はさらに出稽古も行なっていたのだという。
「佐山は道場での合同練習が終わったあと、みんなに内緒でキックボクシングの目白ジムに通ってたんですよ。当時の目白ジムと言えば、“鬼の黒崎”と呼ばれた黒崎健時さんの指導で、格闘技の世界でもその厳しさは日本一って言われてたところでしょ? そこへ新日本の練習が終わったあとに行って、藤原敏男、島光雄といった一流キックボクサーと一緒に練習してたんだから、考えられない練習量だったと思うよ。佐山はそれだけ強くなりたいという思いが、人一倍強かったんだと思うね」
もちろん練習だけでなく、プロレスの試合でも佐山サトルはモノが違ったという。
「若手の頃は、メインイベンターが使うような派手な大技は使っちゃいけない、という暗黙のルールがあるんだけど。そういった制約されたなかでも、佐山は必ずお客さんを沸かせていた。誰もが使う基本的な技でも、佐山が使うとスピードとキレが全然違うので、派手な技に見えてしまうんだよね。だから、佐山は若手の頃から“タイガーマスク”だったんですよ。大技を使わないだけで、動きは段違いだったから」
こうして、小兵にもかかわらず、デビュー後すぐに頭角を現わした佐山は、78年にキャリア2年で早くもスターへの片道切符とも言うべき海外遠征に出発。ルチャ・リブレの本場メキシコに渡ると、サトル・サヤマのリングネームで、現地のメジャータイトルであるNWA世界ミドル級王座を獲得するなど大活躍。さらに80年にはイギリスに渡り、“ブルース・リーの従弟”という触れ込みでサミー・リーを名乗り、英国マットに参戦すると、現地で大ブームを起こしたのだ。
このサミー・リー人気は、のちに佐山自身も「“タイガーマスク”は日本に突然現われたんじゃなくて、イギリスでもう出来上がってたんですよ。サミー・リーの人気は、日本でのタイガーマスク人気以上でしたから」と語るほどだった。
そんなイギリスで大ブレイクしていた佐山のもとに、81年春、新日本プロレスから帰国命令がくだる。イギリスでのスケジュールを理由に、佐山は一度はこれを断るが、「一試合だけでいい」と説得され帰国。ひさびさに日本に戻ってきた佐山に用意されていたのが、虎のマスクだった。
この時期、テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始されており、これに合わせて、同じテレ朝系で放送されていた新日本プロレスのリングでもタイガーマスクを登場させるという、今で言う“メディアミックス”の企画として、佐山に白羽の矢が立てられたのだ。
しかし、急ごしらえで作ったマスクやコスチュームは粗悪なものであり、また当時シビアな格闘プロレスを標榜していた新日本プロレスのリングで、漫画のキャラクターとして登場させられることに、本格指向の佐山は激しく落胆したという。
そして81年4月23日、蔵前国技館。佐山は「一試合だけ」と自分を納得させ、嫌々ながらタイガーマスクとして、ダイナマイト・キッドと対戦。
出来の悪いマスクを被った漫画のキャラクターレスラーの登場に、最初は客席から失笑も起きていたが、いざゴングが鳴り試合が始まると、その空気は一変。タイガーの一挙手一投足に歓声が上がるようになり、最後に“プロレス技の芸術品”とも言われるジャーマンスープレックスでキッドを破ると、場内は大歓声に包まれた。
テレビのゴールデンタイムでも放送された、このインパクトは絶大であり、タイガーマスクはこうして一夜にしてスーパースターとなり、一試合のはずがずっとレギュラーで日本に定着することになったのだ。
■小林のマスク剥ぎで引き出された“怒りのタイガー”
このタイガーの大ブレイクを小林は、修業先のメキシコで聞いたという。
「当時、日本とメキシコ両方で活躍していたグラン浜田さんから『佐山がタイガーマスクに変身して、すごい人気だぞ』って聞いたんですよ。そのときは、同じ釜の飯を食った仲間の成功に対し、素直に『良かったなあ』と思いましたけど、翌年、僕が帰国して、そのタイガー人気を実際に目の当たりにしたとき、それはジェラシーへと変わったね」
小林は82年10月8日、後楽園ホールで帰国第1戦を行なうが、試合は興行の前半で組まれた、なんの変哲もないタッグマッチ。看板スターである猪木を上回る人気を誇っていたタイガーマスクとは、大きな“格差”が生まれていた。
「僕の帰国第1戦のとき、ちょうどメインイベントで長州が“噛ませ犬発言”をして、藤波さんに対して造反したんですよ。そのとき、頭をよぎったのは『俺もこのままじゃいけない』っていうことですよね。若手時代から仲の良かった佐山は、いまや猪木さん以上の大スターだし。同じ時期にメキシコにいた長州も、あの発言以降、時の人となって違う次元に行った。
それに対し、僕はなんでもない中堅レスラーだったから、『自分も何かアクションを起こさなきゃいけない。長州が藤波さんに突っかかるなら、俺は大スターになった佐山に突っかかるしかない』と思って、広島で突っかかったんだよね。あれをやらなかったら、僕なんかあのまま埋もれて終わってましたよ」
小林は10月22日の広島大会で、試合前のタイガーマスクを急襲。それを受けて、10月27日に大阪府立体育会館でついに一騎打ちが組まれると、反則もお構いなしにラフで攻め立て、ついにはタイガーの覆面をビリビリに引き裂いて剥いでしまったのだ。
マスクマンの覆面に手をかけるというのは、プロレス界のタブーのひとつ。そのタブーを、よりによって子どもたちのスーパースターであるタイガーマスクに対して破ったことで、大阪府立体育会館は騒然となる。タイガーの覆面が剥がされたときには、会場の各所から大きな悲鳴があがった。
「あのマスク剥ぎというのは、覆面レスラーの本場であるメキシコマットでも、いちばん観客が興奮するシーンなんですよ。だから、抗争が始まったときから狙ってましたよ。あのとき、タイガーマスクのライバルだと、ダイナマイト・キッドもヒール的な戦いをしていたけど、マスクにまでは手をかけなかった。あの虎のマスクは神聖なもののようになっていたからね。
だから、それを破って剥いだあとが大変でしたよ。ウチの実家のほうにも嫌がらせがあったし、僕のところには全国から不幸の手紙みたいなのが届いて、真っ赤な字で『小林、死ね!』とか『お前なんか、生きてる価値はない』とか、書かれましたからね。あとはカミソリを仕込んだ手紙もあって、封を開けたときに親指をザックリ切ってしまって、未だにその傷は残ってますよ。
でも、そういう手紙が大量に届いて、内心『やった!』と思いましたね。あれでなんの反響もなかったら、僕は終わりだったんだから」
禁断のマスク剥ぎのインパクトは絶大であり、ここからタイガーマスクと小林邦昭の抗争がスタート。これによって小林はブレイクしたが、タイガーマスクもこの抗争によって、これまでとは違う新たな魅力を見せ始めた。
「僕と抗争が始まるまでタイガーマスクは、メキシコのマスクマンとの対戦が多かったんだよね。そうなると、どうしても飛んだり跳ねたりのルチャ・リブレの試合になる。でも、佐山はシビアな戦いを求めていたはずだから、それは本意じゃなかったんだと思う。だから、若手の頃から新日本プロレスのストロングスタイルでやり合っていた僕っていうのは、佐山にとっても燃えられる相手だったんじゃないかな」
衝撃のデビュー以来、タイガーマスクは、毎週次々と現われる敵を華麗な技で倒していく完全無欠のヒーローだった。ある意味、子ども向けの特撮ヒーローやアニメの主人公とやっていることは同じでもあった。
しかし、小林という宿敵を得たタイガーは、破られたボロボロのマスク姿で怒りを全面に出しながらケンカ腰で戦う、これまでとは違うスタイルに変化した。これによって、タイガーは子どものファンだけでなく、高校生・大学生や大人のファンも多数獲得する。そして、この激しい抗争によって、タイガー人気とともに、小林のアンチ・ヒーロー人気も爆発。こうしてタイガーマスクが生み出したプロレスブームは頂点を迎えるのであった。
■藤波長州の名勝負は生き残りを賭けた“リアルファイト”
一方、タイガーマスクvs小林邦昭と同時進行で、もうひとつ、プロレス界の歴史に残る抗争が勃発した。それが藤波辰巳と長州力による、“名勝負数え唄”と呼ばれた一連の戦いだ。
その抗争が始まるきっかけとなった“事件”は、1982年10月8日後楽園ホールのメインイベント、アントニオ猪木&藤波辰巳&長州力vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&バッドニュース・アレン&SDジョーンズの6人タッグマッチで起こった。
この日がメキシコからの帰国第1戦だった長州は、現地のメジャータイトルUWA世界ヘビー級王者となって帰国したにもかかわらず、これまでと同様に藤波より“下”の扱いであることに不満を露わにし、試合前から味方である藤波と試合そっちのけで小競り合いを展開していた。
そして、ついに試合中に仲間割れを起こし、マイクを握ると「なんで俺がいつまでもお前の下なんだ。俺はお前の噛ませ犬じゃないぞ!」と、藤波に宣戦布告を行なったのだ。
それまで長州は、ミュンヘン五輪レスリング代表選手として鳴りもの入りでプロレス入りしたものの、なかなかブレイクできずに燻ぶっていた。中肉中背で頭にパーマをあてたルックスや、ファイトスタイルはいかにも地味であり、「長州力」というリングネームもビートたけしにギャグで使われる始末。
ところが、不退転の決意で渡ったメキシコ遠征で、浅黒く焼けた肌に長髪というワイルドな風貌に変身。そして、不遇の時代が長かったからこそ、「お前の噛ませ犬じゃないぞ!」という長州の叫びは真に迫っており、その結果、多くの人々の共感を呼び、一躍時の人となった。
一方、噛み付かれた側の藤波もまた、自分のポジションに焦りと危機感を持っていた。
藤波は78年にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで、カルロス・エストラーダを初公開のドラゴン・スープレックスでくだし、WWWFジュニアヘビー級王座を奪取。シンデレラボーイとなり、これまで大男同士の戦いだけであった日本のプロレス界に、ジュニアヘビー級という新たなジャンルを開拓。これまでにないスピーディな戦いで“ジュニアヘビー級ブーム”を作り上げたが、タイガーマスクの登場とともにジュニアを卒業して、ヘビー級に転向した。
一見、順風満帆に見えるレスラー人生だが、実は長州と同じような悩みを持っていたと藤波は言う。
「僕はあの当時、ヘビー級に転向したものの、ジュニアのイメージがなかなか抜けなくて、もがいていたんだよね。僕がいくらヘビー級の外国人と戦っても、ファンは『ジュニアの藤波が、ヘビー級のハルク・ホーガンやディック・マードック相手にどれだけできるか』という、チャレンジマッチ的な見方しかされなかった。あまりにもジュニアヘビー級で成功してしまったがために、ヘビー級に脱皮するのが難しかったんだ。
また、ヘビー級だとどうしても猪木さんと比較されるし、タイガーマスクがいるから、今さらジュニアヘビー級にも戻れない。自分のポジションを築けずに、焦っていたんだ」
そんななかでの“格下”長州力からの宣戦布告は、藤波にとって当初は迷惑でしかなかった。
「自分としては、“早くヘビー級のトップに食い込まなきゃいけないのに、お前に構ってる暇はないんだよ!”っていう思いがあったよね」
歌の世界でたとえるなら、当時の長州は鳴り物入りでデビューしながら、なかなかヒット曲が出なかった歌手のようなものであり、対する藤波はアイドルとして人気を博したがために、大人の歌手への脱皮に苦しんでいたような状態だったのだ。
だが、そんな追い込まれた二人の戦いだからこそ、試合はこの世界での生き残りを懸けた“ガチンコ勝負”となった。
「長州は『これでダメだったら、もうプロレスを辞めよう」と決心していたわけでしょ? 僕は僕でジュニアに戻れないし、ヘビー級ではなかなかトップに食い込めない焦りがあった。だから長州との戦いというのは、どちらか落ちたほうが、ヘビー級のトップクラスへの道が閉ざされるということを意味する、ある種の“真剣勝負”だったんだよね。
だから、あの噛ませ犬発言のあと、最初の一騎打ちは(10月18日の)広島だったんだけど、もうケンカまがいの意地の張り合いで、どっちかが死んじゃうんじゃないかっていうくらいの試合だったからね。結果はノーコンテスト(無効試合)になったけど、あんなにやり合ったノーコンテストは今までなかった。
だから、当時は何度も夢で見ましたよ。長州との戦いで、ひとつでも落としたら、俺はそこから脱落で、プロレスラーとして自分の出番はなくなるって。それぐらい切羽詰まった気持ちはありました」
■タイガーマスクと名勝負数え唄によって変わるプロレス
藤波といえば、ジュニアヘビー級時代も剛竜馬、阿修羅・原、木村健吾といった日本人のライバルが存在したが、長州との抗争は、それらとはまったく違う意味合いを持っていたという。
「剛や原、木村っていうのは、僕がジュニアのチャンピオンとして、一つひとつクリアすべき相手だったんだよね。あくまで主役は僕で、彼らは“僕の対戦相手”でしかなかった。でも、長州との抗争はそれとは全然違っていて、どちらが主役の座を奪うかという本当の戦いだったんだよ。自分が下手を打ったら、その座がなくなるという、すごくシビアなシチュエーションだったんだ」
そんな生の感情がぶつかり合う試合は、回を重ねるごとに白熱。ファンも藤波派と長州派にまっぷたつに別れ、どちらのファンというより、「どちらの生き方を支持するか」という意味合いすら生まれてきた。
「だから長州と試合すると、試合前とか試合後に長州のファンからたくさん物を投げられましたからね。僕らも本気だったけど、ファンも本気だったんですよ」

▲藤波辰巳と長州力による「名勝負数え唄」に若者たちは熱狂した
そして、この抗争はいつしか「名勝負数え唄」と呼ばれるようになり、若者たちの圧倒的な支持を得ていく。
「いま思うと、よくあそこまでやり合ったなって思うけど、当時は僕が28歳で長州が30歳。コンディションも良くて、いちばん動けるときだったし、なにより気持ちが乗っていたよね。僕と長州の試合というのは、それまで絶対的な存在だった猪木さんを、ある意味で食っていたと思うし、長州vs藤波があれだけ盛り上がると、猪木さんの性格からすると、面白くなかったと思うし、ものすごくイライラしたと思うよ(笑)」
このとき、猪木はすでに39歳。糖尿病を抱えコンディションも万全とは言えず、藤波と長州の急成長を力で押さえ込めなくなっていた。タイガーマスクは人気で猪木を上回り、藤波と長州は試合そのもので猪木を上回り始めたのだ。
さらに時を同じくして、猪木は個人的な事業であるアントンハイセルが火の車となり、その莫大な借金は新日本プロレスの経営までも圧迫。大ブームであるはずなのに、会社にはカネがないという、不透明すぎるカネの流れにより、新日本内部はグチャグチャになり、圧倒的な権力者であったはずの猪木はリング上でも、リング外でも急速に求心力を失っていったのだ。
そして、ついには内部のゴタゴタが原因となり、83年8月10日にタイガーマスクが突然の引退を発表。翌84年9月21日には、長州、小林ら維新軍が新日本プロレスを退団し、ジャパンプロレスの設立を発表する。
こうして絶頂期からわずか1年あまりで、新日本プロレスは崩壊の危機に瀕し、プロレスブームも終焉を迎えた。
タイガーvs小林と藤波vs長州、二つの抗争によって頂点を極め、その抗争が終わるとともに終焉を迎えた空前のプロレスブーム。しかし、この二つの抗争がのちのプロレス界に与えた影響はあまりにも大きい。
まず、試合開始直後からトップギアに持っていくような長州と藤波の戦いぶりは、“ハイスパートレスリング”と呼ばれ、それまでの序盤からフィニッシュまで、じわじわと盛り上がっていくプロレスのスタイルを劇的に変えてしまった。
さらに長州と小林ら維新軍のアンチ・ヒーロー人気により、ベビーフェイスvsヒールという図式が崩れ、力道山時代からの伝統であった日本人vs外国人の戦いも、日本人同士の闘いへと変わっていった。
タイガーvs小林、長州vs藤波の抗争は、プロレスを劇的に進化させたが、勧善懲悪という伝統的なフォルムを崩したことで、プロレスは子どもからお年寄りまで誰もが楽しめる大衆娯楽から、マニアックなファンが熱狂的に支持するサブカル的なジャンルへと変わっていったのだ。
タイガーマスクの出現と、長州力vs藤波辰巳の名勝負数え唄は、そのあまりのインパクト故に、プロレスを根本から変えてしまった。
1982年のプロレスブームとは、そんな巨大な転換期であったのだ。
※本記事は、堀江ガンツ:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
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